2022/06/10

つまらなくて暇つぶしにもならないブログ記事

他のブロガーに対する辛辣な感想ではなくて、自分自身が書き綴っている録のこと。近くはないけれど遠いところに定年退職が見えてきたオッサンの日常生活はほとんどがルーティン化されている。それを日記として記したところで多少は盛らないと面白くなるはずもない。

だが、日記とはそもそも他者に見せるものではなく、自分が生きてきた記録を残しているだけという見方もあり、それらが面白い内容である必要もないように思える。とはいえ、他者から面白く思われるかどうかは別として、最近のHYPSENTは開始当初からの陰鬱さがさらに深みを増し、自分で録を読んでも気分が落ち込む。通勤時間の暇つぶしであっても読みたくない。


なるほど、自分が書いた小説の表現があまりに変態的すぎて著者自らが吐き気を催した江戸川乱歩のエピソードは強ち誇張ではない気がする。

このブログを始める前は、子育てだとかロードバイクだとか街づくりだとか、まあそういった類のテーマでいくつかのブログを続けていた。

それらはすでに閉鎖してデータを削除してしまったので跡形もないけれど、それぞれのテーマに関心がある人たちがアクセスしてくださったり、自分でブログエントリーを読んでも暇つぶし程度にはなった。

だがしかし、最近のHYPSENTは私自身にとってヤフーニュースのコメント欄と同じくらいに気が滅入る。自分で書いて気が滅入っていては笑い話にもならず、とはいえ気が滅入る生活が続いていることも確かだ。

ところが、完全にネット上から消し去ったはずの過去のブログについては、私が頼んでもいないのにアーカイブサイトに破片が残されていることに気付いた。実際に読んでみると、かなり痛い内容だった。明らかに自分自身が別の人物像を演じていたからだ。

とりわけ興味深かったのは、すでにバーンアウトの症状が生じていた2017年から2018年頃のブログ記事。この頃の私は感情が枯渇してロボットやアンドロイドのような状態だったので、もはや自分とは別の人が書いているような文体になってしまっている。

妻がブログにアクセスして内容をチェックしていたりもしたので、子育てを機に豹変して家庭で荒れ狂う妻の姿をノンフィクションで記して苦悩の記録を残すこともできず、忙しい共働きの子育ての中でサイクリングという趣味を細やかながらも続けるという父親をネット上で演じていたわけだ。

しかしながら、よくよく考えて見ると、どれだけの割合のブロガーがネット上に自分の内面を忠実に投影しているのだろうか。それらのブログの多くは現実の一部を切り取っただけのコンテンツだ。

ネットどころかリアルな世界でさえ、人はペルソナを被って生きている。

SNSが全盛のご時世でブログサービスを使っているユーザーの数自体が限られてきているし、SNSにおいて吐き出されるカオティックな様相こそが人々の実際の内面なのだろう。

では、現在のHYPSENTが私の内面を忠実に投影しているのかというと、陰気な部分の比重がかなり高めになってきているように思える。しかも、何事についても真正面から受け止めて真面目に思考するような偶像を演じ始めてはいないか。

すでに閉じてしまった過去のブログに残された文章の中に、その違和感の理由を紐解くヒントがいくつか残っていた。

リアルな私の思考は確かに陰気ではあるのだが、普通の人ならば考えたり気付かないくらいに突飛な内容が含まれている。優れた洞察力とか、類稀な論理性とか、そういった話ではなくて、普通の人は考えないことを考えているらしい。一言で表現すれば変態性のひとつとしてカテゴライズされる。

HYPSENTを始めた時には芥川龍之介風の暗い文体を書き綴りたくて、あえてそれらの側面を省いて文章を書いていたのだけれど、結果として自分が読んでもつまらない日記、あるいは自分自身のリアルな内面を反映しない日記になってしまったようだ。

例えば、夫婦生活が長くなると世帯によってはお互いの遠慮がなくなり、夜の営みもなくなり、ただ同居人として連れ添う余生が続く。そのような生き方は何と虚しいことかと嘆くのがHYPSENTの文体だな。陰気な私の思考のA面と表現して差し支えない。

だがしかし、リアルな私は思考のB面で余計なことを考えている。その多くがママさんたちから「キモい」と指摘されるような内容であり、極希に一部のオッサンたちに共感や含み笑いを届けるらしい。

いきなり腰下の話になって恐縮だが、不倫や風俗、パパ活といった家庭のカタストロフィに向かって突き進むことのない模範的で真面目な父親たちが、冷え切った夫婦仲を耐えるために自家発電によってフラストレーションを解放していたとする。あくまで仮定の話だ。

その活動の中で気が付くことはないだろうか。数々の映像作品に登場する男性たちを観察してみると、別の作品でも見かけた人物が登場することがよくある。作品数の概算値、および男性たちの重複の頻度に基づいて計算すると、それらの男性たちの総数についてある程度の試算が可能だ。

実際に計算してみると現状とあまり外れていない。彼らの数は素人物を含めても野生の熊と同程度の少数だ。余程の偶然でもなければ日常生活で出会うことはない。

ところが、映像作品に登場する女性たちの重複の頻度があまりに低すぎる。一部の人たちのシリーズ作品は認められるが、かなり以前から同じ登場人物を見かけることが少なくなった。

その疑問が何を意味するのか。試算することが不可能なくらいに膨大な数の人たちがこれらの創作物に関わっているということだ。数千人どころか数万人、過去から積算すれば数十万人という規模ではないか。

確率論的には、満員電車や混み合った駅構内で彼女たちとすれ違っていたり、過去に関与していた人たちが保育園の保護者会や小中学校のPTAの場に居合わせている可能性も否定しえない。真面目に計算するともの凄い話だ。

しかも、彼氏や夫に内緒というケースが圧倒的に多いはずだ。彼らは何も知らないまま連れ添い、他の男たちは過去のデータを共有して欲求を減らしている。実にシュールだ。

しかし、それをもって「これでは男性の結婚意識が減り、日本の少子化が進むではないか!もっと適切な法整備を考えてほしい!」といったヤフコメおじさんのようなことを考えているわけではない。

AIとCGを組み合わせたアダルトなデータを脳に直接取り込むようなインターフェイスを開発することができないだろうかと思考のB面が回り始める。

AIやVRなどがさらに発達すれば、自分が理想とするパートナーとリアルでもありバーチャルでもある世界に入ることができることだろう。手っ取り早く表現すれば映画のマトリックスのような世界のダウングレード版。

その世界では当然ながら生身の女性たちの人権や健康を害する危険性はなく、感染症の伝播の懸念もなく、民法における既婚者の不貞にも該当しない。

それらは性的な側面だけではなくて、ただの話し相手という存在にもなりえるし、ジェンダーレスな要素も充たしている。

ブレイン・マシン・インターフェースではカバーしえない接触的な刺激についても日本であれば問題ない。日本はその分野で他国の追随を許さない歴史と技術力を有している。

ところが、そのようなテクノロジーが実用化された世界において、人類は自分たちの欲求を制御することができるのだろうかと不安になる。

そう、論点はそこだ。

スマホが実用化されただけで前を見ずに歩く人々が溢れている。人間の依存性は強大であり、自制心は脆いものだ。そのようなインターフェイスが開発された場合、人々がのめり込んでしまう危険性がある。先進国ほど人口がさらに減少する未来が確実に訪れる。

加えて、ブレイン・マシン・インターフェイスの開発が必ずしも実現可能ではなかった場合、物理的な構造物として理想のパートナーを用意するという選択肢があることだろう。

なるほど、SFのストーリーの中で希に登場するセクサロイドは、その方向に思考を展開させた形というわけか。余程のバグでもない限り、パートナーが自宅で暴れて怒鳴ったり物を投げることはないだろう。

現実的な結婚生活よりも幸せな面があるかもしれないし、技術的にはすでに実現可能ではある。しかし、セクサロイドを自宅に設置すると目立つ。一見すると人形と生活している奇特な中年男性たちとライフスタイルが変わらない。また、店舗型のサービスとして利用するにはメンテナンス費用が高額になる。

となると、やはり物理的なデバイスを減らしたVR主体のインターフェイスの方が確実に普及するはずだな。

しかしながら、そのような技術が汎用化された世界はどうなるのか。少子化どころか人類存亡の危機に直面するかもしれない。VRでの子育ては絶対に楽だ。思春期の子供たちが父親に対して毒づくこともない。

....という、全く役に立たない無意味な思考を延々と続けるのが、私の頭のB面だったりもするわけだ。他者から見てそれらが面白いはずもなく、真面目に話すと「キモい」と言われるだけだな。

しかし、あくまで個人的な用途として暇つぶし程度に読むのであれば、このような録も悪くない。

ツイッターを眺めてみれば、もっとおかしな人たちはたくさんいる。