2022/07/01

五十路のオッサンたちのブログから漂う哀愁と安堵

自分たちが小学生だった頃、彼らは高校生くらいだっただろうか。私の目には彼らの姿がとても大人びていて、輝いて見えた。彼らが進む先にはたくさんの自由があり、新しい世界があり、とても羨ましく感じた。自分にもそのステージがやってくるんだと待ち遠しく思った。

そして、気がつくと自分はオッサンになっていた。最近まで若手だったはずなのにベテランになり、早期退職に該当する年頃になった。そんなはずはないとリアルやネットで同世代を見渡したら、周りも立派なオッサンになっていた。三面鏡で自分を観察すれば、見紛うことのないオッサンがそこにいる。


そういえば、子供の頃に眩しく感じた年上のお兄さんたちは、その後にどうなったのだろう。郷里の人たちなのでその後は分からない。年齢としては50代に差し掛かっている頃だな。

自分もオッサンなのでオッサンと表現するが、不思議なことに若い頃から同じ職場で働いてきたオッサンたちの「老い」については、あまりというかほとんど実感しない。

毎日のように顔を合わせている、もしくは長くても数ヶ月に一度くらいは挨拶しているオッサンの場合には、経時的な変化を実感する機会が少ない。

去年と変わらない今年、今年と変わらない来年を過ごしているうちに、自分よりも年上の人たちはまるでベルトコンベアーに乗っているかのように前に進み、普段と変わらない春がやってきた時に突然いなくなる。

定年になってからも嘱託のように居続けることもあるが、それまで何度も言葉を交わした人たちが、何も言わずに定年で職場を去ってしまった時には何とも言えない喪失感がある。やはり私は変化に弱い。

そして、彼らが乗って運ばれていたベルトコンベアーの上に自分も乗せられていて、着実に崖に向かって進んでいるような感覚を受けることがある。それはずっと先のように感じもするし、あと5年、あと1年と時が進むにつれてより強く感じることだろう。

では、五十路のオッサンたちがどのように「今」を生きているのかというと、彼らの内面を感じ取る機会は少ない。職場であれば、より立身出世を望んで権力を手に入れようとする人たち、あるいはそれらを拒んだり諦めてマーベリックな生き方を選んだ人たちがいる。

彼らに話を聞いたところで私なりに納得するような答えが見受けられない。それぞれの人たちにはそれぞれの答えがあって、あまり思案することなく現在の心境を教えてくれるのだが、答えの範囲が職場に限られている。

人の生き方において仕事とは一部でしかないと私は考えていて、知りたい内面とは仕事を含めた「生き方」について。しかしながら、五十路になってさえ、自分がどのように生きたのかというテーマを職業だけで論じている人があまりに多い。

そのベクトルが何を意味するのかというと、定年退職で仕事がなくなった時に灰のように真っ白になり、生き甲斐をなくしてやさぐれる老人というゴールなのではないか。

ということで、「五十路 日記」というキーワードで50代のオッサンたちのブログをネット検索してみたのだが、そこに並んでいたのは異世界とも言えるコアなコンテンツばかりで参考にならなかった。

なるほどキーワードを間違ったのかと反省し、「50代 オッサン ブログ」というキーワードで再検索してみた。

すると、そこに並んでいたコンテンツはオッサンたちの哀しみや寂しさ、虚しさなどが煮詰められていて、ページをクリックすることさえ躊躇するようなサイトもあった。

年金、メタボ、持病の悪化、リストラ、生活苦、貧困といったこの年齢層によくあるテーマ、風俗やパパ活といった腰下のテーマ、その他には政治や行政に対する不満や怒りなど。

ブロガーが既婚者であっても家族の話が紹介されることはほとんどなく、離婚して一人暮らしを続けている五十路男性のライフログも認められる。

ツイッターも同じような状態だが、五十路近くのオッサンの情報発信は全体的に暗くて何を言いたいのか分からない内容だったり、説教臭くて上から目線の内容が多かったりもする。暗くて何を言いたいのか分からず説教臭いブログを続けている自分が言うのもアレなのだが。

ヤフコメおじさんたちの主体を形成しているのはこの年齢層ではないだろうかとも思う。文体がよく似ている。

たまに爽やかそうなブログを見かけて開けてみると、料理や酒の写真ばかりが並んでいたり。

その理由は分かる。オッサンの毎日では、自分自身をテーマにしても代わり映えがなく、大したトピック性もない。ある程度は新鮮で見栄えがよい被写体を選ぶと、結果として料理や酒になるわけだ。

その他には、若者と張り合うかのようにマッチョを目指すオッサンたち。なぜにマラソンやトライアスロンが舞台になるのか理解しえない。

珍しくサイクリストのブログがあるぞとアクセスしてみると...ああ...MAMILだった。

年甲斐もなくタイトなサイクルウェアを着て、同じような趣味を持ったオッサンたちが集まってロードバイクに乗って盛り上がり、そのまま川に飛び込んだり、ビンディングシューズとヘルメットのまま観光地に入り込んだり、臭いウェアのままレストランで食事をしたり。これだからオッサンは...という醜態を晒していた。

私が知りたいのは、50代というステージに差し掛かって、自分がどのように生きたのか、そして残りの時間をどのように生きるのかというテーマを切々と考えているオッサンの内面だ。

時に不満を積み重ねることがあり、時に細やかな喜びがあり、結局、生きるとは何なのかということを自問しているようなコンテンツ。

そのような悩みについては、むしろ30代や40代の男性のブログの方が真面目に考えているように思える。

それまで趣味を楽しんできた30代の男性が家庭を築いて子供を育てることになり、仕事と家庭と趣味のバランスで苦しんでいたり。それは十分に生きている証だと私は感じる。

40代になると、このまま生きて何があるのかと悩んだり、仕事と家庭の板挟みになって精神の不調をきたし、それでも懸命に生きようとしている男性の姿がネット上に投影されていたりもする。

彼らのブログの多くは、何の前触れもなしに更新が止まっていたりもする。それが生きることの残酷さだと思ったりもするし、もしくは人生の新たなステージに入ったと察することもできる。それらの小世界には個々の「哲学」があるように思える。

他方、50代のオッサンたちが綴るブログには、老いていく自分に抗おうとする男性の姿、あるいは理想通りに生きられなかった後悔や不満を投げつける男性の姿が多い。年を経るに連れて深みを増すはずの哲学はどこに去ったのか。

そのような50代のオッサンのブログもどこかにあると思うのだが、これだけ情報が氾濫したネット上では見つけることさえままならない。

しかしながら、私が求める五十路のオッサンたちの内面がネット上で見つからないのではなくて、そもそもの現状が五十路のオッサンたちの内面だと考えると見方が変わる。

三十路や四十路の男性たちの思考の中には様々な要素が含まれていて、結婚や趣味、子育てといったエピソードもあり、それらがブログの中に映し出される。だからこそ彼らの内面にアクセスすると面白い。

一方、五十路のオッサンになると、そもそもの思考が空虚になり、全体として仄暗い穴の中のような状態になるのかもしれない。あるのは不満や怒り、後悔、諦め、そして様々な煩悩など。それらをブログやSNSに投影したところで必ずしも楽しいはずもない。

無理に頑張っているオッサンたちの姿、あるいは人生を投げてしまっているオッサンたちの姿には哀愁が漂い、励まされることもなく、ただ軽く眺めてページを閉じるだけ。

実際に自分がブログを継続していても、五十路が近づくにつれてコンテンツが面白くなくなっていることを実感するわけで、その状態に哀愁を感じる必要もないように思えた。

面白くなくなってきているのは、ブログのコンテンツではなくて、自分の生活というコンテンツそのものだ。

五十路近くまで生きてくると、他のオッサンたちとの間で生き方について話す機会はなくなる。話したところで職業人生はの残り20年を切った。その後は老後という段階が待っている。

まもなくやってくる五十路という10年間は残りの人生を考える上でとても重要なステージになるような気がしてならない。現役からリタイアという過渡期をただ漫然と生きていると、崖から落ちるかのように生き方が変化するはずだ。

オッサンたちの中には老いてもなお崖から落ちるまいと、必死に壁にしがみついて3年や5年の職業人生の延長を求めたりもする。すでにオッサンではなくてオジイサンになっていたりもする。

一方で、もうこれでいいやと投げ出して早期退職し、なんだこれはイメージが違うぞと後悔しているオッサンたちもいる。

どのような生き方が正解なのかも分からない。

まるで思春期の若者たちのように不安定な時期。それが五十路なのかもしれないな。思春期の場合には将来があるが、思秋期の場合には後の祭りだ。引き返すことも方向を転換することも難しい。

実際に五十路が近づいてくると、何やら自由なようで自由がないというか、とても不思議な心境だ。おそらくこれから先の生き方においては、若い頃のように客観的に判断しうる道標はなくて、とにかく自分で考えて進むしかないのだろう。

よしこれで間違いないというトラックを進んでいても、脳卒中でいきなり倒れることがあるかもしれないし、すぐに終わると思っていたら長寿になってしまうこともあるだろうし。

イカダに乗ってただひたすら海原を漂流するような気持ちに似ていなくもないが、少なくとも漂流している間に何があって何を感じたのかくらいは録に記しておこう。

誰がそれを読むわけでもなく、自分自身に終わりがやってきた時に暇つぶしになる程度に。