大きな水玉模様の自他境界
ネット上で奇妙な人から絡まれた時の対処法
この人物は以前からこのブログに張り付いているようで、普通の人であれば起きていない早朝にアクセスしてくる。調べてみると、なぜ早く起きる必要があるのかについても分かった。録を見るのは構わないが、精神的に不安定になるたびに絡んでくるので鬱陶しい。またやり始めたぞというフォロワーからの連絡で確認してみると、相変わらずだなと思った。ブロックリストに登録して無視することにした。
最初に言っておくが、その人物が何を主張しようが、私はブロックしているので何も受け取らない。
また、当該人物はすでに特定されて、分析が始まっている。住宅ローンが随分と残っているのにレールを踏み外すわけにもいかないだろう。
私は非常に不愉快になったので、このような人物について長文を記す気にもなれない。直接的に攻撃があれば相応に対応する。
この人物のように、尋常ではない勢いでなりふり構わずネット上で絡むユーザーを目にすることがよくあるが、この人たちはロールプレイングゲームの冒険者のようだ。人生をかけて欲求を充たそうとしている。しかし、画面の向こうにはリアルな人間がいる。
私自身が弁護士ではなかったとしても、兄弟や親戚が弁護士資格を持っている可能性はあるわけだ。あまつさえ、大学の同級生に安価で相談が可能な弁護士がいる蓋然性は高い。
ネット上で絡むと危険な存在であっても、仲の良い友人であれば何ら問題ないことだろう。しかし、その人物は私の友人でもないし、会ったこともない。
私の録にアクセスするのは構わないが、鬱陶しいのでレスポンスも絡みもいらない。ストイックな生活が続く毎日なので若くても熟年でも女性のファンがいれば大歓迎だが、濃い顔の中年男性のファンがいても嬉しく感じない。
しかも、美人な奥さんがいる中年男性は、私にとって嫌悪の対象だ。友達にはなれない。
とにかく、意識の中で私は死んだということにして、この録にもアクセスしないことだ。
さて、私は若い頃から「自他境界」という存在にとても関心を持っている。当然だが、自分という存在があって、自分の頭の中には自我が存在し、自分を自分として認識する。
併せて、自分の頭の中には自分だけがいるのではなくて、他者も存在している。正確には他者の「情報」であり、ニューロンを伝う電気信号に他ならない。では、頭の中にいる自分という存在はそのような他者と別個の存在なのかというと、そうでもない。
なぜなら、自分という意識を形成している存在もまた、ニューロンを伝う電気信号だからだ。脳の中で自分を認識することができなくなれば、自分の身体はあるが、本人にとっての自分という存在がなくなる。
つまり、頭の中に「自分」がいて「他者」がいるという状態は、とりわけオカルトでもなんでもなくて、人類が社会性を獲得し始めた大昔から続く性質というわけだ。
頭の中の「自分」と「他者」という関係においては、当然だがどこまでが自分の情報で、どこまでが他者の情報なのかを明確に線引きする必要がある。
波打ち際をイメージすると、砂浜が「自分」だとすれば、そこから先の海が「他者」というような関係だな。
だが、自分と他者は完全には線引きすることができなくて、自分の中に他者の情報が入り込んだりもする。
その大きな例が、最近になって生じた元首相の銃殺事件だと私なりに思う。
ネット上を眺めてみると、政治家が命を失ったというニュースを知ってあまりに大きな衝撃を受けて動揺している人たちが多く認められた。その政治家が偉大だったとかそうではなかったとか、そのような意味ではない。
多くの人たちの脳内において、その政治家の情報が自他境界を通り抜け、他者ではなく自分の情報となっていたと私なりに理解した。その政治家の姿が、自分の生きた時代のアイコンとして存在し、自分の人生のマイルストーンのような状況になっていたのかもしれないな。
とりわけ、ツイッターで自分のことを発信し続け、他者の発信を受け続けているような人たちは、どこまでが自分でどこまでが他者なのかという境界が入り組んでしまうのかもしれない。もしくは、自分の存在を他者と融合させたくて、あえてネット上に自分のアバターを投影しているのかもしれないが。
私なりには先の事件をどのように感じたのかというと、あの警備体制では無敵の人からのプロテクションは難しいと思ったり、県警本部長や関係する管理職においては出世の道が閉ざされただろうなとか、マスコミがこれから激しく動くだろうなとか、この状態でガロン級の輸血をしたところで助からないが立場としてそうせざるをえなかったのだろうなとか、色々なことが頭を巡った。
しかし、私自身は精神的に何のショックも受けていないし、動揺もしなかった。人の死を眺め続けてきたという経緯があるからかもしれないが。
発達障害を有しているであろう私の自他境界はモザイク状になっていて、自己という存在がバラバラに分散し、その間に他者の情報が組み込まれているような実感がある。
これが発達障害者に共通のパターンとは言いがたく、多くの場合には、自分と他者の情報が頭の中で「グラデーションの色彩」を構築するかのように曖昧になっているらしい。
青色が自分、赤色が他者と仮定すると、左側から青色、右側から赤色の色彩が広がり、両者が混ざり合っているという解釈だろうか。
本来の自他境界であれば、青色と赤色の境目が明瞭になっているはずだ。しかし、先の自他境界の場合には青色と赤色の境目が存在せず、大部分が紫色のような状態になっているとイメージすると分かりやすい。その場合の実際の言動がどうなるか。
「自分がこのように考えているから、他者も同じように考えている」と思い込んで行動してしまうらしい。
「空気が読めない」という表現がある。本人にとっては空気を読もうとして行動あるいは発言したことでも、他者から見ると的外れというパターンだ。そのようなミスマッチがどうして生じるのかというと、自他境界で自分と他者が混ざってしまうからなのだろう。
私自身の自他境界がモザイク状になったと感じたのは、バーンアウトで感情を枯渇し、生きるか死ぬかという選択に迫られた後だ。これはとても不思議な現象で、以前よりも他者のことが気にならなくなった。
バーンアウトによって自他境界上の自分も砕け散り、その後で自分という存在を探しながら再構築することになったという経緯があるからだろうか。
小規模なスケールで細かく自分と他者が色分けされていて、かつてのように混ざり合わない。「自分は自分」、「他者は他者」という線引き自体はなされている。他者の情報が自分の奥部まで入り込んでくるのは相変わらずだが。
では、冒頭の人物についてはどうなのか。勝手に深層心理を分析してみる。
世の中にはネットで絡んでいい存在と、絡むと面倒な存在がある。IQ140の気持ち悪いオッサンに絡むからこうなる。
まず、1番目の考察点。
この人物の自他境界において、典型的な「自分」と「他者」の区分けができているとは思えない。その意味では自他境界が曖昧になっているとも思える。だからこそ、絡まれた側の気持ちを察することができずに、勢いよく他者のブログなどに絡んでコメントを発するのだろう。
かといって、自分が正しいと思っていることは他者も正しいと思っているというパターンにまで思考が至っているのかというと、そのように感じない。
2番目の考察点。
別の角度から見た場合に気になるのは、リアルな世界で見せている強固なペルソナ。
その人物のリアルを調査すればするほど、この点が気になる。ネット上であれだけ不安定になっているにも関わらず、どうして職場では礼儀正しくてきちんとしたメールを送ることができるのだろうか。
自他境界が曖昧な場合、いくらペルソナを形成して自分を取り繕ったところで、そこまで外的な自分を作り出すことができるのかという点が気になる。
3番目の考察点。
自分への攻撃を避けるために文章までを支離滅裂に曖昧にしてしまうという性質も気になる。そこまで攻撃が怖いのならば、絡まなければいい。どうしてそこまで臆病になった後で自暴自棄になるのか。
最後に、4番目の考察点。
これが極めて興味深い点だが、この人物は奇妙な「模倣能力」を備えている。とりわけ、文章等の言語系の模倣が長けており、コピペではなくて自分の能力として変換してしまう。
しかも、この人物は自身の特性に気が付いていない。その特性が自他境界とどのように関連しているのかを考察すると、この人物を理解するためのヒントが得られる。
おそらく、この人物の自他境界は、自分と他者という双方向によって展開されているのではなくて、自分が塊のようなものを形成して浮かんでいるのではないだろうか。
分かりやすくイメージすると、大きめの水玉模様のような感じ。他者と混ざり合わない自分が浮いていることで神経質で臆病になり、その隙間を他者に埋めてもらわないと不安を覚えるのだろう。だからこそ、ネット上で様々な人たちに絡むというわけだ。
しかし、自他境界における自分は球の中にあり、球の外側の他者との間で明瞭な区分けがなされる。それによって、他者の情報を自分に取り込んでも、これは違う、あれは違うと否定を繰り返し、自分を理解してくれる人はいないのだと自暴自棄になる。この人物の生き辛さは、このような思考のループによるものではないかと推察しうる。
あまつさえ、このような人物が父親となり、同じような遺伝的形質を受け継いだ子供を育てるとどうなるか。仮に自他境界が水玉模様になっている子供がいたとしたら、子育ては厳しい展開になることだろう。
その論理展開であれば、この人物の高い模倣能力の説明がつく。
自分という存在が自他境界において水玉になっているということは、空いた部分がスカスカなんだ。そこに他者の情報を取り込んで使うことができれば、それらは自分の知識やスキルになりうる。
問題は、他者の情報と自己を融合することが難しいという点。また、コピーはオリジナルを凌駕することが難しいという点。
この人物のこれまでの来歴を調べ上げてきたが、おそらく私について何らかの関心を持ち、競争相手として張り合っているように思えた。なるほど、私の録の文体を真似ているように感じるのは、この人物の水玉模様の自他境界に私の情報が他者として吸い込まれて再利用されているということか。
真似をしたところでオリジナルにはたどり着かない。私の録の気持ち悪さは、私自身の気持ち悪さによるものだ。
まさか憧れではないと思うが、競争心なのか、嫉妬なのか。
そもそも、私の学歴や職歴は彼とは全く違う。一浪マーチでブラック企業を経て外資系に雇われて、この職場はホワイトだと喜ぶサラリーマン人生も立派だ。
しかし、私は現役どころか飛び級で銀杏の紋章を授けられて、就職活動は無双だった。日本全国で飼育されているカンガルーよりも数が少ないスペシャリストとして働いている。
また、この人物が美人な奥さんと連れ添っているというだけで、もはや私の生き方はこの人物の足元にも及ばない。張り合ったところで無意味だ。
不思議に感じるのだが、この人物の本名をキーワードとして入力してネットで検索しても、あまりヒットしない。この名前がリアルな氏名だと思うのだが、情報が間違っているのかと不安になるくらいだ。ネットにおいては実像が存在していないように感じる。
仕事だけでなく、社会活動とか、スポーツ大会とか。そういった活動の中でネットに自分が紹介されるはずなのだが。ロードバイクが趣味だという話だが、レースのリザルトにも名前が見当たらない。富士ヒルくらいは毎年出場していると思ったのだが、ローラー番長なのだろうか。
一般的なサラリーマンの場合、ネット上の存在感はこの程度なのだろうか。自分の生き様を他者から把握されないなんて、気持ちが楽で素晴らしいことだな。
ネットは広大だと思いはする。しかし、その世界での個々の存在感はあまりに小さく、匿名のアバターだけが無数に出現しているというわけか。一時期、自分の実名で情報を発信するフェイスブックが流行したり、今でも匿名の世界だからと他者に絡む輩が多い理由は、ネット上で自分の存在を感じることができない寂しさを背景としているのだろうか。
ネットに接続した膨大な数の人たちが無制限に繋がることができるという世界は、便利なようで面倒臭いものだな。
自分のブログやSNSにパスワードをかけて閲覧制限するネットユーザーの気持ちが分かる。
このような録を記すと、先の人物が私の文書を真似て反論するのだろうけれど、その感情を誘導している存在こそが、自らの内面にある水玉模様の自他境界だ。実感すればいい。そして、疑問に感じればいい。自分のオリジナルはどこにあるのかと。
他者からのコピーがないとオリジナルを維持しえないことは無様に映る。しかし、普通の人が有していない模倣能力に繋がっていると思えば、天賦の才に該当しうる。その能力をネット上で不満を吐き散らかすために使うのではなく、ビジネスという生きるための武器として活用すべきだと、私は思うがな。
さて、実際には存在しているが、私の自他境界において、この人物は死んだという認識に変換することにした。
すでに調査は済んでいるので攻撃があれば対処するが、そこまで頭の悪い人物でもなかろう。
...という体で、架空の人物の自他境界をテーマとしたサイコなエッセイを構想してみた。