予定調和の夫婦喧嘩の先にある臨界線
妻の癇癪に対して私の理屈は通用しない。他者からのロジックを受け入れようとしないし、昔風のスラングで表現すれば頭プッツンの状態。本人の頭の中で様々な憤りや不安が混ざり合い、思考がループし、それらが絡み合った後で感情とともに飛散するのだろう。
2015年頃から心身に不調をきたした私は、2016年から2018年の間においてバーンアウトによる深い井戸の中に落ちた。ほとんど全ての感情が焼き切れて、頭で分かっているはずなのに身体が鎖で縛られたかのように動かない地獄を経験した。
当時は自宅で妻が毎日暴れているような状態で、話し合えばいつかは互いに理解することができると信じて耐えた。そして、耐えた結果がバーンアウトだった。頭に血が上った妻は、夫の体調のことなんて関係なしに怒り狂って激高する。
夫婦喧嘩なんてどの家庭でもあることだ。離婚する夫婦も少なくない。結婚や出産といった人生の喜びは大きいが、その後の長い生活を考えると足りない気もする。
夫婦が離婚する理由のひとつに「性格の不一致」というキーワードがある。独身時代は「もともと他人なのだから、性格が合わないなんて当たり前だろ」と私は考えていた。仲良くしたり、喧嘩したり、それが夫婦だと。
しかし、その考えは十分ではなかった。性格の不一致という表現は、とどのつまり、婚姻関係を継続し難い深刻な状況を見栄え良く偽装しているだけだ。
単に性格が合わない夫婦なんていくらでもいる。性格の不一致とはそのような状態ではなくて、互いを嫌悪して喧嘩を繰り返す、あるいは互いの意思疎通を放棄しているような状態なんだ。
そして、夫婦関係としては最悪に近い状況を当たり障りなく角を取ると、性格の不一致という大雑把な表現になる。
加えて、品のない話ではあるが、配偶者を性的な対象として受け入れられなければ当然のごとくレスになるだろうし、性格が合わない身体も合わせないという関係であれば、ただの同居人に他ならない。
それでも、役所に届け出ない限りは民法で定められた婚姻関係は続き、その男女は紛うことなく夫婦で有り続ける。
普段は妻が癇癪を起こしても私が引く形で過ごしているが、さすがに子供に対する詰め方が常軌を逸しているので、妻に対して自制するように忠告した。感情的になった妻は私の意見なんて聞かないので、私も声を荒げる。
すると、言葉の刃どころか機関銃の銃弾のような怒鳴り声や罵詈雑言が私に向かって飛んでくる。
このような対立において、私が妻に対して最初に切り出すフレーズはいつも同じ。
口論を重ねたところで結局は何も解決しない。あなたは私を理解しようとしないし、私もあなたを理解することができない。互いに理解し合うことは不可能だ。
そして、この夫婦関係は子供たちが成人するまでの話だ。下の子供が成人したら、その後に夫婦関係を続けるかどうかは分からない。あと10年程度の生活の中であまりに酷いようであれば、私は別居なり離婚を考えると。
このようなセリフを夫が言い放つ時点で、もはや婚姻関係として破綻しているではないかと独身の男女ならば思うはずだ。しかし、それが現実でもある。
最近では「卒婚」という中身がなく都合のよいフレーズだかミームだかが広がっていたりもする。概念としては理解しうるが、結婚とは行政上の手続きや法的な制約に過ぎないと私は考えている。
離婚届を出していなければその男女は夫婦だ。離婚届を出せば夫婦ではなくなる。結婚を卒業したいのならば離婚届を出すだけ。籍を入れた状態で結婚を卒業することなんてできやしない。ただの別居夫婦だ。
妻が自宅で大暴れするタイミングはパターン化しつつある。翌日もしくは当日が休日であることが多い。
平日に通勤地獄で疲れ果て、ようやく訪れた休日に妻が癇癪を起こすと、全く休むことができないまま平日が始まる。
鬱陶しいまでの人口密度だけでなく、頭にネズミの耳をつけた人たちが押し寄せ、ウトメがアポ無しで自宅に突撃してくる「嫌な街」での生活。
さらには千葉都民ならば普通のことだという妻の意見により始まった往復3時間を超える電車通勤。
それらの耐え難いストレスに追い詰まった私はバーンアウトを起こし、一時は死を考えた。子供がいなかったならば、とっくに離婚しているはずだ。
健康を害してまで夫婦で連れ添う必要はない。これは配偶者による家庭内暴力だ。モラルハラスメントなんて言葉は温すぎる。
しかし、当時の私は現実を真正面から受け止め、ここに至るまでの私の判断を振り返り、これからどうすればいいのかと苦悩した。真面目に夫であり父親であろうとした。そのことが自分をさらに追い詰めていった。
なので、バーンアウトから辛うじて這い上がった私は自分自身を追い詰めないことにした。これは無理だと思っても少しだけ耐えて、子供が成人した後で考えることにした。さっさと離婚した方が楽だったと思うし、レス状態のストイックな生活が続くこともなかっただろうけれど。
この家庭をより良くしようと私が願ったところで、妻や子供たちの理解や協力がなければ実現は不可能だ。不可能なことを願っても実現するはずはない。
とはいえ、久しぶりに勃発した妻との口論はさすがに精神に大きなダメージを生じた。翌日から目眩がさらに激しくなり、頭を左右に振っただけで脳が痺れる。
コロナ禍の最中の中学受験というストレスフルなステージが過ぎ、その後に待っていたのは相変わらず目の前に伸びる錆び付いたレールだった。そのレールをたどった地平線の向こう側に何があるわけでもない。ここまで来たかと振り返る老いた自分がいるだけだ。
中学受験の前から現在まで、サイクリングに出かける余裕も気力も残っていなかった。荒れ放題の家の中を片付け、山のような洗濯物を干し、平日に休んだ遅れを取り戻すための休日出勤も多かった。
休日の隙間時間に細やかな気分転換としてミニベロに少しずつカスタムを施すという生活が続いた。
廉価版のブルーノのミニベロは、予定調和ではあるけれどフレームとフロントフォークだけが残り、その他のパーツは不燃ゴミとして廃棄することになった。
自転車という趣味を始めた頃は、ヘッドパーツやボトムブラケットを交換するだけで大変だったが、まるで説明書を読まずにプラモデルを組み立てるかのように製作が進んだ。
とはいえ、カンチブレーキ仕様の自転車にVブレーキを取り付けたり、シティサイクルに近いフレームにグラベルやロード用のコンポーネントを取り付けたりと、なかなかポン付けでは済まされない工程が多々あった。
よくよく考えてみると、このミニベロを手にしていなかったなら、今回の中学受験という夫婦の危機を乗り越えることができたのかどうか、私には分からない。
これまで趣味としてきたロードバイクからミニベロに大きく舵を切ったので、趣味品を幅広く買い直す形になり、決して少なくない出費となった。
しかしながら、この程度の金額で精神のダメージを減らすことができたと思えば、心療内科に通院する際の苦痛や時間、出費と比べて安上がりだと思う。
上の子供が中学入試に合格したのでLINEの使用を解禁したのだが、どうやらこのアプリを使って我が家で夫婦喧嘩が勃発していることを義実家に伝えたらしい。
翌日くらいから妻の癇癪が収まってきた。義実家のLINEグループに上の子供がメッセージを投げ込み、ウトメやコトメが妻に何かのレスポンスを送ったことが示唆される。
全くもって鬱陶しい。このような義実家がセットで付いてきたことは、我が人生の悲劇でしかない。
以前ならば色々と悩んだはずだが、今の私は歪な家庭状況を嘆かなくなった。
そういえば、バレンタインデーという存在を妻が無視するようになったのはいつからだったか。夫婦という関係が同居人になった時期と重なっているはずだが、その時期を考えることさえ億劫だ。
たかだか菓子業界が考えたキャンペーンだとはいえ、その程度の気遣いさえできない人と結婚したことを嘆いても仕方がない。
仕方がないので私も気を遣わないことにした。
文句を言わずに長時間の通勤地獄に耐え、当然のごとく家庭に金を持ち帰る。それが夫の役割。疲れても体を壊しても自己責任。感謝も労いもないが、結婚した以上は役目を果たせと。
まるで家畜になった気分だな。過去の自分の判断が現在の自分に影響を及ぼすことは当然のことで、その影響はあまりに大きい。
脳が痺れる感覚があっても冷静に構えていられるのは、バーンアウトという絶望的な状況を経験したからこその余裕かもしれないが、あまり暢気過ぎると精神の井戸に落ちて戻ってくることができなくなる。
もうどうでもいいや。とりあえず夫として父親としての役割を続けながら、あとは趣味の世界に浸ろうと思う。
最初にブルーノのヘッドパーツを引き抜いた時には、完成までの道程がとても長く感じられたが、ようやくアクセサリーを取り付ける段階になってきた。
今度の週末には、ポジションを合わせつつサイクリングに出かけよう。
走って戻ってきた時には、少しは気分が上向いているだろうから。