2022/08/08

ネット上で奇妙な人から絡まれた時の対処法

サイクリングに出かけると、知り合いでもないのに真後ろに張り付いてくる輩がいたりもする。とても気持ち悪い。ロードバイクからミニベロに乗り換えてからは、そのような気持ち悪い人に張り付かれる機会が減った。

私感ではあるが、大なり小なりロードバイク乗りは自己愛が強い人たちが多い。自己愛が高めな割に自他境界が自己側で固まっていて、自分が考えていることが正義だと信じ込んでいたりもする。サイクリングとは別の場面ではあるが、自分の生活録をブログとしてネットに残していると、頼んでもいないのにアクセスしてきて、とやかく言って絡んでくる輩がいたりもする。とても気持ちが悪い。


最も気持ちが悪いのは、私が書いたログを自分への批判だと曲解して、プラズマ波のようにやさぐれた鬱憤を「曖昧に」ネット上で投げつけてくる輩。

わざと曖昧に喧嘩を売ってくるのでロジックが破綻しており、支離滅裂の危うい文章になっている。もちろんだが、本人のストレスを吐き出しているだけなので、他者が読む価値もない。

また、文章中には低俗な罵倒語が含まれているだけでなく、人としての小ささと卑屈な人柄がにじみ出ている。

その割にリアルは大したことがない。自己愛だけが強い普通の人。大人の中二病とも定義しうる。

中二病は未成年のうちに治した方がいい。一皮むけることも大人になるために重要だ。

私は自分のために録を遺している。そういった輩のために録を遺しているわけではないし、レスポンスなんて全く必要としていない。嫌ならアクセスするな。気持ちが悪く、鬱陶しい。

このようなタイプに多いのは、いわゆる自意識が高いタイプ。自分が普通ではなくて特別だと信じ込んでいる。しかし、実際は平凡な生き方だ。特別に秀でた存在ではない。

しかし、本人はそれを認めない。「自分は1ミリも悪くない」という表現で現実逃避したりもする。そもそも「ミリ」は単位につけるものだ。ならばその単位は何だ? メートルか? グラムか? モルか? グレイか? 自分の責任の度合に単位は存在せず、あえて指し示すのであればパーセントだろう。ミリで表現するところに教養のなさとネットに依存した感性が露呈している。

しかも、中学二年生のように背伸びしながらも実際はコンプレックスの塊で、自分より目立つ相手を見かけると必死に張り合おうとする。張り合っても無駄だということを認めたくないのだろう。

けれど、悲しいことに相手から見ると本人の存在なんて意識に値するものでもなく、ただ単に絡まれて鬱陶しいというだけの話だ。

そのような輩が、どうして「曖昧に」指摘するのかというと、自分が誰を攻撃しているのかを特定されないようにするためだ。

このようなタイプはネットの黎明期から2chなどの掲示板を利用している人に多いが、ヤフコメ、はてな、ツイッターにもいる。昔から自己防衛として汎用されている時代遅れのやり方だ。

自分に攻撃が及ばないように足場を確保しておいて、自分の不満をぶちまける。計算高く狡猾とも思えるが、結局は劣等感を抱えた弱者なのかもしれないな。

また、このようなタイプは他者の考えについて全体を俯瞰せず、気に入らない特定の個所に執着して、いきなり絡んだりもする。

アカウントからメタデータを抽出し、そのようなネットユーザーが他のブログや掲示板にどの程度のコメントを投げ込んでいるのかを解析してみると分かる。該当するコメントが出るわ出るわ。猛烈な勢いで他者に絡んでいることが分かる。

バーンアウトの後遺症に苦しんでいる私が言うのもおこがましいが、ここまで知り合いでもない他者にコメントを投げるなんて、この人物の精神は大丈夫なのだろうか。すでにクリニックに通っているらしいが、やさぐれずに医師やカウンセラーの話を素直に聞いた方がいい。この絡み方は尋常ではない。

他者に絡むことが趣味なのだろうか。余程に暇な人なのだな。もしくは、誰かにネットで絡まないと自分を維持することができないのだろうか。

そのような人に多いパターンとして、自分の思考の中で自分という存在を上手く理解することができない場合がある。

自他境界が自分と他者のスペクトラムになっているわけではなくて、自分だけがビー玉のように固まって転がっているような状態なのだろう。

そして、自分の容姿や行動などから自分を認識することができず、自分という存在を認識するために「他者」という鏡を必要とするということだ。だからこそ、そのような人たちは他者に絡み、レスポンスを求める。しかし、現実は残酷だ。ほとんど誰も相手にしない。

このような輩については、相手にしても無駄なので無視することにしている。ただし、度を超えていると判断した際には、「本人を特定して調べまくる」というスタイルが私のやり方だ。

自分に害が加えられる危険性があるのだから、氏名や住所、家族などを調べても問題ない。学歴や職歴も調べる。

職場についても調べる。曖昧な表現で他者を攻撃して言い逃れをしたところで無意味だ。会社にとっては攻撃の相手なんて関係ない。自社の社員がやさぐれてネットで罵詈雑言を投げ込んでいること、それ自体が問題だ。

また、指向性をもって曖昧に他者を攻撃する輩は、キレやすい割に臆病だ。常に自らの立場を気にする。だったら他者に絡むなよという話だが抑えが効かない。

ずっと逃げ続けて尻尾を掴ませないという人でも、常に他者から監視されているという気分はどうだ。自意識が強いだけに重く感じることだろう。

ネットではなくリアルを特定されて、気が付くと自宅の前に誰かが立って洗濯物を眺めていたり、家族と買物をしている時にレジの真後ろで誰かが立っているかもしれないわけだ。

別件だが、とある現実の街中にて、ネットで絡んできた人の真後ろに立ったことがある。ネット上のアバターと随分と違うことが面白い。本人は全く気づかずにスマホを凝視していた。自己アピールと他者への絡みで忙しいのだろう。

リアルを確認しようと意識したわけではなくて、その人が何かを待っていた時に偶然ながら列に並んでしまったというだけのこと。そう、全くの偶然だ。

ただし、普通の人であれば追尾された場合の対処なんて知らないだろうし、背中がガラ空きになる。

世の中には、ネット上で絡んで構わない相手と、決して絡んではいけない相手がいる。私は後者だ。今まで何人に絡まれて対処したことだろう。

匿名のブログサービスあるいはSNSを使っていたとしても、その本人を特定する方法はいくらでもある。自分が考えている枠の中で考えれば特定は不可能だと思うかもしれないが、その方法はたくさんある。

埼玉出身のサラリーマン。

都民を装っている埼玉の農家。

浦安市内のベンチャー系の社員、主婦、P連の役員。

大手企業に勤める父親たち、市役所の職員。

不思議なことに、東京のネットユーザーから絡まれたことがない。千葉県のネットユーザーから絡まれた経験といえば、浦安市民ばかりだ。他の市町村から絡まれたことがない。

神奈川のネットユーザーの場合には好意的なアクションが多くて、とても気分よくやり取りすることができたりもする。

問題は、埼玉のネットユーザーだ。なぜに埼玉県民が千葉県民に絡もうとするのか。

埼玉の方が凄いじゃないか。「翔んで埼玉」という映画までつくられたくらいだ。私は千葉県民だが、とても羨ましい。

もとい、ネットスキルによって探知しなくても、ブログの中で君の理解者だよという体で振る舞っておいて、本人が気を緩めて近づいてくるところを捉まえるという方法もある。引っかかる人が本当にいるので逆に驚く。

それはブロガーの文章力にも左右されるわけだが、おそらく発達障害を有しているであろう私の自他境界はモザイク状だ。つまり、相手の心の中を自分の中に取り入れて、その人の感情と同化し、さらには心の隙間に入り込むような文章を書くことができたりもする。

それはつまり、絡んできた相手を酷く落ち込ませたり、激怒させたり、励ますこともできるということであり、相手の思考をコントロールすることができるということだ。気持ち悪いだろ。絡まない方がいい。

個人の主義や主張、事象に対する賛同や批判は許されるべきだ。それらに制約がかかって検閲がなされるような社会は、もはや自由と程遠い。

だからといって、アホだとか、基地外だとか、稚拙で品のない表現を職業人、さらには人の親になってまで使う同世代がいることを遺憾に覚えざるをえない。

そのような人たちは、養老孟司先生の「バカの壁」を読んで勉強することを勧めたい。

この本の内容を私なりに要約すると、人は自分が理解しえない相手に対して「バカ」だと認識するということだ。

相手の知性や教養が自分に追いついていないというシンプルな話ではなく、それらに関係なく理解できない相手に対して、自分の中でバカという線引きがなされ、相手をバカとして認定する。

生きていればそのような状況は多々ある。つまり、無数の人たちが日常において、「ああ、この人はバカだ」と他者をバカとして認識しながら生活しているというわけだ。

ただし、口に出さなければ相手には伝わらない。「こいつはバカだ」と頻繁に思いながらも、外部に思考を吐き出さないことが大人の忖度だったりもするわけだ。

ネットだからといって無制限で感情を放出させてもいいというわけでもない。

また、そのような人たちから攻撃を受けた場合には、「職場」に直接的に電話をかけて人事と話し合う必要がありそうだ。

とりわけ、外資系の企業はコンプライアンスが厳しいので効果がある。匿名であっても「基地外」とか「基地の外」という表現を使うことは問題がある。

というか、この社員の精神状態は大丈夫なのだろうか。SNSどころかブログでそのようなスラングを平気で投げ付けるなんておかしいと思わないのだろうか。

他者に絡んでいる場合ではなくて、自身のメンタルをチェックする必要がある。カウンセリングを受けても、その結果を全否定するだけかもしれないが。

このような人の自他境界がどうなっているのか調べてみたいものだ。自我の形成過程で何かトラブルでもあったのだろうか。実生活では強固なペルソナを形成しているが、内面では思春期の少年のように不安定な自我が存在して、自分の外を常に否定している。

その一方で、自分の存在を希薄に感じ、他者に絡むことで自分を維持しようとしている。自分が否定する外の世界に他者が存在しているわけだから、思い通りに事が進まず、さらに不満を溜め、生きづらいと自暴自棄になる。

そして、自分が理想とする他者からのレスポンスがあった場合にのみ満足し、それ以外のレスポンスを否定して罵倒する。他者を鏡として映った都合の良い自分の姿だけを見たいからだろう。

ペルソナでは感情を取り繕い、内面に蓄積したフラストレーションを自分の腹の底で受け止めることができず、他者に絡んで解決策を探そうとする。

この人物は解離や統合失調の類なのだろうか。発達障害というよりも、パーソナリティの不具合やアダルトチルドレンのような症候があるように思える。

まあ、そのような人は普段から仕事のパフォーマンスが足りないと指摘を受けているだろうし、背中を押してしまう可能性もあるが関係ない。

絡んでくる人たちにひとりずつ対処していったところ、最近では随分とブログの運営が楽になってきた。

ブラウザの拡張機能を使って当該サイトをブロックリストに追加。私からのアクセスを遮断。こちらは無敵モードに入った。吠えても聞こえない。

さて、対処するか。準備はできている。

...という体で、架空の人物をテーマとしてネット上で絡まれた場合のシミュレーションを行ってみた。