2022/04/03

ライフログを残すことの意味

バーンアウトの地獄から回復し始めて立ち上げたHYPSENTというブログだが、この録は私自身の生活録でしかない。四十路に入ると体感する時間軸がとても早く感じ、気が付くと日々が流れ去ってしまうように思える。ほとんどの人たちはそれが普通であり日常だと考え、過ぎ去る日々をそのまま看過してしまう。

気が付くと老いを実感し、早いものだったと諦める。今ではレトロな存在となった「日記」を用意して、その時々に生じたことや考えたことを記す人は少なくなったことだろう。しかし、老いを感じる日々の中で、自分の生きてきた内容を記録として書き留めることは大切だと思う。それは、自分が生きた時間を大切にすることにも繋がる。


例えば、40代に入った自分が1年前に何をやっていたのか、それを思い出すだけでも一苦労だ。2年前の生き様については思い出すことさえ難しい。

ブログやSNSといったデジタルコンテンツの意義については、自分自身のためというよりも自分の経験や取り組みを他者に知らしめることで満足するという意味合いが強いように思える。

その感情の背景となっているのは「自己愛」とか「承認欲求」といった集団の中での感情や欲求なのだろう。

ネットを介して人々が内面を露出することが容易になった時代、それらの取り留めのない欲望が噴出しているとも思える。

最近、備忘録程度として記したとある録に対して異様に執着するネットユーザーが現れたので、私はその録を非公開にして世に出さないことにした。

そのコンテンツは何かというと、自分の子供が中学受験を経験し、その経験の中で新浦安が中学受験に適した環境だと思ったという経験論を録に残しただけの話。

しかし、そのコンテンツをこの街のプロモーションに活かしたいと考えたのだろうか、録を公開してからほぼ毎日のようにその録にアクセスしてグーグルの順位を上げようとしてきた。気持ちが悪い。

他者のブログの検索順位を上げるなんてことを考えず、自分自身が子供を育てているのだから「自分の」経験論をブログで発信すればよいだけのこと。

そのネットユーザーが誰なのかは分かっている。顔と名前どころか住んでいる場所まで特定されている。偶然だがバス停で私が真後ろに立ったこともある。

その人物が自分のことをネットでアピールする割に家族についてほとんど触れない理由も知っている。ネット上で絡む相手を間違えないことは大切だ。

そういえば、別の話ではあるが、かつて自分が住む街をテーマにしたブログを積極的に更新し、その中で流行り始めの仮想通貨について宣伝した人がいた。そのアフィリエイトで儲けようとしたのだろう。

しかし、少し儲けたところで仮想通貨は大暴落。そのブログの宣伝に誘導されて大損した人たちがいるらしい。

儲けになると宣伝したブロガーは気をつけた方がいい。その人たちは今でもそのブロガーを探しているかもしれない。記事を削除して知らないふりをしても無意味だ。金の恨みは根深いので心配している。

まあとにかく、人の生き様には計り知れないくらいに多くの要素が影響を与える。私が新浦安の中学受験の実情について経験論を公開し、他者の人生に影響を与えてしまうことは避けよう。それはおこがましい行為だと思った。

私は自分の録を公開することについて重要性を感じない。不必要だと思えば非公開にするだけ。

四十路を越えて五十路に入れば、自分自身の人生は自分で評価することになる。あと10年もすれば還暦がやってきて職業人生は終わりになる。

ブログというものはネットツールのひとつでしかなくて、様々な人たちが様々な用途で使っている。自分の思想や趣味について地道に公開している人もいるし、多くの人たちはブログブームの中でとりあえず手を出して、写真をアップロードしたり文章を書くことが面倒になって更新を止めて放り投げたりもする。

ブログというツールは「ログ」でしかなくて、何らかの記録を書き留めるという意義しかないというのが私なりの解釈だ。

自分の経験や考えをネット上に残し、それらを他者が閲覧してレスポンスに喜ぶということに何の意味があるのだろうか。むしろ、面識のないネットユーザーが一方的に絡んでくる面倒臭さもある。

バーンアウトからようやく回復してきた2019年の終わりから録を残し始めて、これまでに300にも充たない記録が残った。しかし、2019年に自分が何を考えていたのかなんて、自分自身の脳だけでは何も思い出せない。

つまり、自分が生きてきたログというものは、このブログと手帳に書き綴った短文でしか振り返ることができないというわけだ。

多くの人たちはライフログなんて残さず、その日その日を生きているのだから、自分が老人になった時に「人生は夢のようだった」という感想を覚えて当然だと今になって思う。

試しにブログを始めてみたり、他者からのレスポンスがなくて飽きてしまったという理由でブログの更新を止め、そのブログが卒塔婆のようにネット上を漂っていることは多い。

しかし、いかに短文であったとしても、またそれが他者にアクセスしえない場所にあったとしても、自分が生きてきたことのログについては何らかのメディアに残しておいた方がいいと思う。

五十路が近くなってからの人生の進み方は信じられないくらいに早い。他者から見て自分はどうだとか、自己愛だとか承認欲求だとか、そのような価値観が灰になる老人というステージが迫ってきている。

ライフログを残したところで老いに抗うことはできないが、老いがやってきた時であっても自分は地道に生き抜いたという証になる。

信じたくなければ信じなければよいだけの話だ。そして、多くの老人たちが自分の生き様を振り返ることさえできず、まさに灰になったような思考の中で生き続けている。

何ともまあ取り留めもエビデンスもない話ではあるが、忙しい忙しいと言いながら録も残せない日々が続いた自分自身を見つめて感じたことだ。

「忙」という文字は「心を亡くす」と解釈になる。録も残せないような時期を過ごしている自分はあまり有意義な生き方をしていない。それを教訓として残す。