奇妙な戸惑いと恐怖の正体がやっと分かった
最終段階といっても大袈裟なことではなくて、今まで乗ってきたロードバイクと比べてブルーノのミニベロのポジション出しの要領が掴めずに右往左往しただけ。ようやくポジションの調整ができた。これで谷津道に出かけても大丈夫だと思った矢先、その道すがらで私はとても重大なことに気付いた。
気温が30℃を軽く超える真夏の河川敷のサイクリングロード。体感温度を示す表示は40℃近くになっている。
いつも通りにサーモスのステンレスボトルに氷とスポーツドリンクを詰めて、ブルーノスキッパーに乗って江戸川の左岸を走る。この炎天下で河川敷に出かけるという酔狂な人は少なく、人がいない遊歩道を延々と走り続けた。
昔も今も私が気に入っているのは、ペダルを回しているだけの暇な時間。暇と表現すると語弊があるが、夫婦共働きの子育てにおいて慌ただしく過ぎ去っていく毎日の中で、じっくりと落ち着いて考える時間なんてほとんどない。
しかし、サイクリングの最中は沈思黙考する時間がたくさんある。折り返しの場所まであと20km。そこから引き返して30km。50kmの距離を走っている時間は自分だけのものだ。
この数週間はとても暑かったからだろうか、自律神経の調子がおかしくなって全身が怠くて仕方がないという日々が続いた。今回のライドも出発するかどうかを直前まで悩んだ。
現在のスキッパーは全天候だけでなく昼夜兼用のカスタムが施されている。出発時間が遅くなってナイトライドになっても何ら問題がない。
毎週末の私の習慣として、妻も子供たちも全く掃除しない洗面台周りやトイレを掃除することにしているのだが、今回はスキップすることにした。私が家庭らしきものを始めてから、妻や子供たちは一度も水回りを掃除しない。私がいなくなったらどうするのだろうか。
今回のライドでは河川敷に入った頃から分厚い雲が頭上を覆い、厳しい日差しを遮ってくれるような状態になった。視界のずっと先では雲の隙間から陽光が差し込み、ファンタジー系の様相を呈している。
流山市のクリーンセンターという焼却施設が見えてきた。浦安から江戸川左岸を走る場合には、往復60kmの中間地点に相当する。春秋ならば問題ないが、この炎天下だ。あまり無理をせずにサイクリングを楽しもう。
相変わらずゴテゴテと様々なアクセサリーをスキッパーに取り付けて走っているが、ようやくそれぞれのアクセサリーの使い勝手が分かってきた。今回はフレームバッグの中身をサドル下のツールボトルに移し、空いたスペースに雨合羽を入れてみた。
ゴリックスの撥水仕様のフレームバッグは思ったよりも容量があり、ワークマンで手に入れたバックパックまで覆うレインコートを容易く飲み込んでしまった。大蛇のようにバッグの腹が膨らんだが、ペダルを回しても脚に触れない。想像以上の良き品に巡り会ったらしい。
それにしても、最近の天気予報は以前よりも当たらなくなった。ここまで解析技術が進化したにも関わらず何たることだ。雨が降り始めてからシレっと雨予報に変更するとか。
とりわけ、ウェザーニュースは予報の正確性よりもキャスターの美貌や天気以外のトークに力点を置いているらしい。
キャスターの与太話に張り付いて必死にコメントを投げかけているのは、同じ氷河期世代の中年男性たちだろう。
真面目に働いていたらそのようなことに興じている暇はないはずだが、どのような生活スタイルなのだろうか。きちんと働いて税金を納めているのだろうか。
アイドルを追いかけるようにネットでコメントを投げ込み、キャスターからのレスポンスがあれば大喜びか。そもそもこの人たちは天気予報が必要な生活をしているのだろうか。
ウェザーニュースおじさんたちとヤフコメおじさんたちとの間でどの程度のオーバーラップがあるのだろう。両者に重複があるとすれば、社会に不満を持ち、女性との接触に飢えていることが分かる。これもネットがインフラの一部になったことの歪なのか。
もとい、流山市で引き返して黙々と走り続けている時、以前から感じつつ、そのまま自分自身を包んでしまっているような「戸惑い」あるいは「恐怖」にも似た感情について考えていた。
文豪の芥川龍之介は「ぼんやりとした不安」という言葉を遺して自死したが、中年男性であればその感覚が何となく分かることだろう。このまま生きていても仕方がないような虚無感や気怠さ、さらには絶望さえ感じる感覚の正体は何だろうか。
しかし、私なりにその正体が分かってきた。おそらく、この感覚は芥川龍之介が感じた「ぼんやりとした不安」の中身とは異なる。彼の場合には妻の兄が保険金目的で轢死したとか、自らの過ちで追い詰められることになった愛人の存在だとか、まあそういった要素があった。
しかし、私の場合には妻の妹、つまり義妹が私に何の前触れもなく授かり婚を迎えることになったが、愛人どころか風俗にも通っていないのに我が夫婦はレスになった。そう、芥川龍之介と私は違う。
希死念慮を含んだ虚無感という点では共通しているかもしれないが、私の場合にはとても分かりやすい。
それは、「爺のゾーンに入りつつある」という現実だ。翁ではなくて、爺。ふりがなを付ければ「ジジイ」と読み方になる。
決して老人を蔑んでいるわけではない。
孫がいるかどうかは関係なくて、自分がオッサンからジイサンに移行していることを悟って衝撃を受けている。
三十路の後半で「もうオッサンだよ」と卑下していた時の私にはまだ余裕があった。今は違う。オッサン待ったなし、ようこそジイサンという瀬戸際が本当に見えてきた。ジイサンの次のステージはない。
自分でも笑える。爺になりたくなくても、現実として爺になる時期がやってきたことに戸惑い、恐れている。
私だけではなくて、団塊ジュニア世代を中心としたオッサンたちがジイサンに向かって時を流れている。ニュースでは俳優やコメディアンといった有名芸能人の年齢がカッコ書きで記載されたりもするが、明らかに高齢化してきている。
しかも、この社会の趨勢を示すかのように、後に続く世代が目立たない。
人は誰だって歳をとって老いる。それは生物に課せられた宿命だ。しかし、加速度的に老いが進んでいる。
当然だが、結婚から子育てというステージでは老いを感じない。むしろ活気があって華やかだ。
子育てが一段落したら、気が付くと人生を引き返すことができない時期に入っていて、そこからはただひたすら生き続けるというステージに入る。
とりわけ、これは冗談ではなくて真面目な話だが、夫婦関係についてはその移り変わりが如実に反映される。
交際を経て結婚し、子供が生まれ、夫婦関係は少しずつ成熟し、やがて生涯の伴侶となる。
私の場合には子育てに入った時点で妻が暴れて関係に亀裂が入り、子供たちの中学受験で妻がさらにヒートアップして、結果的にはレスになって家庭内別居になった。禁欲的な生活が長すぎて、なんと中学時代の初恋まで夢に出てくる始末。
つまり、夫婦関係が成熟する前に同居人のような関係になってしまい、それでも時は経って爺のステージに入っている。30代や40代であれば引き返して何とか軌道修正することができたが、もはや50代になると誰も相手をしてくれなくなる。
金を払ってパパ活に勤しんでいるオッサンたちのような無様な人間にはなりたくない。
実家依存の妻は何も我慢していないが、私は離婚を回避しながら我慢を重ねてきた。そして、家庭としては維持されて、子供たちは育ち、結果オーライという形にはなった。しかし、理想とする家庭像は義実家の干渉によって破壊され、もはや偶像に近い感覚で家庭を維持している。
立場としては夫であり父親なんだ。その役割を演じているとしても、それ相応の責任を担い続けている。
結果、私はこれから爺になる。
人生を軌道修正するタイミングをやり過ごしているうちに、もはやそのまま老いて死ぬしかないようなトラックに自分がいる。そのことが戸惑いや恐怖を生じている。
文章にすれば他愛のないことだ。
また、長く連れ添った妻が同居人のような存在になるというスキームは、オッサンやジイサンであれば何ら不思議ではない話だ。どれだけ仲の良い夫婦であっても熱量が下がって同居人になり、夫としてはフラストレーションを抱えることになるはずだ。
しかし、私の場合にはレスが続いて夫婦関係が破綻し、夫婦関係の成熟というプロセスが欠けたままジイサンになってしまう。
時間を取り戻すことはできず、そこにあるのは自分の過去の判断に対する疑念だけ。後悔なんて生易しい話ではなくて、世を去ることで強制終了できないかと思う始末。
私は中学生時代にバスケットボール部のレギュラーメンバーだったのだが、他校とのトーナメント戦で似た感覚を受けたことがあった。
前半だけでダブルスコアの点数で引き離されたが、コールドゲームがないのでタイムアップまで試合が終わらない。ハーフタイムが終わって掛け声を絞り出したところで、負けることは分かっている。
自分たちなりに練習を積み重ねたはずだけれど、シュートは外れるしリバウンドが取れない。
ポイントガードの心が折れてしまい、ダブルチームで追い込まれて前線までボールが回ってこない。スモールフォワードがヘルプに入ろうとしてスチールされてターンオーバー。すでに心肺も脚も尽きたセンターは前線に置き去り。
相手チームから二軍が投入され、一軍がベンチで与太話をしている。それでも点差が縮まらない。
この勝負は負けだ。それなのに、自分はどうして苦しみながら必死に走り回っているのだろう。
周りで観戦している人たちにとっての自分は負けチームの可哀想なメンバーだ。努力しても仕方がないと誰もが分かっている。しかし、プレーヤーは試合を放棄することはできない。
せめて一矢報いようとカットインしてシュートを放とうとして、ブロックショットを受けてボールとともに弾き飛ばされ、膝に手を付いて床を見つめるというよくある展開。
自分のこれまでの生き方は、公私ともに想像していた姿にはならなかった。
それでも、人生のタイムアップまで走り続けなければならない。時計は回り続けているので、いつかは終了する。
途中で方向転換して人生をやり直す人はいる。しかし、そのタイミングさえも終わった。潔くジイサンになるだけだ。
自分の意識下だけでなく無意識下で感じていた「戸惑い」や「恐怖」というものは、思った通りに進まないまま老いていく現状を肌感覚で察したものなのだろう。
そんなことを考えたところで仕方がない話だし、それでも耐えながら生きてきただけでも立派じゃないかと思ったりもする。
全てが手遅れだが、気に病むことはないと今は虚勢を張ろう。
どのようなオッサンだって、やがてジイサンになる。ハッピーなジイサンがいて、アンハッピーなジイサンがいるだろうけれど、最終的に運ばれる場所は同じ。世を去れば、焼かれて灰になるだけ。
どれだけ苦悩を重ねて生きたところで、灰になったら何も残らない。その程度の苦悩を抱えて生きていると思えば、人生なんて死ぬまでの暇つぶしだとさえ思える。