ネットが好奇心の対象からただの道具になったのはいつからだろう
最近の私は、もちろん仕事ではネットを使うし、こうやって録を記す時にもネットを使うけれど、それ以外はニュースや天気予報、息抜き程度の映画やアニメの視聴くらいか。ただでさえ感染症とか戦争とか、まあそういった疲れる情報が氾濫しているし、ネットにアクセスすると膨大な数のおかしな人たちの頭の中に触れてしまう気がするので、できる限り他者と関わらないようにしている。
オッサンになると昔話が増えてしまうものだが、インターネットが一般に公開され始めた20年以上前、パソコンの画面の向こう側に広がる世界はもっと面白かった。動画どころか画像でさえ閲覧が遅いような環境ではあったけれど、テキストデータであっても興味深いコンテンツがたくさんあった。
結局のところ、インターネットは道具でしかなくて、それを使う人間の頭の中によって世界が形作られるのだなと、今さらながらそう思う。
ネットの黎明期には、膨大な数の人たちがスマホを片手に指先ひとつでアクセスすることができる時代が来るなんて夢物語でしかなかった。
「Windows 95」というOSが発売されて大騒ぎになった話なんて、現在ではオイルショックのトイレットペーパー騒動と同じような認識だろう。その前のプロトタイプは「Windows 3.1」というOS。さらにその前の「MS-DOS」に至ってはコマンドを使うことができる人がほとんどいないはずだ。
そのような黎明期においてネットにアクセスすることができたのは、情報通信についてそれなりのスキルがあったり、それなりの環境にいる人たちだった。コンプライアンスが緩かったということもあって、夜中の大学の研究室で学生がネットにアクセスし、遠く離れた学生たちとテキストベースのチャットを楽しんだり、趣味人がHTML言語で箱庭的なホームページを作ったり、まあそういった穏やかで平和な時代だった。
人によっては乱暴な物言いのネットユーザーがいたりもしたが、明らかに「おかしな人」はあまり見かけなかった。ネットにアクセスするためにはそれなりの教養や知性が必要だったりもしたわけで、あくまでネットは本業の片手間という形だったと思う。
画像も動画もアップロードできず、文字しか投稿できない環境であっても、面白いこと、勉強になること、共感することなど非常に興味深い世界だった。
他方、現在のネットはまさにカオスだ。人の醜悪な部分が放り出される情報地獄と表現しうる状況を目の当たりにすることがある。
自分は変わった感覚の持ち主で、思考が異常だと悩んでいたことがあった。けれど、昨今のネットを眺めている限りでは普通なんだなと思う。
5ちゃんねるについては、前身の2ちゃんねるの頃から大して変わっていないように感じられるかもしれないが、黎明期の2chはもっと面白かった。ユーザー同士の巧みな掛け合いや大喜利など、大笑いするような内容がたくさん並んでいた。
ツイッターが登場した時には素晴らしいツールが生まれたと思っていた。けれど、膨大な数の人たちの頭の中がネット上に放出され、それらが混沌とした集合体を生み出し、どこまでも巨大化を続けている。この情報の塊に飲み込まれて幸せになる人がどれくらいいるのだろう。モラルが破綻した人たちや自己愛が暴走した人たちからダイレクトにメッセージが届くなんて怖くて仕方がない。
海外ではあまり生じていないようだが、YouTubeの日本語のコメント欄には人々の底意地の悪さが積み重なっている。
ネットニュースにアクセスすれば、とりわけヤフーニュースのコメント欄に長文の投稿が並ぶ。どうしてヤフコメに張り付いている人たちは上から目線でコメントするだろうかと不思議に感じていたところ、やはり同じような印象を持つ人が多いようだ。少し前は医療専門家、今は軍事評論家のような文体が溢れている。
最近ではヤフコメにおける誹謗中傷が問題になっているけれど、ヤフーとしてはアクセス数の減少を懸念してコメント欄を閉鎖しないらしい。
現在では、気持ち悪いとか何様だと批判を浴びることが多く、確かに独特の状態になっているヤフコメ民たちも、昔は短文のサッパリしたコメントを投稿していた気がする。どう考えても正論のコメントに青ポチが投げ込まれるような殺気立った空気はなかった。
コメントを投げ込む人たちが歳を重ねたという経緯があるのだろうか。明らかに団塊ジュニア世代の中年男性たちが発したと思われるコメントが並ぶ。そこに団塊世代のシニアやゆとり世代の若い人たちまで参入して修羅道を形成してしまっている。
さらに、ツールの種類に関わらず、女性に対してネット上で粘着する人が多い。このようなネットユーザーを見かける度に、「ああ、たぶん同世代のオッサンなのだろうな...」という推察が生まれる。
平日の昼間からネットに張り付いて自分のコメントを投稿する人たちは、自由に使える時間が豊富にあるのだろうか。そのような人たちの中には無職の中年男性たちが多く含まれているのではないかと指摘する意見が散見される。現在では、その傾向を指摘する必要もないくらいの社会的認識なのだろうか。
ネットは匿名の空間なので正確な割合は分からない。しかし、最近の統計資料を見て驚いたのだが、現在の日本では中高年の引きこもりが60万人以上もいるらしい。その多くが男性なのだそうだ。
60万人がネットにアクセスしたら凄まじい通信量になるだろうし、より若い人たちを含めるとニートが100万人を超えているらしい。彼らの多くがネットという世界に浸っていることだろう。ネットというツールが社会との接点になっているだろうから。
また、昨今のネットのコンテンツは企業による広告をベースとして無料になっているものが多い。ニュースにしても娯楽にしても、さらには性的な内容においてさえ無料になっている。それらの情報に労せずアクセスすることができる世の中になった。ネットという存在がなかったなら、彼らは現在のような生活を続けることができるのだろうか。
加えて、8050問題と呼ばれているように、「80」代の親が「50」代の子供の生活を支えるという状態が社会問題化している。50代で子供という表現は適切なのかどうか分からない。家系図としては子供に該当するが、社会的には大人なのか子供なのか。
職場で働き、結婚し、子供を育てるという人生がいわゆる「リア充」なのかどうかは分からない。私の場合にはかなり厳しい生き方だと思いながら耐えている。かといって、年老いた親に縋って働かずに過ごす生き方が幸せなのかどうかも分からない。生きることの意味をどのように考えるのだろう。
また、日本の社会は一度でもレールを踏み外すと戻ってくることが難しい。何らかのトラブルで引きこもってしまい、親の収入や年金に頼って生活している同世代の中年男性だって、それなりの事情というものがあると思う。
私だって、例えばストレスに耐えかねてうつ病を発症したら、この先にどうなるか分からない。けれど、これまで働いてそれなりの税金を納めてきたわけだから、社会からの還元があってもいいかなと感じはする。
では、若い頃から働かずに高齢になった人たちの場合はどうか。感情論はともかく、日本の法制度の下では、親が亡くなって生きることが難しくなれば、その人たちを社会が支えることになる。生活費にしても、医療費にしても、多くの人たちが地道に納めた税金によって支出される。
しかし、そのような人たちがネット上で個を主張することは人の自由であって、何を考えようと人の自由だ。なるほど、社会的に失うものがないから無敵というわけか。無敵とはいえ、それなりの背景や都合があるのだろうと察しもする。
引きこもりという事象はネットの黎明期にはすでに存在していたが、ネット上でその当事者に出会うことはなかった。今はその人たちが普通に、いや、むしろ自分たちの居場所としてネットの世界にやってくる。
彼ら以外にもネットにはたくさんの人たちがやってきて、様々な社会の課題を知ることになる。それらはオフラインの世界で現実的に存在しており、ネットが普遍化して誰でも使えるようになったことで多くの人たちが知ることになった。大変な世の中になった。
今さら昔を懐かしんだところで戻らない話なので、「これは道具なんだ」と割り切ってネットを使い、この世界を拠り所にしないことが大切かもしれないな。