目が見えない父親を助ける子供たちの姿
ゴールデンウィークの初日。相変わらず溜まりに溜まった洗濯物を洗って干し、昼前に職場に出ることにした私は、連休で浮かれている人の群れに辟易しながら都内に向かった。しかし、乗り換えの駅構内の中でとても感動する光景を見かけた。感動という表現は適切ではないな。しかし、彼らの姿は敬服に値する。
電車や駅構内では人間の醜態をリアルに感じ取ることができる。ひたすら苦しむ人たち、あるいは自分のことばかり考えて行動する人たちの姿は、まさに地獄絵図の中に描かれた姿と観念的には等しい。
何をもって醜態と感じるのかは人それぞれだ。その判断基準を端的に「普通」と「おかしい」という二者に分けた時、その境界線は個々によって異なる。私としては人々の醜態だと感じていることであっても、他者においては普通だと感じる。それが自然なことだろう。
私のようにASD傾向がある感覚過敏持ちの場合には、聴覚や嗅覚だけでなく視覚からの情報に強く反応してしまうことがある。一般的には見過ごしてしまうような些細な違和感あるいは変化に気付く個体は、おそらく人類が原始的な生活を営んでいた時には社会において必要だったのだろう。
その名残りが自分の中で発現していることを喜ぶ余裕はなく、そもそも現代ではあまり必要がない性質だと思う。私の場合には、偶然に近い確率でその性質を仕事で使うことができた。ただそれだけのこと。
私が「ウォーリーを探せ!」の絵本を見ると、すぐに目標を見つけてしまう。混み合った電車の中に乗り込んだ時、周囲を見渡すだけでマスクをしていないオッサンや若者の数を一瞬で把握してしまったりもする。
このように膨大な数の要素の中で様子が違う要素を見分けるという性質は、明らかに自分が有している発達障害を背景としているはずだ。脳の情報伝達あるいは器質的に何かの特徴があるのかもしれない。
大昔であれば天敵から身を守る手段になったのかもしれないが、現代では無用な視覚認知能力ではある。けれど、その能力を活かすことができる職に就けば話が異なる。
とはいえ、自分にとって、そのような視覚能力は「普通」のことだけれど、一般的には普通ではないので「おかしい」という理解になることだろう。そのような能力自体が妄言や中二病の類いであり、堂々と言っている人の頭はおかしいと。
一方で、私の目から見える世界では、その人が「普通」だと思っていることが「おかしい」と感じることがたくさんある。とりわけ気になるのはスマートフォンを凝視した状態で前を見ずに歩く人たち。彼ら彼女らは「スマホゾンビ」と表現される。その呼び方は揶揄ではなく、「暴走族」といったミームに該当するように思える。
私の目から見ると、駅構内でスマホゾンビになっている人たちは普通の人たちではなくて、おかしな人たちだと認識される。脳の活動を小さな情報端末に支配され、前を見ずに歩くなんて狂っているとさえ思う。そもそもフィクションの世界に登場するゾンビはきちんと前を向いている。
通勤中に見かけるスマホゾンビの数は数百人を超えていることだろう。あくまで私の思考の中ではおかしな人たちがたくさん彷徨っている空間に身を投じなければならず、それが大きな苦痛になる。
観察することが私の仕事のひとつなので、目の前のスマホゾンビたちがスマホで何を見ているのかが気になる。どの画面を一瞥したところで、他者との接触という危険と引き替えにする価値のない情報ばかりだ。
ヘッドホンを付けてテレビ番組や映画を観ながら歩いていたり、スマホゲームに熱中しながら歩いていたり。ネットニュース、LINEといったSNS、どこかで撮影した写真など。歩いている時間が暇だと感じるのは人の自由だが、前を見ずに歩いて誰にもぶつからないのは、他者が避けてくれているからだ。そのことにさえ気づいていないのだろう。やはり異常だ。
常識やマナーが破綻して自分の欲求だけを充たそうとするスマホゾンビたちは、きちんと前を見て、哲学的な思考を巡らせながら歩くといったことができないのだろうか。むしろ、高度な思考を巡らすことができないからこそ、スマホの画面に映し出される単純な情報に快感を覚えるのか。
このような人たちとの間では、まともな会話が成立しないように思える。おそらく、自分のことばかり発言して他者の話を聞くことができないかもしれないし、普段から「考える」という習慣がないのだから知的なコミュニケーションも困難なことだろう。
歩きながらでもスマホを見るくらいなのだから、その他の場所でも暇さえあればスマホを見つめているはずだ。この人たちは、ネットに繋がったプラスチックの板を見つめてどれだけの時間を過ごすのだろうか。
スマホを介したネット上の情報は、人の脳に対して依存性を引き起こす。タバコをやめられない人が周りに迷惑をかけてでも吸ってしまったり、アルコール依存症のようなオッサンたちが自宅まで我慢できずに駅や車内で安酒を飲んでしまうことと同じようなものなのだ。
さらに驚くべきことに、スマホゾンビたちの中には駅構内の視覚障害者用の点字ブロックの上を歩きながらスマホを見ていることがある。信じられない話だ。モラルハザードと呼んでも差し支えない。駅構内で警察が取り締まるべき案件だと私は思う。
点字ブロックは視覚が不自由な人たちのために用意されている。スマホゾンビたちはスマホに依存しすぎて人としての常識やマナー、恥といった要素を失っている。精神的な依存症に該当するような状態なので、病態はともかく正常かどうかの判断は難しい。
しかし、繰り返しになるが点字ブロックは視覚が不自由な人たちのために設置されている。人としてのモラルやマナーが不自由になっているスマホゾンビが効率的に歩くためのものではない。
このように天気が良い休日に、どうして私は地下通路を歩きながらスマホゾンビに対して苛立ちを蓄積しているのだろうか。そもそも私はどうしてこのような生活様式に耐えなくてはならないのだろうか。結婚とは何か、子育てとは何か。自分はどうして所帯を持って子供たちを育てているのだろう。そのような堂々巡りの命題ばかりが頭の中に浮かぶ。
次の電車に乗れば職場の最寄り駅に着くという乗り換えで、私は駅構内の人混みの中にひとりの視覚障害者の姿を見かけた。
感覚過敏だとかASD傾向だとか、まあそのような発達障害の症候がある私なので、障がいではなく障害と書く。何をもって障害なのかというと、それは自分たちが普通だと考えている人たちから見て障害なわけだ。別にオブラートにくるんで平仮名にしてもらう必要はないと私自身は思う。
生きる上でのハードルを抱えた状態は苦しいけれど、五十路近くまで生きてくると逆にそれが誇らしくも感じる。
何の障害もない普通の人生を送っている人たちと比べれば、自分たちは苦しみ耐えながら生きることが多い。人生は一度きりで、人の寿命は限られている。イージーモードで楽に終わるよりも、たとえ本人が望んだことでなくてもハードモードをクリアして終えることに意味がないはずがない。
人混みの中で見かけたひとりの視覚障害者は、私より少し若いくらいの男性。おそらく40代前半なのだろう。駅構内で視覚障害者を見かけることは珍しくないのだが、彼の動き方に違和感を覚えた。彼は改札付近で立ち止まっていて私は通路のはるか後方を歩いていた。かなりの距離があるので詳しいことは分からない。
あくまで観察に基づく経験論としては、同世代の視覚障害者の中には白杖を動かしながら点字ブロックの上を堂々と進む人が珍しくない。おそらく、視覚を失ってから長い経験があり、その通行ルートを熟知しているのかもしれない。
しかし、その男性は、唐突に暗闇の中に放り出されたかのように立ちすくんでいる。理由は分からない。最近になって視覚を失ったのか、慣れない場所にやってきて方向感覚を失ったのか。
都内の地下鉄の駅員は忙しすぎて、彼の姿が目に入っていない。
明らかに彼の姿が視界に入っている通行人たちは誰も彼を助けようとしない。なにせ苦しんだ人が電車に飛び込んでも、電車が遅れると憤る無慈悲な人たちばかりだ。自分が苦しんでも誰かが助けてくれるわけではないだろうと。まあ確かにそうかもしれない。仕事として他者を助けることはあっても、善意で他者を助けることが少ない世知辛い世の中だ。
スマホゾンビに至っては彼に接触寸前になっている。国内では、実際にスマホゾンビと視覚障害者の接触事故が起こっているそうだ。どうしてスマホゾンビを取り締まる法整備が進まないのだろう。
自分が改札の付近までたどり着いたら駅員のところまで彼を連れて行こうと考えた。しかし、私はそこでとても驚くべき光景を目にした。
その視覚障害者の男性は背中に小さなリュックサックを背負い、シャツにジーンズ、そしてスニーカー。一般的な父親の休日の服装だ。そして、しばらく立ちすくんでいた状態から急に駅員がいる方向に歩き始めた。
彼の左手は、小さな手に引っ張られていた。
大人たちが遮っていたのでよく見えなかったのだが、小学1年生くらいの男の子が「お父さん、こっちだよ」と視覚障害者の男性の手を取って駅員がいる方向に向かって一生懸命に引っ張っていた。
その男性は前ではなくてやや上方を見上げながら頼りなく歩いていた。視覚がない状態で都内の混み合った地下鉄を乗り換える際に、方向感覚を失うことがあれば誰だってこのような状態になるはずだ。
そして、彼らが進む先を見つめた時、私の涙腺が緩んだ。目が見えない父親の手を引いている男の子の兄なのだろう。小学3年生くらいの男児が、駅の改札の近くにある窓口に背伸びをしてしがみつき、駅員に向かって懸命に何かを伝えていた。
状況を察した私は、しばらく立ち止まって彼らの姿を眺め、必死に涙を止めようとした。どうして涙を止めようとしたのかは分からない。感動したのだから泣けばいいじゃないかと思ったりもしたのだが、泣くことは礼を欠くと思ったりもした。
視覚障害者の男性は小さな男の子たちを育てている父親であり、連休に入って地下鉄に乗ってどこかに行こうとしたのだろう。私と逆方向のルートであればディズニーかもしれないし、大きな公園や動物園など。もしくは映画館だろうか。
彼が若い頃から視覚が不自由だったのかどうかは分からない。しかし、これまで見かけた同世代の視覚障害者と比べて歩き方がぎこちなく感じた。最近になって目が見えなくなったのかもしれない。
そして、混み合った都内の地下鉄の乗り換えで、彼は方向感覚を失って人混みに飲み込まれてしまったわけだ。同じ父親としては、子供たちは世話をする対象であり、守るべき存在だ。うちの子供たちは自宅で家事どころか片付けさえきちんとできない。
ところが、今の私が目にしている光景の中では、小さな子供たちが進むべき道を探し、視覚を失った父親の手を引いている。おそらく、この子たちは普段から父親を支えているのだろう。動揺した様子もなく、とても落ち着いて行動していた。この男の子たちは分かっているんだ。父親が自分たちのために外出してくれたということを。
彼らが生まれた家庭を幸せと感じているのか、苦難だと感じているのか。それは私には分からないけれど、小さな子供たちが現実を受け止めて一生懸命に生きている。そして、真っ直ぐに育っている。目にした親子の姿はとても立派だと感じつつ、しかし立派だと感じる私の思考がおこがましくも思えた。だから涙を抑えた。
翻って、我が子たちの為体は何だと残念に感じもした。父親が通勤地獄で苦しんでも、経済的に豊かな家庭であっても、それを当然だと思い、親の手伝いどころか玄関先で自分が脱いだ靴さえ揃えない。家庭の躾が失敗したことは間違いなくて、その責任は私にも妻にもある。
そもそも、家事が嫌いで片付けも苦手な上に夫を尊敬しない妻に対して、子供たちの躾や父親の畏敬といった多くを期待することは難しい。しかし、まあそれも家庭の姿のひとつだ。
父親を支える小さな男の子たちに私が感動し敬服したのは、自分の状況の中で懸命に生きている姿を目にしたからだ。何もハードルがなく平凡で豊かな生活であれば、それはそれで幸せなことだけれど、全てが整った家庭の方が少ないことだろう。
休日の仕事を終えた私は、駅の売店に立ち寄って、妻の好物のみたらし団子と子供たちが喜ぶであろう三色団子を買って帰ることにした。その売店のお姉さんがとても素敵な女性で、「3つの商品を買っていただければ値引きしますよ」と勧めてきたので、久しぶりの私の間食として芋ケンピも買うことにした。
うちの妻や子供たちは、私が何か買って帰っても食べた時だけ喜んですぐに忘れてしまう。そもそも父親に対する感謝や労いが少ない家庭なので、私はそのようなことに金を出すことが面倒になっていた。
しかし、まあこのようなことがあってもいいかと、妻に甘味の袋を手渡した。
翌日には、みたらし団子も三色団子も串だけが残り、芋ケンピは申し訳程度に数本だけが残っていた。
芋ケンピが子供たちの好物だったことを私は知らなかった。私のダイエットを助けてくれたと解釈しよう。
駅で見かけた親子の姿との落差が半端ない。