2022/02/28

光の小粒のように散らばった思考を集めるイメージトレーニング

1月の後半から始まった上の子供の中学入試が2月に終わり、元気になったのは上の子供だけだった。妻としては上の子供の入学準備で慌てつつ、今度は下の子供の学習を本格化させ、相変わらずテンションが張っている。それでも最近では希に妻が笑顔を見せるようになってきた。数ヶ月間は仏頂面どころか般若面だったので改善が認められる。

私の方は、第一志望校の合格の数日後くらいから希死念慮を伴う酷い倦怠感を抱えるようになった。私が中学受験で頑張ったわけではないが、子供の入試のプレッシャーは父親にまで伝わる。また、その後の家庭内での騒動や変化に疲れてしまった。


年明けの1月から2月は、私の仕事で最も忙しい時期だ。その時期に中学受験なんて私の精神は大丈夫なのだろうかと心配していたけれど、実際にはあまり大丈夫ではなかった。

家族でも知人でも友人でもない人にとっては、どこかのオッサンがバーンアウトで苦しんだという話を聞いても何ら気にしないことだろう。バーンアウトどころか、電車に飛び込んで飛散したとしても気にしない。所詮は他人のことだ。

妻や子供たちでさえ、私の疲れには無関心だ。なんともまあ不条理な生き方だな。どこかで判断を間違ったらしい。

さて、癌のような疾患と同じく、メンタルの疾患の場合には「治癒」という表現ではなくて「寛解」という表現が用いられることが多い。

うつ病にかかった人が元気になり、病気による症状や異常所見が消失したとしても、再発して調子が悪くなることは珍しくない。治癒ではなく寛解という意味がよく分かる。

では、子供の受験が終わった後にやってきた私自身の不調はどのようなものなのかというと、朝起きて職場に出勤し、残業を処理して帰宅することはできる。しかしながら、仕事で使っている「過集中」を自由に使うことができない。

子供の頃から抱えている感覚過敏や過集中、ならびにコミュニケーション能力の欠失といった様々な所見に基づくと、おそらく私は大人の発達障害、とりわけASDと診断される蓋然性が高いと思う。診断のためのチェックリストで全ての項目が当てはまったりする。

私が子供の頃には重度の自閉症以外はそのままスルーされたので、今になって生きることに苦しんでいる大人は多いことだろう。

しかしながら、過集中については私にとって何の障害でもなく、むしろ仕事の道具として重宝している。過集中に入ると仕事がよく進むし、疲れも少ない。学生時代には過集中を受験勉強において活用したので、入試で不合格になったことがない。

とても興味深くもあり理不尽でもあることだが、感覚過敏と過集中はセットになっていて、それらはどのような時でも失われないと思い込んでいた。バーンアウトを起こす前までは。

ところが、バーンアウトを起こしたら過集中がすぐに喪失した。それなのに感覚過敏は残ったままだった。

浦安に引っ越してからの通勤地獄、妻の暴力的な言動への変化、過干渉な義実家との関係といったストレスを耐えているうちに、仕事において過集中どころか些細な集中さえ難しくなった。

文字が滑って頭に入ってこない感覚もあった。これはおかしいと思っているうちに症状は一気に進み、ついには喜怒哀楽が感じられず、自分自身がロボットや人形になったかのような精神状態になった。何も考えていない状態でも何らかの潜在意識のループに入るようで、時間の流れがとても速く感じたり、逆に遅く感じたりもした。

その絶望的な精神の井戸に落ちた私に対して妻が気遣ってくれたなら、これからもずっと連れ添うという気持ちが固まったことだろう。しかし、妻は壊れた家電を扱うかのように私の疲れや不調について無関心を貫いたので、夫婦愛は枯渇して子供が大人になるまでの同居人になった。

おそらくだが、2015年頃から始まり、2016年から2018年にかけて苦しんだバーンアウトという症状は、その一部にうつ病のような精神疾患を伴っていたのかもしれないな。バーンアウトにしては長く、しかも重いように感じる。

また、浦安住まいが続くという根本的に何の解決にもなっていない状況なのだから、バーンアウトが完全寛解するはずもなく、より大きなストレスがかかると再発するのだろう。

結果、現時点の私は仕事のための武器としている過集中を使うことができなくなっている。私なりには過集中を発動することができないオッサンは、ただのオッサンだ。

過集中を仕事の道具として使っていたからこそ可能だった内容が困難になり、その日のノルマをクリアするために時間がかかり、疲労が蓄積する。今まで数時間で処理できていた内容が半日や1日になってしまう。当然だけれど仕事が遅れると焦りが生まれる。

あと数年でストレスの根源である浦安から脱出することができる。あと数年の我慢なんだ。けれど、そのような希望的な感情はこの症状において無意味だ。

とはいえ、経験とは怖いものだ。このような状態を冷静に眺めている自分がいる。

元気な人たちにバーンアウトという状態を文章で伝えることは難しい。絵で描いて伝えることも難しい。その状態になった本人でさえイメージを持つことが難しい。そこにあるのはただ真っ暗な井戸やトンネルというか。それは程度の差こそあれ、うつ病と同様かもしれないな。

2015年頃から生じた深刻なバーンアウトの時には、このように冷静に自分を眺めることは不可能だった。「何かがおかしい、自分はどうしたんだ、一体、どうすればいいんだ」と混乱しているうちに感情が枯渇した。

一方、現在の私の場合には深刻なバーンアウトという精神の井戸から這い上がってきたので、ようやくその仕組みについて自分なりに解釈することができているように思える。

分かりやすいイメージで表現すると、初めに自分が自然あふれる場所に行き、満天の星を眺めている姿を思い浮かべてみる。プラネタリウムでも構わない。

それぞれの星の光を、自分の脳で生じる「思考」だと思って想像してみる。

現実的な思考は何かというと、大脳の前頭葉で生じる脳細胞の活動のことだ。情報は電気的なシグナルで伝えられ、思考という物体があるわけでもない。

また、自分の脳の中の情報伝達を見たことがある人はいないはずなので、あくまでイメージという話。宗教でもオカルトでもホラーでもない。

自分を取り巻く外的な環境、ならびに自分自身の記憶や感情によって生じる内的環境。それら全てについて頭の中では常に何らかの思考が生じている。

自分の外的および内的な環境にはたくさんの情報という「点」があり、自分の思考がそれらに向かう。様々な事象について自分の思考が向かった後、しばらくの間は記憶として情報が脳内に保存される。

それらの無数の思考を、夜空に広がる星の光のようにイメージしてみる。形としては丸い光の粒。

すると、自分の頭の中には膨大な数の光の粒が広がっているという姿になる。時間が経てばいくつかの光が輝きを失い、別の場所に光が点るというサイクルが展開される。

それらのイメージは想像上の存在でしかないけれど、脳において実際に生じている情報伝達のシグナルだと解釈すると理解しやすい。

ところが、バーンアウトを起こした場合、あるいはそれが寛解した後で再発しかけた場合には、それぞれの事象について生じた思考が星のように光ることがなく、素通りしてしまう感覚がある。

時間だけが過ぎ去っていく感じがあることから、自分の脳細胞たちとしては思考を生じさせようと頑張ってくれているに違いない。しかし、記憶として止まって光らないので認識することができないようにも思える。

そして、記憶として残っていた星についても徐々に光が失われ、どの方角について思考を向かわせてもそのまま放散して暗闇の中に吸い込まれている感じ。

バーンアウトやうつ病に苦しんでいる人たちが、「真っ暗なトンネルの中にいるようだ」とか「井戸の中に落ちたようだ」と表現するのは、おそらくこのようなイメージと重なっているような気がする。

自分の外的環境あるいは内的環境において、何かの情報に対して自分の思考が向かうことはごく自然なことのように感じる。しかし、あくまでそれは自分の脳の情報伝達が正常になされていた場合の話だ。

頭の中で思考の小粒がそれぞれの光を失っている時、人は何を感じるのか。自分が経験した範囲では「不安」や「恐怖」といったネガティブな感覚だけだ。これらの感覚には、おそらく大脳ではなくて基底核や辺縁系といった脳の深部が関わっていることだろう。

今まで普通にできていたことができなくなると、「焦り」を感じ、すぐに治らない状況について「絶望」を覚える。そして苦痛から開放されたくて生きることを諦めたりもする。

どうして首を吊ったり、ビルから飛び降りたり、電車に飛び込んだりするのかというと、死んだ方が楽だというレベルの苦痛を感じているからだろう。

...と、知ったようなことを言っている私ではあるが、実際のバーンアウトを経験した時には悠長に考えている余裕は全くなかった。

頭の中で無数に広がっていたはずの思考という光の小粒が激減し、真っ暗なイメージが自身を覆った。これらの光の粒が全てなくなり、自分が漆黒の闇に飲み込まれるような恐怖も感じた。その恐怖に抗うことができない自分を無様だと否定した時、光の小粒はさらに数を減らしていった。

過集中という自分の武器が使えなくなった状況において、その状況を悲観したり焦ったりするのは逆効果だ。光を出さないネガティブな思考がループを形成してしまう。

このような状況では、とにかく焦らないことが大切だ。

次に、頭の中に散らばっている思考の小粒を「眺める」のではなくて、自分の中に「集める」というイメージを持つと回復が早い。

自分を取り巻く外的環境に関する情報、内的な記憶や感情に関する情報。それらの情報が散らばって自分自身でさえ位置が分からずに混乱していると、結果として集中力やモチベーションを失ってしまう。

それらの光の粒が全てなくなることを恐れず、光の粒を必死に増やさねばと焦る必要もない。

現時点で頭の中に残っている光の小粒を集めて、少しずつ大きな塊を形成させるイメージを持つ。

すると、自分の場合には頭の中でループを構成していた光を放たない負の思考が減り、集まった光の小粒の存在を再認識することができるような感覚がある。

それらが自分の思考の集まりという解釈になる。

たくさんの光の粒の中には、集合体に止めようとしても寄ってこないものや、一度は集まってもすぐに離れてしまうものがある。

それらの光の粒が私の脳内でどのような思考に相当するのかを追う必要はない。寄ってこなければそのまま放置し、離れていったなら再び引き付ける。

しばらくの間、光の粒の集合体を意識した後、それらの粒を自然に開放する姿をイメージしてみる。

すると、光の粒が夜空のように綺麗に散らばっていく。

これら一連のイメージを繰り返していると、最初は少なかったはずの光の粒が少しずつ増えて、それらの集合体も大きくなっていく。

おそらく、過集中に入った状態においては、それらの光の粒の集合体が完全に一体化した状態になるのかもしれない。

イメージを描く際の姿勢については特にこだわらない。寝転がっていても、椅子に座っていても、座禅を組んでいても構わない。

時間帯も人それぞれだろう。私は朝起きてすぐにイメージトレーニングを行うが、それは通勤地獄の後では疲れすぎてイメージどころではないというだけの理由。

ただし、環境音や家族の声が響くような状況ではイメージが難しい。在来線の通勤電車の中なんて絶対に不可能だ。また、酒を飲んでいる時はイメージどころか悪酔いして倒れることがある。

自分の頭の中の脳細胞たちにも都合があるだろうから、これらのイメージによって即座に脳が回復して過集中が戻ってくるというわけではない。

しかし、集中力が少しずつ戻ってくることは実感できる。やがて過集中に入ることができることだろう。今までだってそうしてきたし、これからだってそうするだけだ。

かつて深刻なバーンアウトを起こした私は、通勤時も休日もロードバイクに乗りまくるという自暴自棄にも似た荒療治を行い、自分でも驚くほどの改善が認められたわけだが、ようやくその機序を自分なりに理解したような気がする。

自転車に乗って走っている間は、不思議と頭の中に散らばった思考が浮かんでは消えるという不思議な心的状況になる。それは健康な人でも同じかもしれない。

忙しくて疲れている時には地に足が付かないような精神状態になることがあると思う。その際にサイクリングに出かけて帰ってくると、不思議と気持ちが落ち着いて、しっかりと地に足が付いたような精神状態になったりもする。

おそらく、きっかけはサイクリングでもイメージトレーニングでも構わなくて、脳内に散らばって絡み合っている思考や記憶といった「個々の点」を再配置することが大切なのかもしれないな。

言葉で表現すると「気持ちを整理する」という陳腐なフレーズになってしまうけれど。

マインドフルネスや禅においても、自分の頭の中に漂っている様々な思考を整えるイメージがあったりもする。おそらくそれらの原理は同じものなのかもしれないな。

イメージトレーニングにおいては自分の頭の中で何を想像してもその人の自由だ。私の場合には小さな光の粒を集める姿を想像するわけだが、他者から教わるよりも自分で探した方がしっくりくる。

実際のところ、高僧と呼ばれた僧侶たちの中には悟りを得ようとして修行している間に、森羅万象が丸い状態になっている姿をイメージする人や、暗闇の中を丸い玉が飛んでいく姿をイメージする人が本当にいたらしい。

高僧ではなくて一般の人であっても、禅やマインドフルネスの開始時に気持ちが集中できない場合、美しい水面に少しずつ雫が落ちて波紋が広がる姿をイメージすることがあると思う。

それらに共通するのは「球形」や「円」のイメージなのだが、それらの丸い形にどのような意味があるのかについて私には理解することができないし、今後も理解することができないだろう。

地球という丸い球体の上で生きているからという理解はあまりに漠然としている。しかし、仏教での色即是空の概念は実際の宇宙の状態とよく似ていると科学者が真顔で解釈したりもするわけだ。人間の想像力は、よく分からないだけに面白い。

さらに考察を飛躍させると、諸外国の中で高い生産性を示している社会では、残業することが美徳ではなく時間が来たらさっさと仕事を切り上げることが多い。有給休暇についてもしっかりと取得したり。

あえて仕事から自分を遠ざけることで思考を整理し、そのことが仕事の効率を高めることにも繋がっているのかもしれないな。

翻って、日本の社会の生産性の低さは、心身が疲弊して時に異常を生じたとしても耐えるべきだという根性論がまかり通っていることに関係しているのかもしれない。

思考を整理する余裕もなく、脳に負荷がかかっても我慢するというマッチョなスタイル。それによってたくさんの人たちが精神を破壊されている。

さらに言及すれば、仕事だけでなく家庭においても同様の根性論が展開される。

勤労世代の人口減少についてその根本的な原因に対処せず、とにかく夫婦共働きで頑張りましょう、そして子供を育てましょうという、これまたマッチョな父親像が美徳だとされる世の中だ。

近郊からの長時間の電車通勤に耐え、効率的に仕事をこなして家庭に帰り、笑顔で家事や子育てに励みましょう。そのようなお父さんは素敵なんです。イクメンなんですと。

確かにそれは素晴らしい父親像だが、実践しようとして心身が崩壊した父親たちがたくさんいる。うつ病になって無職になり、家庭の経済が傾いた世帯もたくさんある。

これでは仕事においても家庭においても頭の中の思考を整理する時間が足りず、頭を休めることができない。

子育てが罰ゲームだと揶揄される理由も分かるし、子供を作ることに否定的な夫や結婚しない男性が増えた理由も分かる。

もとい、過集中を自由に発動することができないという今の私は、脳に負荷がかかり過ぎて上手く働かなくなっているだけの話だ。その状態でさらに負荷をかけても意味がない。

そういえば長らく製作を続けていた小径自転車もようやく組み上がった。これからはサイクリングに出かけることもできる。また、イメージトレーニングだけではなくて、スピンバイクによるトレーニングも再開しよう。

焦って元に戻そうとしなくても、それらの取り組みを続けていれば戻るはずだ。

結局のところ、心の疲れは脳の疲れなので、脳を休ませることが手っ取り早い。また、それが難しい状況だということも否めない。

家族を含めた他者に期待せず、せめて自分くらいは自分の脳を労ろう。