炎天下のサイクリングにて修行と眼福
泥のように眠って遅く起きた日曜日。家の中にいたのは私だけだった。一家の経済的な柱である私が疲れ果てているにも関わらず、朝早くから妻や子供たちが大声で騒いで目が覚めたところまでは記憶している。その後で意識を失ったのでよく分からない。
部屋の中にパンフレットが転がっていた。本日は子供たちが通っている習い事にて発表会のイベントがあるらしい。
妻は私に何も伝えなかった。すでに家庭内別居の状態。妻としては、夫婦で子供たちの成長を眺めるなんて考えは持ち合わせていない。妻だけで勝手に家庭のことを決めて夫を無視して突き進む。
しかし、この実家依存の妻は、夫には相談しないけれど義母には頻繁に相談する。
世間一般の家庭像と比べると、我が家の状態は実に無様だ。
家族のために家庭に金を入れ、毎日の通勤地獄に耐え、ここまで父親として生きてこの扱いなのか。
子育てに入って妻が家庭内暴力を振るい始めた時点でさっさと離婚していれば、今頃はどこかで伴侶を見つけて幸せに生きていたかもしれないな。
しかし、今回の件は妻に悪意があったというよりも、我が家に干渉を繰り返す義父母が子供たちの発表を見たいと言い出したのだろう。私を呼ぶと義父母と鉢合わせをすることになるので、妻は私に何も言わなかったということだ。
私は妻の実家を毛嫌いしている。事あるごとに義実家は私の家庭に突撃と干渉を繰り返し、私は浦安で自分の家庭を持ったという実感がない。
私と妻が連れ添って独立生計を営んでいるにも関わらず、子離れなんて自覚もなしに我が家に突撃してくる義実家の思考回路は狂っていると私は感じる。なので、この人たちとは顔を合わせたくもないし、露骨なことをやれば私は直接的に反撃する。
夫よりも義実家を優先する妻としては、まさにその直接的な接触を危惧している。構うことなんてないんだ。「おい、お前ら、いい加減にしろ!」と私は言いたいのだが、その機会を妻が意図的に遮っている。
そして、まるで義実家の別館に間借りして生活しているような窮屈さと不甲斐なさを私は苦々しく感じている。住みたくもない街に住み、四六時中まとわりつくストレス。これが幸せな生き方であるはずがない。
しかし、考えたところで解決しないことを悩んでも事態は好転しない。それは、「どうして雨が降るのだ」と雨雲に向かって怒りを覚えるようなものだ。妻や義実家に対して我慢できずにストレスが増悪するのなら、別居なり離婚なりを考えるしかあるまい。
家族であっても考え方や感じ方が違って当然だ。しかし、妻を含めた義実家は違う。個性はあるけれど、思考や価値観のプラットフォームがほとんど同じになっている。
その状態は、まるで家庭内で生じた宗教のような性質を帯びている。義実家という「壺」の中で個々の思考や価値観が並列化され、ひとつの脳のようになってしまっている。それは私の理解を超えたところにある。
妻の実家の近くに住むと離婚する傾向があるというデータは公的には示されていない。しかし、義実家による干渉に疲れ果てて夫が精神を病み、離婚に至るというケースは少なからずあると私は考えている。
妻と義実家が共依存を続けることで受けるストレスは半端ではない。
それでも子供たちのことを考えると家庭を去るわけにもいかないので、「子供たちが成人した段階で夫婦の関係について考え直す」と、妻には伝えてある。あと10年もないが、まだ10年近くあるのかと思ったりもする。
いつもながら最悪の精神状態のままミニベロに乗り、さっさと浦安という嫌な街を出ることにする。すると、隣の市川市に入っただけで急に心身の状態が良くなる。目眩や動悸、暗鬱とした思考も減っていく。
開き直ろう。五十路のオッサンになってくると、たくさんの悩みがあって当然で、それらを心の中に抱えたまま生きているはずだ。
さあ、ストレスから自分を開放する時間がやってきた。
本日のルートも江戸川の左岸。流山市内の利根運河と江戸川の境目にある「運河河口公園」という場所で折り返して帰ってくる往復70kmの道程。
利根川まで行ってみたかったのだが、前日は休日勤務だったので疲れ切っている。仕事だけではなくて家庭もこの有様だ。ミニベロの70kmライドは、ロードバイクの100kmライドと同じくらいの時間や疲労なので、まあこれくらいで収めておこうかと思った。
出発は正午付近、天候は快晴。当然だが気温は30℃を軽く超えている。
言葉通りに焼け付くような日差しが降り注ぐ江戸川の河川敷には人の姿がほとんどなく、河川敷の草むらで仰向けになって日焼けに挑んでいる男性たちの姿が散見される。状況としては市川市民だな。この人たちは何を生き甲斐として生きているのだろう。
そのような環境の中、小径ホイールの自転車に熊乗りになって黙々と走り続ける自分の姿。これはこれで趣がある。
ロードバイクに乗っていた頃は、できる限り薄着で走った方が涼しいと思っていたけれど、ミニベロに乗り出してからは「暑い時には着る」という対処の方が涼しく感じることがあったりもする。
もちろんだが、ウィンドブレーカーを着るという話ではない。とりわけ足回りの素肌をニッカーパンツなどで覆うと、直射日光を受け続けるよりも身体へのダメージが少ない。首回りのネックカバーも同様。
それと、炎天下で走り続ける場合にはプラスチック製のドリンクボトルでは冷却効果に乏しい。生ぬるいスポーツドリンクは喉を通っていかないので、水分補給も難しい。
ステンレス製の魔法瓶に氷を詰めて、こまめにスポーツドリンクを飲むと体温の上昇が抑えられる。
市川市から松戸市内に入ると、このような真夏の炎天下であってもストイックに走っているランナーたちの姿を見かけた。そのようなランナーたちの多くが推定20代から30代の男性や女性で、とても引き締まった体躯で汗だくになりながら走っていた。
このような人たちは自身のメンタルコントロールに長けていると思った。いや、強靱な精神力の持ち主たちだ。余程に自分に対して厳しくないと灼熱のランに出かける気になれないことだろう。
しばらくすると、ソロで走っているロードバイク乗りたちとすれ違った。ゆっくりしたペースで私を追い抜いていくロードバイク乗りの姿も見かけた。皆、暑さで顔をしかめてヘロヘロになっている。
橋の下の日陰には耐えられなくなって座り込んだ人たちの姿。この地獄的な光景は嫌いではない。苦行に耐えている気持ちになる。
最近になってブルーノ・スキッパーに扇工業というメーカーの「ヤマビコベル」を取り付けた。このベルの音色はとても美しくて、周りに誰もいないところで鳴らしても心地が良い。寺で読経する時に僧侶が鳴らす「鈴(リン)」という仏具の鐘の音に似ている。
炎天下でペダルを回して前に進む雰囲気は、苦行に挑む修行僧のように感じられる。
これだけの条件が揃ったのだから修行に勤しもうと、ヤマビコベルを鳴らした後、般若心経を唱えながらペダルを回すことにした。
私は特定の宗教を信仰していない。母親代わりだった祖母が熱心な曹洞宗の仏教徒だったので子供の頃から禅を組んでいたが、昨今の社会を騒がせているような新興宗教に傾倒しているわけでもない。
また、私は仏教に特有の空想世界のような話についても理解がない。そのような考えは創作であってSFとあまり変わらない内容だと考えている。信じたい人は信じればいいが、死後の世界なんてあるはずがない。
しかし、汗だくになりながら懸命にペダルを回し、日の光や風、季節を感じ、ただ黙々と前に進んでいると、理屈を超えた領域に何かがある気がする。
その感覚は自らの脳が認識しているだけに過ぎないし、そこに何があるわけでもない。
端的に表現すれば、自分がとても小さな存在であることを認め、眼前の環境の中に融けていく感じだろうか。仏教用語の色即是空と表現した方が分かりやすい。
それらの感覚によってどうして気持ちが楽になるのかは分からない。
おそらく、私が自転車で走り続けて感じている感覚を遡っていくと、修験道のような形に重なるのではないかと思う。その源流は飛鳥時代で、盛んになったのは平安時代だろうか。
日本に土着していた山岳信仰や自然崇拝、ならびに外国から渡来した仏教が融合する形で修験道が生じたらしい。
街中を歩くと職質不可避な修験者の格好や岩の上で法螺貝を吹く行為に何の意味があるのか私には分からない。
しかし、苦行を通じて人間の感覚や思考を研ぎ澄まし、それらを可能な限り自然と一体化させることには意味があるように思える。
素になって考えれば分かることだが、人が生きている過程で苦しみを生み出しているものは何か。
仕事のノルマだろうか。子育てだろうか。人間関係だろうか。金だろうか。私の場合には通勤地獄もあるし、義実家との関係もある。それらのほとんどは自然とかけ離れた場所で「人」が生み出している。
一時的であっても人が生み出すストレスを遮断することで、精神的な負荷を減らすことができる。それは大昔から伝わる智慧だ。
あえて宗教色を取り除いた上で私なりの解釈を記すと、般若心経にはそれなりの意味が含まれているが、その原理は人間の脳の性質を取り入れたものだと思う。
人の脳はマルチタスクには対応していない。希にマルチタスクを行うことができる人がいたりもするが、私を含めて普通の人の場合、発声を伴うシングルタスクの最中に別のことを考えることは困難だ。
つまり、経を唱えている間は別のことを思考することができないわけで、頭の中をループしているネガティブな思考も当然ながら遮断される。そして、短い時間であっても負の思考から解放されると心身が軽くなる。
実際には脳の性質を応用したものではあるけれど、大昔の賢者がそのメンタルヒーリングに気が付き、不思議な力として社会に広まったのだろう。
般若心経ではなくて円周率であっても同じような効果があるはずだが、円周率には言語学的な意味が全くなく、神秘性を含んだ印象もない。
般若心経を唱えながらミニベロで走っていると、前方に男性の老人の姿が見えた。この炎天下で散歩に出かけるとは。
誦経を途中で止めるのは良くないことなので、仕方なく般若心経を唱えながらお爺さんの隣を通過した。
案の定、その老人は「ビクッ!」と動きを止めてしまった。熱中症で迎えが来たと驚かせてしまったのだろうか。炎天下で無理をすると良くないと高齢者に注意喚起する点では良いことかもしれないが。
リンに似たヤマビコベルの音色と誦経が精神のメンテナンスに適していると思った私は、般若心経に続いて光明真言や十三仏真言を唱え続けながらペダルを回した。
私の実家は曹洞宗なので修行は禅が主体になる。天台宗や真言宗といった密教系のように真言を唱えることもない。
しかし、この暑さで禅を組むと気を失いそうだ。天台宗や修験道の修行者たちが不動明王のマントラを唱えながら苦行に耐える理由が分かった。
経や真言を唱えながら走り、流山市内の運河河口公園に到着した時には、私の頭の中から多くの悩みや苦しみが抜けて、随分と気持ちが楽になっていた。余計なことを考えずに集中することで、脳の負荷が減るのかもしれないな。
木陰に入ってベンチに座り、相棒のミニベロと木漏れ日を眺めながら休憩。
他のサイクリストのブログを拝見しても思うことだが、ブルーノは自然がある環境とベンチが似合う。なぜにベンチとミニベロという構図が似合うのか分からない。ダホンやブロンプトンとベンチが並んでいても違和感があったりもするが、ブルーノの場合にはよく似合う。その疑問については今後のサイクリングで考えることにしよう。
片道35kmという道程は走り慣れたサイクリストにとっては大した距離ではない。しかし、そろそろ小腹が空く地点だ。ここで補給を無視していると、途中でハンガーノックを起こしてカロリーが足りなくなる。
バックパックからカロリーメイトを取り出してかじり、氷冷されたスポーツドリンクを喉に流し込む。私はサイクリングの最中にグルメを求めない。汗だくで店に入って料理を食べることが無粋だと感じるし、その行為がオッサン臭く感じもする。補給は最小限がいい。
炎天下よりも涼しい環境の方が一気に汗が噴き出すのはなぜだろうな。今回のサイクリングでも全身の血液中の水分が入れ替わることだろう。
それにしても、ロードバイクに乗っていた時には自分が乗る自転車にあまり愛着を感じなかった。ミニベロの場合には相棒という感覚がとても強い。
職場の同僚なんてお互いの立場に基づく関係でしかない。夫婦や家族でさえ脆いものだ。
人はどこまで生きても孤独を感じ、寄り添うことができる存在を探し、それが見つからずに苦労する。SNSで誰かと繋がっていても気が休まるはずがないのに、人はその繋がりを求める。
なんてことはない。人はひとりで生まれてひとりで死ぬだけのこと。つまり、孤独であることが初期仕様なんだ。孤独であることを恐れる必要は全くないし、愛着のある道具があればそれでいい。
復路は相変わらずの向かい風。いくら漕いでも進まないが、無風の状態での走りを求めるから苦しく感じるだけだ。
無風の状態にて時速30kmで走っている人が、向かい風がやってきて速度が落ちたとする。抵抗があったとしても時速30kmで走ろうとするから辛くて苦しくなる。
向かい風がやってきて速度が落ちた時には、無理してスピードを保つ必要はない。時速20kmだろうが時速10kmだろうが、進んでいればやがて目的地に到着する。自分の中で理想を追うから苦しくなるだけ。それは自転車に乗っている時だけの話ではなくて、生き方全体にも当てはまる。
往路において修行に勤しんだ私は、まるで世の中を達観したかのような状態で復路を走っていた。しかしながら、この高貴とも言える精神状態は長くは続かない。
日が傾いてくると、炎天下で見かけたストイックなランナーではなくて、ダイエットを目的として走ろうとするランナーたちがワラワラと河川敷に出現し始めた。松戸市内から下流の市川市内の辺りはとても人が多い。
どう考えても身体が出来上がっていないメタボ体型の中年男性が必死に走っている姿を見かけると、そのうち疲労骨折したり、腱や筋肉を痛めるだろうなと心配になったりもする。
歩きながら懸命に上半身をツイストさせている中年男性を見かける。本人としては有酸素運動と腹回りのシェイプアップに励んでいるつもりなのだろうか。タヌキの置物のようになった腹部を平らにするだけであれば運動は必要ない。
運動してカロリーを消費したと信じ込んでさらにカロリーを摂取する可能性がある。メタボになった場合には食事制限から始めるべきだと私は思う。
あまつさえ、後ろ向きになって歩き続ける中高年がいたりもする。自分が後ろ向きに歩いていても他者が避けてくれると考えているのだろう。頭がおかしいとは言わないが、思考がおかしい。
そのようなオッサンたちについては無視すればいいだけの話だが、何よりも困ることがある。それは、個人的なランニングなのだから別に構わないだろうと薄着で走っている女性たちの姿。
同じ方向に進むランナーと距離をとって追い抜く時にも、前方からやってくるランナーとすれ違う時にも目のやり場に困る。
具体的に説明すると中年親父の気持ち悪さが醸し出されてしまうので説明しないが、目の前で「プリンプリン」と揺れるものがあると、意図せずに視線が向かってしまう。
安全のために減速して状況を確認すると、やはり悩ましく揺れるものが目に付く。40代に入ってからレスが続いてストイックな生き方を続けているので、このような衝動がやってきても不思議ではない。
さらに、首筋から肩にかけて浮かび上がって流れる汗。そして吐息。若い女性であっても同世代の女性であっても凄まじいインパクトがある。この視界から入ってくる情報は刺激が強すぎるな。
さらに、若年ならびに中年を問わず、カップルで仲良く走っているランナーたちを見かけると、余計な想像が頭に浮かび上がる。
この二人が帰宅すると何をするのか想像がつく。
なんてことだ。帰宅してから自室に引きこもり、くだらない人生だとやさぐれながら眠る私とは大違いだ。欲求不満で萎んでしまっている哀しいオッサンとしては、なんて羨ましい話だと思ってしまう。
ということで、往路は修行僧のように黙々と研鑽を積んだにも関わらず、復路では情けない思考のままでペダルを回して帰った。なるほど、これが修行中に現れる「魔」というものか。
歪な夫婦仲でフラストレーションを蓄積しているので、きっかけさえあれば煩悩の淵に引っ張り込まれるということだな。勉強になった。
帰りもヤマビコベルを鳴らして邪気を振り払い、経や真言を唱えながら走ることもできるわけだが、それではランナーたちを驚かせてしまう。
サイクリングを楽しむ爽やかなオッサンを演じながら減速し、礼儀正しく通行しよう。
ただのムッツリではないかという指摘に反論することはできないが、ペイズリー柄の憂鬱を生じることなく平然としていられる状態に至った時、私は次なる境地に至ることができる。
ということで、機会があれば修行として江戸川の左岸に通うことにする。
目の保養のためではない。あくまで修行のためだ。