仲良くなったのかも。絶望と。
Amazonのプライムビデオで勧められた「少女終末旅行」という作品。まあ大丈夫だろう、デフォルメされた可愛らしい二人の少女がほのぼのした物語を繰り広げるはずだと信じて鑑賞を始めた。しかし、冒頭から心をえぐり取られるような残酷な世界観に覆い尽くされた。そのテーマが人類滅亡の瞬間であることは違うことなく、自分自身の人生の終焉さえ感じさせるインパクトがある。そして、寝付きが悪くなった。
ネタバレになるので詳しくは書かないが、自分たち以外の人類がいなくなり、それでも生き抜こうと地道に取り組む二人の姿はとても痛々しく感じる。
二人がどこに向かって進んでいるのか。過去の文明が残した階層型の都市群をひとつずつ上がり、最上層を目指す。とある翁が遺した言葉の通りに、そこに自分たちが助かるための何かがあると信じて。
多くの人たちのネット上のレビューで見かける「救いようがない状況」という表現はまさにその通りだった。もはやどのように思考を展開しても救われない。
二人の少女の会話はスローテンポでほのぼのとしているし、途中で出会う何人かの生存者も同じ雰囲気だ。
しかし、その絵面とは程遠いリアリティが表現されている。もはや慌てたり悲しんだりするような状況を通り過ぎてしまっているのだろう。
ここまで凄まじいインパクトがある作品が世に出ていたのに、どうして私は気が付かなかったのだろうか。その公開時期を知って納得した。
このアニメ作品が公開されたのは2017年。
共働きの子育てに入って妻が豹変して暴れるようになり、義実家による干渉が激しくなり、しかも長時間の電車通勤で心身が疲弊して私がバーンアウトを起こしたのが2017年だ。その当時は感情が喪失してロボットになったような感じだった。
ここは笑うところだと認識すれば意識的に笑い、ここは気の毒そうな顔をするところだと認識すれば相応の表情を取り繕い、しかし内面は抜け殻のようになっていた。思考も上手く回転せず、時間の流れだけが速かったというぼんやりとした記憶が残っている。
感情が枯渇し、生きることの気力さえ灰になったような悪夢の中で、アニメを楽しんでいる余裕はなかった。
さて、この作品はスローテンポの進行の中で強烈な印象を放つシーンが連続するという珍しい構成だ。そして、やはりこのエピソードは外せない。作中にて二人の少女の前にとある成人女性が現れる。彼女は階層化した都市群から脱出して別の地域に移ろうと、自分で飛行機を作り、ひとりで空に飛び立った。
しかし、その機体は離陸してすぐに空中分解し、彼女は儚くもパラシュートで落下することになった。
階層化した都市の最下層はすでに人が生きられるような状態ではないことだろう。そこに向かって落下する彼女はなぜか笑顔の表情を見せていた。視聴者から見てもこの女性は絶対に助からないことが分かる。しかし、発狂したわけでもないのに、どうして彼女は落胆することもなく落ち着いて微笑んでいられるのか。
その光景に居合わせた少女のひとりがつぶやく。
「わかんないけど、仲良くなったのかも。絶望と。」
このフレーズは、文面だけではなくて作品の世界観との組み合わせが必要だと思う。絶望と仲良くなるとはどういうことか。文字の並びだけでは分からないことだろう。
このシーンは私の心の芯に突き刺さり、同時に何か懐かしい感覚が蘇った。
バーンアウトやうつ病、おそらくパニック障害や適応障害においても、自分の力では救いようがない絶望感が襲ってくる。
「絶望」とは文字通りに希望を失うことだが、本当の意味で絶望したことがある人はどれくらいいるのだろう。
私の場合には、自ら幸せになりたいと願って結婚して家庭を持ち、結果として感情の喪失に繋がった。妻や子供たちが自分を助けてくれることもなかった。
思い通りに心身が動かない状態になり、まさに絶望に直面して苦しみ続けていたわけだ。個人的には救いようがない。
しかし、途中から「絶望に慣れる」ような不思議な精神世界が自分を取り巻いた。
その世界のすぐ近くにあるのは「死」というステージだ。いや、すぐ近くどころか生と死が境目なく繋がっているような感覚があり、両者が等価値に思えた。
生きることを達観したといった高尚な状態ではないが、諦めとも違う。不思議な感覚と思考だった。
苦しいからといって慌てることもなく、むしろ落ち着いて現実を眺めていた。なるほどそうか、「絶望と仲良くなる」という表現は確かにその通りかもしれない。あの精神世界を表現しているとすれば、この作品は凄まじいまでのリアリティを有している。
アニメ版の少女終末旅行の最終回では、階層化した都市の最上層にたどり着く前にストーリーが終わる。二人の会話は前向きだが、それではタイトル通りの結末にはならないだろう。
コミック版を確認してみたところ、やはり悲劇的な結末になるらしい。おそらくそこまでのストーリーの作り込みをしていないはずだが、その世界観に感化された人たちが様々な推察を重ねていたようだ。
この物語は、人類の終焉というメインテーマの裏側に、個々の人々が「どのように生きるのか」というサブテーマがあるように思える。ハッピーエンドにならなくても、地道に生きる。その大切さを感じる。
五十路近くまで生きてみて分かることは、誰でもいつかは死が訪れるということだ。それまで精一杯生きよう。物事が上手く進まなくても、毎日を丁寧に生きよう。
さて、我が家ではとあるエピソードをきっかけとして、私が辛うじて有していた家庭への愛情が焼け焦げた感がある。
相変わらず夫婦としての絆をヤスリで削り切るような妻の言動には愕然とする。本人もヤバいと思ったのだろう。昨日から一言も会話を交わしていない。さすがに子供まで巻き込んだことは残念だ。
最近では妻の機嫌が良かったので老後は連れ添うかと思っていたが。
夫婦の対立が激化して、それでも私が家庭に残ったのは下の子供が悲しむからだ。しかし、最近では下の子供でさえ私に対して嘘をつくようになってきた。妻が子供たちに対してそのように躾けているので当然の帰結だろう。
妻や上の子供は私に対して情報秘匿や嘘のオンパレードだ。このような家庭を私が支える必要があるのだろうか。さっさと離婚して家を出ていれば、今頃は優しい人と幸せに連れ添っていたかもしれない。
私がこの家庭に何らかの希望を持っているのかというと、どうなのだろうな。夫として父親としての責任を果たしてはいるが、本気になって夫や父親であろうとしているのか。むしろ、希望らしい希望がないのだから、絶望だと表現して矛盾がない。
感情が枯渇した時点で、私はこの家を出るべきだったのだろうか。今さらそんなことを考えても遅いことは分かっているが。
そして、精神世界の最下層に落ち込む前に、前向きで熱い作品を観て元気を分けてもらうことにした。
なぜだか分からないが、アマゾンプライムが「うしおととら」を勧めてきた。団塊ジュニア世代にとってはコミック版がとても流行った作品だが、そうか、やはりアニメ版が公開されていたのか。
コミック版は劇画調だったが、アニメ版は女性のキャラクターだけでなく男性のキャラクターまでがセクシーに描かれている。水着姿の中村麻子の容姿は作り込み過ぎではないかと思うくらいにセクシーだが、変化した後のうしおのセクシーさも凄まじい。
自宅で時間を用意して、うしおととらを最後まで鑑賞することにしよう。前回の神崎川沿いのサイクリングで気付いた「小刻みなクエスト」のひとつだな。
あれだけ派手な作品を最終話まで観れば、落ち込んだ気持ちも少しは楽になることだろう。