2022/04/02

義妹が結婚するらしい

新浦安にある妻の実家は、世帯レベルで観察した場合には首都圏の住宅地とは思えないくらいの「地方色」を帯びている。義父も義母も地方出身者であり、結婚後に浦安に引っ越してきたパターンだ。では、何をもって私が「地方色」とみなしているのかというと、地方によくある湿り気を帯びた世帯間の人間関係のこと。

他の世帯の情報についてはゴシップネタを含めて噂話を集め、時には自分で詮索しないと気が済まないけれど、「自分の世帯」の情報については外に出さないという駆け引きは、都会よりも人間関係が密で陰湿な地方の町でよくあるプロテクションのひとつだ。私も地方出身者だが、そのような世帯はとても多かった。


新浦安は様々な地域から転入してきた移民の街なので、首都圏においてさえ地方の特色が持ち込まれる。隣が東京ではあるが、土着ではない様々な地方色が混ざり合い、さらには漁村の色合いまで加わる。この街に対する市民の帰属意識の薄さには、この捉えどころのない地方色が関係している気がしてならない。

そういえば、少し前から政府や自治体が都市部から地方への移住を促すというキャンペーンが展開されている。人口の減少によって消滅する、あるいは維持することが困難になる地方自治体にとって、都市部から若い子育て世代を呼び込むことは死活問題になっていたりもする。

一方で、子育て世代にとっては自然あふれる環境で子供たちを育てたいという人、あるいは自分自身がのんびりと生活したいという人がいたりもするわけで、「Iターン」のような表現で地方に移住したりもするわけだ。UターンならまだしもIターンでは曲がったり戻ったりという表現にならないが、生き方そのものを曲げたという意味だろうか。

私の郷里も消滅の危機に瀕している小さな自治体だ。そして、年に1世帯くらいの頻度でわざわざ都会から田舎の村に移住してくる若い夫婦がいることを知って驚いていたりもする。あのような辺鄙な場所でどうやって仕事を持ち、子供たちに教育を授けるのかと。私はとても苦労したのだが、ましてや自分から引っ越してくる人がいるとは。

Iターンで地方の田舎に引っ越した後、その土地の住民たちから歓待されて今も幸せというパターンは本当にあるのだろうか。

移住者に対してネイティブな住民が話しかけてくるのは情報収集という意味合いがある。そして、地域の人たちが自分のことに興味があるのかとプライバシーを紹介すれば、頼んでもいないのに町中に噂を広げられる。地域の住民たちが気に入らなければ移住者は異物として認識される。

それは地方の田舎だけの話ではないだろう。この浦安市という街だって、埋め立て前の漁村の人たちと埋め立て地に流入してきた人たちは地域レベルで「水と油」になっている。

浦安市の場合には、埋め立て地に引っ越してきた移民たちがあまりに多すぎて、ネイティブな元漁民たちがプレッシャーをかけることがなく、むしろ居住域を分けることで互いに交流しないという道を辿ったのだろう。

また、移民たちには高額納税者が多いことから街の財政が潤い、施設や行政サービスとしてネイティブな浦安民にもメリットがあったということだ。このような経緯を浦安市の公式サイトにおいて堂々と書けばいいじゃないか。浦安の新町の人たちは、元町で開催される祭りに呼んでもらうことさえないし、呼ばれても参加するつもりはないと。

さて、地方の村社会の論理というものは移住者に限った話ではなく、田舎の論理に合わない住民は不文律を守らない存在として疎外されたりもする。私の場合にはその典型だ。人口が1万人もないような小さな町において、同級生だけでなくその親たちからも貶され、とても辛い思いをした。

なので、あのような陰湿な田舎で生活し続けることを私は望んでいなかったし、大学進学を機に郷里を去ることができて清々している。

ところが、首都圏で自立して生活し、そこで知り合った女性と結婚して所帯を持ったところ、再び陰湿な田舎の人間関係に引っ張り込まれることになった。東京の隣の街ということもあって、そのような地方の不文律のない義実家だと予想していたのだが、ネイティブではない移民の世帯なので地方色を踏襲していることに矛盾はない。

新浦安の妻の実家は、私が拒んでいたとしても妻を介して我が家の情報を吸い取っていく。その情報をどのように使っているのかというと、義母が中心となって義実家における家族会議、あるいは妻を含めたLINE会議が行われる。

メンバーは、義母と義父、義妹、そして妻。そこに私は含まれていない。

そして、過干渉な義母がとかくうるさいことを言い出し、芯が弱い婿養子の義父が引っ張られ、義母と同じ性格の義妹が上から目線でとやかく言い、その義実家の方ばかりを見て夫を大切にしない妻が加勢する。

結果として、我が家に対して義実家の意見が届く。それらの意向はあくまで妻の考えだということで私や家庭の方針に影響する。義実家の意向ではないのかと妻に問いただしても、「そんなことはない」と全否定して義実家を守ろうとする。

コロナ禍がやってくる前は、妻がいきなり我が家の資産管理について強く主張してきた。妻は金に執着するタイプではないのだが、我が家の貯金を海外の国債の購入に充てるべきだとか、何の脈絡もない提案だった。

その背景に義実家があるのは間違いない。なぜなら義父は証券会社の元社員だからだ。その直後にコロナがやってきて、外国債券市場が暴落した。

私が妻の提案を拒否したので大損しなくて済んだのだが、金に絡んだトラブルを招くような義実家は、たとえ義理であっても実家たりえないと私は判断した。

自分の世帯ではなくて、娘の世帯の貯金に目を付けてとやかく言うなんて信じられない。その貯金は私が身を削って貯めたものだ。生活に関係するほぼ全ての出費を私が担い、妻の収入については貯金していただけのこと。世帯レベルで考えると義実家がとやかく言える義理はない。

義実家の資産を私の世帯に相続するのであれば感謝すべき話だが、この一家にそのつもりは全くない。浦安に引っ越してきた時に義実家から提供されたのは、引っ越し直後の弁当だけだった。今から思い出しても忌々しい。その後の経済的な支援はなく、その割に戸建ての新居を購入するような人たちだ。

金にセコいどころか、私が稼いだ金に目を付ける義実家なんて害悪でしかない。妻においては事の経緯について説明責任があり、義実家はその疑いを晴らす必要がある。しかし、知らないふりをしてやり過ごそうとしている。

私はこの人たちとの情報の共有を拒絶することにした。

妻に私のことを話すと、情報セキュリティなんて何も関係ない状態で義実家のLINEグループに投稿される。そのSNSによって個人情報がどの国に集められているのかを知っているはずだが。愚かな行為だと思う。

妻は自分が言いたいことばかりを言って、私の話を聞いて理解しようとしないので、夫婦間の会話のキャッチボールは成立しない。少しでも時間があれば妻は家の中でスマホを凝視してゾンビ状態になる。そして、子供たちを大声で叱りつけ、気に入らないことがあると部屋の片付けもしない。

このままでは私がストレスで潰れてうつ病になるので、自室で生活することにした。

「部屋に引きこもってばかり!」と妻は私を批判することがあるのだが、引きこもりという表現は適切ではない。なぜなら、私は自室からきちんと出て出勤し、きちんと働いて家庭に金を持ち帰っている。

これは、夫の「引きこもり」という形態ではなくて、「家庭内別居」という夫婦の末期的な状態だ。

おそらく離婚した人たちの後方視的な分析に基づくデータだと思うのだが、家庭内別居に入った夫婦の80%が離婚するそうだ。

我が家の場合には、夫婦の意見の対立に加えて、義実家による干渉がストレスを増大させている。この義実家がもっと穏やかだったなら、まるで洗脳状態のような妻の実家依存もなかったことだろう。

そもそも、私がうつ病になって働けなくなれば、妻も経済的に困窮する。金にセコい義実家が助けてくれるはずがない。弱った私から金をむしり取ろうとするはずだ。油断も隙もない。

この義実家の違和感について、私は結婚する前の段階で気付いていた。何せ、最初の挨拶で私の婿入りを切り出してくるような人たちだった。遺産相続を含めて、婿入りよる私へのメリットは何ら提示されなかった。

特異な考え方だと私は感じたし、馬鹿じゃないかと思ったので婿入りを拒否して帰った。すると、結婚したいのならもう一度挨拶に来いと義実家が言い出した。

当然だが婿入りは拒否した。歳は取っているが、学歴も職歴も年収も何ら恥じるようなスペックではないわけで、それでも結婚に反対するのならば破談しかないと覚悟した。

そう、ここがポイントオブノーリターンだったわけだ。当時の私は勢いに任せて進まずに、一度立ち止まって熟考し、恥を捨てて逃げるという選択肢があったわけだ。

この人たちのことを全て否定しているわけではなくて、この人たちの考え方が私の考え方と全く合わないというだけのこと。

しかしながら、妻を含めて強固な共依存を形成している義実家のような状態が異常なのかというと、私なりの認識としては必ずしもそうとは思えない。むしろこのような家族は地方の町ではよく見かける。

移住者が多い都市部と比較して、地方においては人間関係が密だ。その関係は非常にローカルな話でもある。

他の世帯の情報については幅広く集め、それらの情報を自分の世帯で共有し、自分の世帯の情報は決して他の世帯に渡さないという方針が義実家のスタイルだ。

周囲を警戒し、本音と建前を使い分け、他の世帯との間で鉄のカーテンを引く。

妻と私との間においても、義実家の情報は制限されており、私が尋ねるまで妻は一切話さない。それどころか妻が話をごまかしたり、嘘を言うこともある。

子供の習い事の送迎を義実家に頼んでいたはずなのに、義母が面倒臭がって拒否していることが分かった。妻は私にそのことを伝えず、小さな我が子がひとりで習い事に通っていた。妻は子供に口止めしていた。

さすがに何たる底意地の悪さだと私は憤慨した。ところが、妻は何だかんだと言い訳をつけて義母の味方になる。この精神構造は理解し難い。

私の祖母は母親代わりだったので、とても世話になった。祖母とはこのような有り難い存在だと思っていたので、浦安の義母の我儘で怠惰な態度に愕然とした。自分の孫を大切にしない祖母は嫌悪の対象だ。

このような家庭の女性と結婚してしまったのは私の判断の甘さによるものだ。今さら後悔しても始まらない。

では、他の世帯のことを詮索しながらも自分の世帯への詮索をブロックするようなスタイルがどうして生まれたのかというと、それは自分の世帯を守るためだな。

人間関係が難しい田舎において自分の世帯を守るためには、村社会から標的にされることを防ぎ、その材料となる要素を隠しておく必要がある。

義父が育った地方の環境についてはよく知らないが、義母が育った地方の環境についてはよく知っている。

なぜなら、私の母親代わりだった祖母は、若い頃に義母の郷里の付近で生活したことがあるからだ。第二次世界大戦中は学生たちが工場や農村に動員され、そこで勤労に従事していた。

女学校に通っていた当時の祖母は、義母の郷里にあった工場で働くことになり、たくさんの爆弾が降ってきて死体が転がり、とても怖い思いをしたという昔話を紹介してくれた。その話を耳にしたのは、私が高校生くらいの時だろうか。

その話に加えて、祖母はその土地での人間関係についても紹介してくれた。「あの土地の人たちは、本音と建前を使い分ける。外面で良いことを言うけれど、裏で何を言っているのか知ったものではない。騙されちゃいけないよ」と。

自分がその後で首都圏に移住し、結婚した相手の母親がその土地の出身だったというのは、フィクションの物語であっても生じることが少ないパターンだ。

なるほど、祖母が言っていた話はまさにその通りだ。義母は自分の家の外の人たちに対して本音と建前を使い分け、裏で何を言っているのか分からない。

それは義母の底意地が悪いという要素を完全には否定しえない話ではある。けれど、油断ならない駆け引きが生じうる土地で育った人は、その成長過程で村社会の厳しさを刻まれる。

自分の世帯が他の世帯の集団から標的となって攻撃されるかもしれないという地方では、自分の世帯を守ろうという気持ちが生じて当然であり、そのためにも自分の世帯の情報を他者に渡さないという考え方になるのだろう。これら一連の流れは、祖母が語った昔話と矛盾がない。

義母に育てられた妻も同じ性格だ。私は外面を見て結婚し、その後で内面を知ることになった。今から振り返ると、妻の内面を察しうるエピソードはたくさんあった。今さら気づいても遅い。

かくして、義父はそのような世帯のスタイルに取り込まれて婿入りし、私はそのような世帯のスタイルに取り込まれることを拒否したわけだ。

一方、私の実家、とくに実父はとてもオープンな人物で、その町(むしろ村と表現した方が適切だろう)において冠婚葬祭があれば金を包んで他の世帯に行き、村人に悩みがあれば相談に乗り、住民同士で揉め事があれば仲裁に入るような人だ。

彼のような生き方は陰湿な地方の村社会の中では珍しい。しかし、息子である私のプライバシーまで村の中で広げてしまうため、実父に対しては情報の伝達を制限している。昨今では私のことを親戚や村の人たちに言って回っているに違いない。

では、私の実母はどのような環境で育ったのかというと、その町(こちらもむしろ村と表現した方が適切だろう)の大地主の家に生まれ、実家が農地や住宅地などを管理していたらしく、ローカルな社会において優位な立場にあった。実母の実家に対して攻撃するような世帯があったとしたら、他の多くの世帯から村八分にされたことだろう。

実母は他の世帯から話を聞かれれば答えるけれど、自分から積極的に噂話に入っていくタイプでもない。近づくと切られるような独特の空気を放っており、他の世帯を詮索することもない。

実母は気性が荒いが、実父のことを貶さない。妻が夫を批判することは恥だという考え方を持っている。だからといって実父が気ままに生きているわけでもなく、相応の対応をとるように実母から管理されている。これが普通の夫婦関係だと私は思っていた。

だが、うちの妻や義母は面と向かって夫を批判して貶す。夫婦像は様々だ。

さて、鉄のカーテンとも表現しうる義実家の情報管理だが、そのシステムに風穴を開ける存在が登場した。正確には育ってきたと表現した方が適切だろう。

うちの子供たちだ。

この子たちは妻を含めた義実家の鉄のカーテンを容易く開けて我が家との間を行き来する。村社会においては血の繋がりが重視されるわけで、地方の論理を引きずっている義実家も例外ではない。

また、うちの子供たちは頭が悪くないので、義実家が情報を伏せながら私を除外した家族会議を開いていたとしても内容を理解してしまう。

妻と義母が電話で話し合っている内容についても、我が子たちは妻の発言だけで状況を理解してしまうらしい。

もちろんだが、我が家に対しても義実家に対しても遠慮がないので、子供たちは我が家の夫婦関係についても、妻を介することなくオープンに伝えてしまっているはずだ。これは仮面夫婦とか家庭内別居ではないのかと。

情報が相互に共有されるのであれば、我が家の情報が義実家に伝わっても私は嫌悪感を覚えない。相互に秘匿にするのであればそれも構わない。義実家が我が家の情報を吸い上げて、共依存している妻を介して我が家に干渉することを嫌っているだけの話だ。

そして、とある日に私が帰宅したところ、風呂に入っていた子供がドア越しに義実家の情報を伝えてきた。

なんと、ずっと実家の子供部屋で生活していた妻の妹 (私としては妹だと思ったことは一度もないが立場的には義妹)が結婚するらしい。

義妹が結婚するだと?

子供たちがエイプリルフールの冗談を私に投げつけてきたのかと思ったが、上の子供は相手の男性のフルネームまで記憶して私に紹介してきた。さすが国内トップ50に入る難関中学に合格しただけのことはある。むしろ、一度耳にした言葉を瞬時に記憶するくらいでないと、偏差値70を超える中学には合格しえないということなのか。誰から遺伝したんだ、そんな能力。

「普通の」夫婦であれば、そのような話は以下のように穏やかで温かな雰囲気の中で紹介されることだろう。

 「今度ね、うちの妹が結婚したいそうなのよ」

 「そうなのかい?素晴らしいことだよ」

 「うん、それでね、実家に挨拶に行く前に、私たちとお茶でもどうかしらって」

 「いいじゃないか。僕も賛成だよ」

 「ありがとう、そう言ってくれると思って、お店を予約しておいたのだけれど」

 「助かるよ、予定は合わせておくね」

....何だか、このような理想的な夫婦像を描いていて、あまりの自分の無様さに涙腺が緩んできた。

義実家に挨拶に向かう前の段階において、兄弟姉妹の夫婦がいれば挨拶に行くという形が、これから結婚する男女の常識ではないのか。

私の弟が結婚する時には、弟は後に妻となる女性を連れて浦安にまで挨拶に来てくれた。

地方の村社会では、そのような段取りを省略すると無礼だと思われるし、これから親戚になる人に礼を尽くすという意味合いもある。親は時間が経てばいなくなるが、兄弟姉妹は長い期間にわたって協力関係にあるからだ。その配偶者に嫌われるとよろしくない。

将来に義兄になる人をすっ飛ばして話を進めていくというのは、義実家ならばやりかねない。いつものことだがベクトルがおかしい。

無礼だと憤る必要は私にはなくて、出身地のやり方、その世帯のやり方というものがある。私は義実家のやり方に理解を示し、無視という形で答えている。これまで散々苦しんだ。もう好きにやればいいじゃないかと。

なるほど、義実家には血縁としていくつかの親戚があるのだが、それらの親戚との関係が良くない理由が分かった。

以前、妻の祖母が亡くなった時に葬儀に参列したのだが、義実家だけが浮いているような張り詰めた空気があった。どう考えても親戚付き合いが失敗している。

過去には親戚との間で実際に様々なトラブルがあり、今でも関係が良くないらしい。

葬式で親戚が集まったにも関わらず、私や弟を中心に宴会が開かれてしまう我が実家の親戚の関係とは大きく違う。

義実家が招いたトラブルなのか、親戚が招いたトラブルなのかは分からない。義実家の方針は他の世帯から見るとあまり歓迎されないかもしれないし、親戚とのトラブルによって現在のような鉄のカーテンが構築されたのかもしれない。

私にとっては義理であっても妹と考えていない義妹だが、妻にとっては大切な妹だ。この度の縁談はとても喜ばしいことだろう。

私にとってもメリットがある。子供部屋で生活している義妹が年老いた時、誰が面倒を見るのかという話だ。我が子やその配偶者が世話をすることは避けたい。よって、この展開は望ましい。

それにしても...我が子たちを介して義実家の情報が私にリークしたことに妻は気付いているのだろうか。

義妹の結婚については式が終わった後で私に伝えられるかもしれないが、何たることだと私が嘆く必要はない。妻と私は子供たちが成人するまで同居するという関係だ。その妻の妹はすなわち同居人の妹なので、ほぼ他人に等しい。

この後の展開としてはどうなるか。割と容易に想像しうる。そのモデルケースがすでに存在するからだ。

義母には妹がいて、私にとっての義叔母に該当する。義叔母が結婚する際には義母を含めた実家(といっても義母と義祖父と義祖母というパターン、婿入りした義父も巻き込まれた)が反対して、大きなトラブルになったらしい。

結果、義叔母の家庭と私の家庭との間には、義実家によって鉄のカーテンが引かれている。私は義叔母の夫と話をしたことが数分間しかない。

義母はその人物のことをボロクソに貶すのだが、私には短い会話であってもそこまでおかしな人のように感じなかった。まあ色々と都合があるのだろう。

つまり、義妹が結婚したとしても、義妹の夫と私との間に義実家が鉄のカーテンを引き、その男性と私との間での交流を遮断するはずだな。義実家としては、自分たちが情報管理の中心にいないと気が済まないことだろう。

しかし、大丈夫なのだろうか。義母や妻の性格は夫の精神を削り取るくらいに激しい。そして、義妹の性格は同等もしくはそれ以上に激しい。この一家には女尊男卑がまかり通っていて、エクストリームなフェミニズムによるラディカルな思想がベースになっている。小文字が多すぎて意味不明だな。

義妹は「下僕となるくらいの男性ならば結婚する」と言い放っていたが、契約を交わして下僕になる人が本当に見つかったことに私は驚いている。妻や義母のようなペルソナに騙されたとすれば、私に次ぐ第二の生贄に他ならない。

結婚には勢いというものがあって様々なトラップが見えず、最初から見えていたら結婚なんてものは成立しない。

私はこれから、天台宗の千日回峰行に臨むような男性の存在を認識することになるというわけか。

自分の場合には感情が燃え尽きるくらいの精神的ダメージを負い、不動明王のマントラを唱えながら辛うじて生き続けることができた。死を身近に感じ、今では生きることを達観してしまった感じがあったりもする。

彼が同じ目に遭うとすれば、どの程度、耐えることができるのだろう。私なりの認識としては死を覚悟して解脱するほどのインパクトがあった。

いや、自分から望んで下僕になるくらいの気質の持ち主であれば、何の苦しみもなく生活することができるのだろうか。

興味があったりもするし、本気で心配していたりもする。