2022/03/25

浦安の喧噪から離れた静かな場所

「トラック一杯の薬より、一台の自転車」というフレーズがある。ドイツの諺なのだそうだ。この言葉はオリジナルを調べても出てこない割に当を得ているということで私も確かにその通りだと思う。私と同世代の五十路付近の男性たちは、常に何らかの悩みや苦痛をかかえて生きていることが多いはずだ。

スマホを眺めて時間を過ごしていたり、働くことさえできないくらいに疲れ果ててしまってネットに沈んでいることがあるかもしれない。モヤモヤとしたネガティブな思考が頭にまとわりつき、どこかに逃げたくなるけれど逃げ場がないような気持ちに取り囲まれて動き出す気力すらなくなるような。そのような時は、逃げればいいと思う。逃げることは恥ではない。


仕事や家庭から逃げることは難しい。趣味に向かって逃げよう。

趣味らしい趣味がないとすれば、それは無様なことではなくて、ちょうど良い機会だ。買物ついでに自転車屋に行ってみよう。今は自転車が品薄になっているかもしれないけれど、通販を含めればどこかに在庫がある。

廉価なママチャリよりは少し奮発して、5~10万円くらいの自転車を買ってみよう。クロスバイクでも構わないし、ミニベロでも構わない。「これがいい」と思った自転車が愛車になる。

そして、手に入れた自転車に乗って、どこかに逃げよう。

どこまで走って逃げるかなんて気にしなくても構わない。自分で歩いて逃げることはしんどいけれど、自転車に乗れば不思議と前に進む。バスや電車、自家用車では味わえない何かがある。

少しでも汗ばんできたら、それで十分に身体が変化したということだ。身体の調子が変われば脳の情報伝達も少しずつ変わる。薬剤で脳の調子を変えようとするからしんどいだけだ。なので、私は絶対に薬を飲まない。メンタルクリニックの売り上げに貢献する気もない。

自転車に乗り続けていると、「この部品はこうした方がいいかな」と感じるようになる。走っている最中に何かを飲みたくなればドリンクホルダーを取り付け、自分が走った距離を知りたければ廉価なサイクルコンピューターを取り付け、最初は格好悪いと思っていたヘルメットを被ることが普通になる。小遣いで無理なくカスタムを楽しんでいる時期が最も楽しいと思う。

ゴールデンウィークから夏場にかけては半袖で自転車に乗って、真っ黒に日焼けしてみよう。そのことだって自分にとっての大きな変化だ。

もっと長い目で見れば、中高年にとっては職業人生のリタイアが大きな節目になる。定年退職した後で何も残らなかったと真っ白になる老人は多い。そこから趣味を探したところで見つからずに困っている人もいる。しかし、堂々と胸を張って「趣味はサイクリング」と言える人生は素敵だと思う。

さて、達観した賢人かのようなことを書き連ねている私だが、本人の調子が良くない。仕事においてはストレスで発動不能になっていた過集中を取り戻すことができるようになった。しかし、浦安住まいのストレスによるダメージは、とうとう適応障害のレベルに至ったらしい。

「病は気から」という有名な言葉がある。「気」は東洋医学の「気血水」に由来する。「血」とはその名の通り血液のこと。「水」とは血液以外の身体の液体のことで、汗やリンパ液といったものが相当する。

気血水の概念において、「気」とは生命を維持するためのエネルギーを意味している。古来から続く東洋医学の分野では、そのエネルギーが身体のどこかにあることは推察されていたが、どこにあるのかを理解することはできなかった。

現代ではそのエネルギーが脳で生み出されていることが常識になっているだろうけれど、科学が進歩していない時代においても、「気」という概念があったことはとても興味深い。

「病は気から」という言葉は昔よりも今の方がずっと深刻なテーマになっていると思う。ストレスに起因した心身の不調の影響はとても大きい。また、腕をどこかにぶつけて怪我をした場合に腕を休ませればいいだけの話だが、脳に大きなストレスが加わった時には至るところで不調が生じる。

年明けからの私は浦安という街の中を歩くだけで心拍数が高まり、気持ちが落ち込み、目眩がやってくる。たまに耳鳴りや頭痛が生じ、駅の人混みで精神性の下痢がやってくることさえある。

義父母がアポ無しで自宅に突撃してきた場合には1週間くらい全身がダルい。最悪の住環境だ。

そのような時には、思考の負のループにとらわれてしまう。「ああ...妻の実家がある浦安市に引っ越さなければよかったのに...そもそもこの結婚は間違っていたのではないか」と。

ストレス、ストレス、ストレス。

10年以上も苦しみ続けた往復3時間の通勤地獄のストレス。

頭にネズミの耳を取り付けて、キャリーバッグを引きながら街に押し寄せる奇妙なテンションの若者たちによるストレス。コロナ禍が落ち着くと、その鬱憤を晴らすかのように人々が浦安に集まってくる。

配偶者の親によるストレス。何の連絡もなしに、ドアを開けて義母や義父が家の中に入ってくる。妻は私に相談もしない。子離れ親離れができない共依存が気持ち悪い。

そして、浦安という街自体のストレス。

外に出て気分転換しようとしても、道路には引っ切りなしに自動車が走り、歩道には人が溢れ、とにかく喧しい。

こんなに人口密度が高くて鬱陶しい街のどこが住み良いのだろう。「浦安に住みたい!」とか「浦安大好き!」というフレーズは、この街をビジネスの対象としている人たちが言っている。

それらは主観なので否定されうるものではない。しかし、私の主観ではそれらを肯定しえない。

我慢し続けて10年以上、心身はボロボロになったが、よくここまでの精神的拷問を受けても発狂しなかったものだ。

妻や義実家のことなんて関係ない。私は自分の子供たちのために耐えてきた。

自室に生活用品や自転車を持ち込んで、そこをシェルターとして生活してきたのは、自宅で甲高い大声を上げて怒鳴る妻の言動に耐えかねたためだ。かつての私は、その言動をまともに受け取ってバーンアウトを起こした。

あの当時は若かったのでバーンアウトからうつ病への進行が穏やかだったが、今の私は老いた。再びバーンアウトすれば重度のうつ病になって働くことさえできなくなる。そうなれば、子供たちの大学進学の学費を用意することもできない。

いくらストレスがあったとしても、家庭の経済的な状況を維持する必要がある。妻が私の心身の健康の大切さを理解しているとは思えない。大型家電と同じような扱いだ。

我が家では修理が必要なのに妻が気付かず使い続けて壊れた家電が多い。本人は普通に使っていただけだと主張するが、説明書をきちんと読まず、メンテナンスもしない。私は家電のように壊れたくない。

それでも別居や離婚に踏み出さなかったのは、子供たちのため。妻のためではないし、子供たちが成人した時にその後を考える。

以前は互いを理解できないのかと夫婦喧嘩を繰り広げることが多々あった。しかし、妻の頭の中は義母によって思考の操作がなされていることに気付いた。家庭内の躾という範疇を超えて洗脳に近い。

頼んでもいないのに義母が妻を介して我が家に干渉してくる。しかも、妻が義母に依存してしまっている。義母との関係を断ち切らない限り、私の目から見た我が家に安寧は訪れないし、夫婦間の相互理解は不可能だという私なりの結論に至った。

いくら妻と仲良く会話していても、LINEや電話、日常の自宅突撃によって義母が割り込んでくる。

義母の意見なんて求めていないと私は思うのだが、非常に鬱陶しい。男女問わず他の家庭のゴシップネタを把握していないと気が済まない中高年がいたりもするが、まさにそのパターンだ。

妻を介して私の私生活の情報まで吸い取り、義実家の中で義母や義父や義妹が上から目線であれこれと言っている姿を容易に想像しうる。この人たちは金や労力は出さないのに、口は出す。

人には知られたくないことがあって当然で、それらを詮索する必要もない。自分たちの家庭についての情報は殻の中に閉じ込めて、私の家庭についてとやかく言うことは許されない。妻がそれを肯定しているが、私は否定する。私の許可なく義実家が家の中に入ってきたら警察を呼ぼうかと本気で考えている。

それにしても...以前、義父が死にかけた時には私の人脈で命を助けた。その人脈は私が地道に働いて築いたものだ。その時、知人や友人がいたとしても義父を助けてくれる存在はいなかった。だから死にかけた。

自分の娘が私と結婚していなかったなら、義父はすでに墓の下だ。義母についても今のようにやりたい放題で我が家に干渉する気力が残っていなかったことだろう。つまり、義父や義母には私に対して恩がある。妻に至っては実父の命を夫が救ったわけだ。

恩人に対する扱いがあまりに軽くはないか。過ぎたことは気にしないというわけか。命よりも大切なことがあるのか。

まあいい。私としては自分の義に従っただけだ。妻の父親が困っていたから助けた。ただそれだけのこと。私が困っていても妻や義実家は助けない。それはその人たちの義によるもので、義があるかどうかも私には知りえない。

ただし、たとえ親子であったとしても、家と家の間には明確な線引きが必要だ。この一家はそれが分かっていない。自分の家族という壁を高く作り、壁の外の人に警戒し、そのような考えを続けているからこの一家には仲の良い親戚がいないのだろう。

義母の言動は顔をしかめて苦しむレベルだが、妻は義母の意見を従順に受け止めて、義母の味方になって私を否定することが多い。この態度がボディブローのように私の精神を削ってしまう。

配偶者ではなく実家を優先するというスタイルは、熟年離婚の大きな理由になる。今の私はその意味がよく分かる。

この義母のパーソナリティは私から見ると理解しえないものであり、未だに娘を独立した存在として認めようとしない。

だが、五十路近くまで生きてくると、考えたところで解決しない苦しみがあって当然だ。苦しんでいるのは自分だけではない。

最近の我が家の平日は洗濯や掃除が滞っていることが多く、休日になると私が何度も洗濯機を回し、部屋の中を片付けている。それだけで休日の時間の多くが削れてしまう。

妻としても子供たちの勉強を見たり、子供たちを叱りつけたり、その他の時間はずっとスマホを見つめて記事や漫画を読んでいる。

夫婦の間に会話がないのは以前からだ。もう諦めた。

しかし、妻が家の中で暴れ続けている休日には耳栓を超えて音が響いてくる。耳を塞いでも耳鳴りがすることがあり、自分が廃人になるのではないかという恐怖さえ感じる。

そのような時、短絡的な思考では離婚という解決を求めてしまうものだが、それは子供たちが成人した後で考えるテーマだ。今は夫として父親としての役割を果たす。ストレスについては静かな場所でリラックスして流して減らすしかなかろう。

とはいえ、この浦安という街はどこもかしこも喧しい。静かな場所で心を落ち着けることが難しい。

どこを歩いても人がいる。どこに行っても自動車が走り回り、公園であっても視界にたくさんの人がいて、大きな声や人工の音が聞こえる。狭い市域に人間がひしめき合って生活しているのだから当然だ。

また、家庭や街において音が気になるという問題は、家庭や街に直接的な理由がありもするし、私自身の感覚過敏にも理由がある。

ASD傾向がある人には感覚過敏を示す場合がよくあり、その感覚過敏には聴覚過敏が含まれる。聴覚過敏が重度の場合にはミソフォニア(Misophonia)と呼ばれ、生活において苦しみを伴う。

感覚過敏を有する人たちは生きづらさを覚え、社会に適合することが難しくなって自宅に引きこもったりもする。私の場合には幸いにも感覚過敏を仕事で活かすことができる職業に就くことができた。

職業人において感覚が鋭いことは必ずしもデメリットにはならない。普通の人が識別しえない微細な変化や相違を察することができれば、その能力はメリットになる。

だが、日常生活においては感覚過敏が生きること自体の足枷になっていることは間違いない。

例えば電車に乗ると、隣に座っている乗客の呼気の臭いをマスク越しに感じ取ったりもするわけだ。

私も男なので、美しい女性が隣に座ってくれると、髪の毛や呼気、そしてどこから香ってくるのか分からない匂いに包まれてうっとりしたりもする。だが、そのような機会は一年で一度あるかないかくらいだ。

往々にして自分と同世代の中年男性の皮脂と酒と口と腋の臭いに襲われて気分が悪くなり、駅のトイレで吐くこともある。在来線の中で安酒とスナックをあおっているオッサンは捕まえた方がいいとさえ思う。

家庭においても、「自室に引きこもってばかり!」と妻から抗議されることがあるのだが、妻や子供たちが静かにしてくれれば引きこもりはしない。このままでは心身の健康を損ねて働けなくなるから、私は自分自身を保護しているだけだ。

私が必死に稼いでくる金によって家族が経済的に豊かに生活しているにも関わらず、その取り組みに感謝するどころか聴覚過敏の辛さを理解しないことは残念だ。

ということで、浦安という街はどこに行っても人がいて、どこに行っても人工音がする。このような街で落ち着けるはずがない。

しかし、この喧しい街にもわずかだが静かな場所はある。気が触れそうなくらいにストレスをかかえた私は、ミニベロに乗ってその場所に向かう。

自転車に乗ることを「ライド」と呼ぶことがあるが、ロードバイクがサラブレッドのような馬、ミニベロはポニーのような馬に乗る感覚に似ているような気がする。

戦国時代に使われていた馬はポニーのように小さかったとか、それは大嘘だとか、誠に不毛な議論が交わされていたりもする昨今だが、ミニベロは乗って楽しく、見て楽しい。ロードバイクのようにウェアに気を遣う必要もなく、気楽に部屋から出して普段着で走り出すことができる。

太いタイヤを取り付けたミニベロは段差にも強く、それでいて小回りが利いて実に快適だ。

私が眠る時にはすぐ横にミニベロを置いているし、カスタムを加えたのでさらに愛着が高まった。

カスタムの仕上がりはそれなりに満足ができるもので、あとは乗り込むことで自分の身体を自転車に合わせていく時期だと思う。

浦安市には元町と中町と新町という居住エリアがある。それぞれの地域にはこれでもかと言わんばかりに住宅が作られ、人々が密集して生活している。

とりわけ新浦安は縦方向に何層にも重なった団地が立ち並んでおり、市域の何倍もの住居面積が生み出されている。結果、異様なくらいの人口密度を生じている。誇ることができない千葉県ナンバーワンだ。

しかし、人口密度の高さがこの街の財政力に繋がっていることは間違いなく、コンパクトシティという利便性の高さと狭苦しい環境との板挟みの中で大なり小なりストレスを抱えながら住民が生活している。

中町地域の公園であっても、新町地域の公園であっても、どこに行っても人がいる。歩道を歩けば無数の人たちとすれ違い、すぐ横を無数の自動車が通り過ぎ、まあとにかく騒がしく、真っ直ぐ進むことができない。

いつでも方向転換ができる小径自転車は、真っ直ぐ進むことができない浦安の道路と相性が良い。

700Cのスポーツ自転車は車道を疾走する時には安定しているが、混み合った道路ではストレスが溜まる。

道が混み合っているロンドンで小径のブロンプトンが普及した理由がよく分かる。折り畳み以外にも、ミニベロに特有の小回りの良さがコミューターバイクに適していたわけだな。

なるほどミニベロは便利だ。

富岡地区の混み合った道路を抜ける。この地区の車道は市外から千鳥地区や港地区に向かうトラックやトレーラー、および舞浜地区のディズニーに向かう一般車で混み合っている。しかも路線バスが行き交うので混み合わないはずがないし、市内で交通事故が起こることも少なくない。都市設計が間違っていたと思う。

また、富岡地区には築年数が高めで賃料がリーズナブルな団地が多いので、最近では子育て世帯がたくさん住むようになってきたらしい。もちろんだが、この地区が発展した時に移り住んできた人たちが現在の高齢者の世代として生活している。結果として歩道も混み合う。

富岡地区を過ぎて港地区を抜け、千鳥地区に向かってミニベロを走らせる。

港地区には鉄鋼団地と呼ばれる工場群があり、市内を大型車が忙しく走り回る理由のひとつになっている。市外どころか県外からトレーラーが入ってくるわけで、その運転手たちが街の住環境について配慮しているとは思えない。実際に何人もの浦安市民が鉄鋼団地を行き交う大型車に轢かれて死亡している。ここでも都市設計が間違っている。

鉄鋼団地の先に千鳥地区がある。地理的にはディズニーがある舞浜地区の海沿いに位置する。

千鳥地区は主に企業の物流センターが密集している。浦安は様々な物語で舞台として使用されることがあるわけだが、千鳥地区が舞台になった作品は少ない。

鉄筋家族で千鳥地区が登場したかもしれないが、「BEATLESS」というアニメで少しだけ千鳥地区が登場したように私は記憶している。確か、主人公だかヒロインだかが都内で誘拐されて犯人が逃げ込んだ先だったと思う。そのタイミングが平日ではなくて休日であったなら、確かに目的に見合っているな。

平日の昼間の千鳥地区は大型トラックが往来して騒がしく、車道を自転車で走ることさえ憚られるくらいに危ない。ところが、休日には人の気配がしないゴーストタウンのような状態になる。

また、千鳥地区の道路には人工的な凸凹を施していたり、車体や荷台から落ちたであろう金属片が転がっていたりもするので自転車の走行にはそれなりの注意が必要になる。

今回は休日のライドなので、地面に注意しながら海沿いに向かう。

目的の場所に辿りつくことは容易で、「浦安市斎場」という看板に沿って進むだけ。

火葬場を過ぎて海沿いに向かうと、「千鳥海岸遊歩道デッキ」という場所がある。ひたすら喧しい浦安という街だが、この辺りは静かだ。

浦安市斎場という火葬場は、いかにも埋め立て地らしい位置にある。

隣の市川市を例に挙げれば分かりやすいのだが、歴史のある街であれば火葬場や墓地は北東の方角、つまり「丑寅」の方角に設置されることが多い。この方角は陰陽道において鬼門とされている。

しかし、埋め立て事業によって急激に都市化した浦安市の場合には、住居エリアから距離があり、できるだけ目立たないところに火葬場と墓地を設置したらしい。

何をもって目立たない場所なのかと言えば、元々は漁民だったネイティブな浦安の人々から見た地理的条件ではないか。新町で生活していると気が付かないかもしれないが、この街の政治や行政は今でも漁師町の湿り気を帯びた論理がまかり通ることがある。

そういえば、私が浦安に引っ越してきた10年以上前、日の出地区にある海沿いの墓地公園の周りは、何もない空き地だった。そこに戸建て街が作られて浦安の大ファンを含めた多くの人々が生活しているわけだ。好みは人それぞれだ。私は墓の近くに住みたいとは思わない。

そして、火葬場は墓地公園と反対側の千鳥地区にある。方角としては未申。もはや陰陽道なんて考えるまでもない人工的な配置だ。

この場所を訪れてみれば分かることだが、とてもシュールな光景が広がっている。

浦安市斎場の隣にある施設は何かというと「浦安市クリーンセンター」。つまり、ゴミ処理場。

市川市の場合にはゴミの焼却施設の熱を使って温泉や温水プールを運営している。

浦安市の場合には「ゴミを燃やす施設」のすぐ隣に「人間を燃やす施設」が並んでいる。

どうしてこうなった?

私がシムシティを操作していたら絶対にありえない組み合わせだ。

この配置を考えた浦安市の行政関係者のセンスはどうなっているのだろう。ブラックジョークを狙ったのか、あるいは無常や即是空といった仏教的な概念に基づいているのだろうか。

それらの施設の海側の小道を進むと、千鳥海岸遊歩道デッキに入る。デッキとは名ばかりで、コンクリートの小道が続き、電波塔の下に屋根付きのベンチがあるだけだ。付近には自販機どころかトイレすらない。

海側にある小道にミニベロを進め、人との接点を感じないウォーターフロントを眺めた。

浦安市に実際に住んでいる人たちの中には、「海沿いに住んでいるはずなのに、海を感じられない」という感想が出たりもするが、それがこの光景だ。広い護岸への立ち入りが禁止されているので、海水に触れることさえ難しい。

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浦安の海沿いの護岸は消波ブロックで取り囲まれている。消波ブロックよりもテトラポッドという単語で表現した方が分かりやすいかもしれない。

この時は満潮だったので海面に沈んだ消波ブロックの姿は見えない。引潮になると姿を現す。

人が海と接するような砂浜は浦安市には存在しない。舞浜地区の運動公園の海沿いには消波ブロックが設置されていない隙間があり、そこに溜まった小さな砂溜まりを「舞浜ビーチ」と呼んで掃除している住民がいたりもする。

少しでも海を感じたいという人々の切なる気持ちだが、この街の行政は舞浜ビーチの存在さえ認めない。融通の利かない役所だと思いもするし、このような隙間の危険性を考えると立場的に仕方がないと思いもする。

浦安市の海岸を管理しているのは千葉県であり、浦安市ではない。県と市町村の縦関係はとても強く、千葉県に対してガツンと物事を言い放つ自治体の首長は少ない。

浦安市民が海と触れ合いたいと感じても、たとえ浦安の行政がその思いを叶えようとしても、千葉県としては容易にそれを実現するとは思えない。

おそらく、その大きな理由が海岸に沿って並んでいる消波ブロックだと私は思う。

私は海沿いの漁師町で生まれ育ったので、子供の頃から「テトラには近づくな」と躾けられて育った。打ち寄せる波を沈めるだけの構造物のように感じられるかもしれないが、とても危険な場所だ。

最近では、垂直方向、つまり上から下を見下ろしてもあまり隙間がないように消波ブロックが組まれるようになってきたが、それらの隙間に落ちてしまった場合に助かる確率は半数程度だろうか。

実際に消波ブロックの隙間に落ちた事故の統計をチェックしたことがあるのだが、40%程度の人が亡くなっている。凄まじい死亡率だ。

消波ブロックの集合体は複雑に入り組んでいて這い上がるための足場がない。しかも、海藻が付着して滑ったり、フジツボなどが付着していて皮膚や肉を切り刻んでしまう。

さらに、消波ブロックは波の力を分散して打ち消すことを目的としているので、それぞれのブロックの間の海流はとても複雑だ。沖から陸に打ち寄せる波の流れだけではなくて、垂直方向に引っ張り込まれたり、ブロックの間に挟み込まれるような流れもある。一度でも海水の中に引っ張り込まれたら救出は困難になることだろう。

また、消波ブロックの上を歩いていて落ちるという状況だけではなくて、消波ブロックから少し沖を泳いでいても、ブロックに向かって吸い込まれることがあるらしい。ダイバーやサーファーたちがこれらの構造物に決して近づかない理由はそれだ。

そして、消波ブロックの隙間に挟まってしまった遺体をダイバーが捜索して回収することは困難だ。ダイバー自らが引っ張り込まれてしまう危険性が高すぎる。身体の一部が見えている場合には重機で消波ブロックを持ち上げることができるかもしれないが、どこにあるのか分からない遺体を見つけることは難しい。

遺体捜索のためのドローンが開発されたなら、別の遺体を見つけてしまうことだろう。

では、不幸にも浦安の海沿いに立ち入った人が消波ブロックに吸い込まれてしまった場合、その人を捜索するのはどのような人たちなのか。生存していれば消防の人たちだろうが、行方不明になった場合には千葉県警、つまり千葉県の責任になる。

浦安市の海岸沿いには無数の消波ブロックが設置されている。そのどこかにある遺体を探すことは非常に難しい。かといって行方不明のまま速やかに処理するわけにもいかず、発見にはとても大きな人員や予算、長い時間がかかる。

当然だが、事故があった場合には安全管理が適切であったか否かの検証が行われるだろうし、千葉県知事や千葉県庁の責任者の追求は免れない。

これだけ危険な消波ブロックが並んでいるのだから、浦安市が護岸の開放を望んだところでハイ分かりましたと千葉県が許可するとは思えないし、消波ブロックを除去すれば護岸が波によって削られていくことは分かりきっている。護岸の外側に防波堤を新設するような財源のゆとりが千葉県にあるとも思えない。

消波ブロックがある状態のままで護岸を開放するのであれば人が落ちないような柵を取り付けるという話になるかもしれないし、実際に一部の護岸が開放されている。しかし、それらはあくまで「浦安市の責任で」という話になるだろう。

浦安市の海岸では一部を除いて護岸への立ち入りや釣りが禁止されている。それらが許可されている護岸は、浦安市の公園の近くに集中している。つまりはそのような背景があるのではないか。

あまつさえ、千鳥地区のこの場所に海釣り公園を作ろうという話があったりもするらしい。費用対効果や維持費を考えるとあまり現実性がないようにも思える。

テトラポッドの手前から投げ釣りをするための公園を作ったところで、そこにやってくるのは中級以上のアングラーだ。釣り人は危険な場所であっても魚影があれば立ち入ってしまう。

おそらく、干潮で姿を現したテトラポッドの上で釣りをすることだろう。それらの行為を係員によって制止するとして、どれだけの人件費がかかるのか。

また、入場料を徴収して運営費をまかなう場合、他の自治体のような釣り公園のスタイルが必要になる。その場合のターゲットの設定は家族連れが多いことだろう。

子供を連れた家族連れがシーバスのルアーフィッシングや長い竿を使った投げ釣りを楽しむとは思えない。その多くが真下に仕掛けを落とすサビキ釣りだと思う。

しかし、護岸の向こうに消波ブロックが並んでいる場合にはサビキ釣りは難しい。消波ブロックが邪魔になって水深がある場所まで仕掛けが届かず、投げサビキによって海面に届いたとしても手元に仕掛けや魚を引っ張り上げることが難しい。子供には無理だろう。

市原市内にある釣り公園のようにテトラポッドの外側に桟橋を建設するというスタイルは考えられなくもない。しかし、財政力が高い割に支出内容が肥大化して財政が悪化している浦安市において、そのような施設を建設するための余裕があるのだろうか。

今はとにかく財政の悪化を留めて無駄な支出を減らすことが先決だ。インフラに関わる公共施設の修繕が間に合っていない。クリーンセンターの近くにいるから実感することだが、このゴミ焼却施設については延命化だけでなく建て替えを考える必要もある。

これは政治や行政だけの責任ではなくて市民にも責任があると思うのだが、新しい公共施設に税金を投入してその時だけ喜び、その後で費用対効果がなかったとしても無関心を貫く態度はよろしくない。

例えば、日の出地区の三番瀬の近くに建設された公共施設は、海辺にやってくる野鳥の観察をひとつのテーマにしている。

しかし、リアルな日の出地区の住民である私がその施設を眺めたところ、野鳥ではなくて閑古鳥を見かける。

風刺ではなくて比喩表現だが、無数の閑古鳥たちがけたたましい鳴き声を上げている。本当に市民からの需要があって建設した施設なのだろうか。

この建物に何億の金をかけたのだろう。野鳥ではなく閑古鳥を眺めるためであれば、屋根付きのベンチをいくつか並べるだけでも良かったのではないか。

結局、三番瀬の潮干狩りのシーズンになると、日本語を話さない人たちが市外から浦安に大挙して押し寄せて、この施設のトイレを乱暴に使用してトラブルが起きたり、周囲にゴミを散らかして近隣住民が困るという状況になっているではないか。

まあとにかく、実際に浦安市の海沿いの新町地域で生活しているが、海の存在を感じながら生きているという実感が全くない。それは浦安市の責任ではなくて、埋め立て事業が開始される際の長期的ビジョンにおいて海と人の触れ合いが考慮されていなかったというだけの話だろう。安全を優先すれば仕方がない。

海岸に打ち寄せる波の音を聞きながら眠りに入るような少年時代を送った私にとって、波の音さえコンクリートで遮断された海岸には懐かしさを感じない。

自然の摂理に反して人間が土で海を埋め、そこに人間が密集して住むようになった。自然に順応して人々が生活しているわけではないのだから、それも当然の流れだろう。

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反対側の視線の先には夢と魔法の国。私はSF作品が好きなので、このディストピア風のシュールな光景に趣を感じる。

人が密集していても、たくさんの臭いが漂っていても、それが普通だと感じる普通の感覚の人たちにとって、ディズニーはさぞかし楽しい場所なのだろう。感覚過敏を患っている私にとっては、ディズニーよりもこの場所の方がずっと心が落ち着く。

ずっと遠くに舞浜地区を目指してやってきたライダーたちの姿が見える。彼らは立ち入りが禁止されている護岸にオートバイクを乗り入れて、ディズニーを背景に記念写真を撮影していた。私が近隣住民として警察を呼んでも構わないのだが、もはやその気力さえ私には残っていない。オートバイが護岸に入るような仕組みになっているのは、千葉県の行政の落ち度だ。

ミニベロのサドルに取り付けたホルダーから缶コーヒーを取り出し、このシュールな光景を眺めた。

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思えば遠くに来たものだ。

若き日の私は、郷里から遠く離れた場所において幸せに生活することを想像していたわけではないが、この街に住んでここまで苦しむとは思っていなかった。街に住むというストレスで適応障害を起こすなんて、無様としか言えない。

しかし、この場所はとても静かだ。

そういえば、以前に浦安大好きな義母が誇ったように言った言葉がある。「東京なんて、火葬を待っている遺体が冷蔵されているそうよ!浦安は恵まれているわよ!」と。

その街にはその街の、その人にはその人の都合がある。それらを無視して自己肯定で押し切ったり、狭い範囲でマウントを取ることは適切ではない。死んだ後で火葬まで順番待ちで冷蔵されようが、それでも住みたいから東京に住んでいるだけの話だろう。それはその人たちの価値観だ。

順番待ちをしなくても死んだらすぐに火葬してもらえるという街の意味を深く考えた方がいい。

私は死んだ後のことよりも、生きている間の生活を優先したい。