本社から子会社に出向になった中年男性の愛執
どこの街なのか言及すると角が立つので言及しないが、ツイッターにおいてさも自分が知的で素晴らしい人物かのようにアピールする中年男性はたくさんいる。本当に知的で素晴らしい人もいるかもしれないが、そのような人たちは往々にして本業が忙しいのでツイートしている暇はないことだろう。
五十路が見えてきた40代のオッサンである私には、敬服に値するたくさんのオッサンたちの姿が記憶に焼き付いている。その価値基準はエリートだとかエリートではないとか、そのようなくだらない物差しによるものではない。
例えば、最も衝撃を受けたオッサンのひとりは、浦安市役所で地道に働いていた中年の男性職員さんだったりもする。
あのエピソードはバーンアウトによって価値観や世界観が崩壊する少し前の頃だったと思う。
当時の私は学歴や職歴といった物差しで世の中を見ていた。それらは絶対的なものだと信じた。自らの能力と努力によって高見に登り、そこから世界を見下ろすことが成功だと思い込んでいた。
その視界からは、浦安市役所の職員はとても気楽な仕事だなと感じていた。市民が納める税金によって財政が潤い、金に困ることなく行政を展開することができ、自分たちの給料も国内トップクラス。
市民が市役所を訪れれば職員の愛想が良いが、それだけの金をもらっているのだから当然だろうと、いかにも斜に構えた考えを持っていた。
とある事象があって、私は市役所の福祉関連の職員と話をすることがあった。とても人懐っこくて親身になって話を聞いてくれるベテラン職員だった。市役所の人たちならば、その人物が誰なのか想像が付くことだろう。
彼に関わらず、自分と接点があった人物については一通りのことを調べないと気が済まない性格なので、当然ながら彼のことも詳しく調べてみた。
すると、市役所の職員という本業とは別に、彼は「こども食堂」というボランティアの中心的な人物として活動していることを知った。
ひとり親家庭の子供たちは、自宅でひとりで食事をとることがある。また、低所得世帯では食事をとることさえ厳しい時がある。
夏休みに入ると給食がなくなり、新学期が始まって痩せてしまった子供が登校することがあるそうだ。
子供は生まれてくる家庭を選ぶことができないし、ただひたすら現実を耐えることしかできない。
日本は豊かな国だという建前ではあるが、蔑ろにされた課題は山積している。その不条理の中で苦しむのは往々にして弱い立場にある人たちだ。
その市役所のオッサンは、福祉関連の職務を通じて子供たちが「食」に苦しむという地獄を見続けてきたのだろう。
子供を育てる父親が、そのように悲惨な光景を目の当たりにして心を動かされないはずがない。あまつさえ、市役所の職員は行政と人々との接点で働く人たちだ。
せめて子供たちに食事を届けることができないかと、仕事の外でボランティアという行動に出たことは想像に難くない。
また、彼が市職員としての業務の外で子供たちに食事を提供する理由についても察することができる。福祉関連の仕事に詳しい人物なので、行政による支援の限界を知っていたからだろう。
しかも、こども食堂の運営に参加していながら、彼本人は全くアピールしていない。その謙虚な姿勢が輝いて見えた。
当時においても昨今においても、国家公務員が霞ヶ関で心身を磨り減らしている現状を気にもせず、「ぼくたち、NPOでがんばってます!」とアピールしている自治体の地方公務員の姿を目にすると、もう少し色々な意味で絞ってもいいのではないかと思ったりもする。
結局のところ、自分が与えられた役割について究めることができず、市役所の外に出て楽しんでいるだけではないかと。
しかも、当人たちは頑張ったとアピールしているが、実際には大したアウトプットに繋がっていない。役所の論理で考えているだけの話で、社会が変わったわけでもなく、市民の生活が豊かになったわけでもないのに自己満足で幸せそうにしている。身内で盛り上がってどうするのか。
だが、彼はそのようなハッピーパーソンとは一線を画していた。
こども食堂という活動は素晴らしい、あなたの取り組みも意義があると私が彼に伝えたところ、「私自身のことは、あまり人に知られたくないんですけどね...」と、さもバツが悪そうに彼は答えた。
そう、これが日本の男の生き様だと、私はとても感銘を受けた。まさに背中で語るタイプだ。
「私は、こんなに頑張っています!」とアピールする輩にはロクな人がいない。その背景には自分の利益であったり、自己顕示であったり、出世欲であったりと、そのような打算的な背景がある。
コツコツと地道に取り組み、その軌跡に刻まれた重みは、軽々しいネット上のアピールの比ではない。
もとい、当時の私は、人の生き死にを見つめ続けた結果として、人と物との境界が曖昧になってきていた。若い頃は感情が動いたが、オッサンになってくると人が死んでも悲しまなくなる。
確率論的に運が悪かっただけだとか、生物のプログラムのひとつだと悟った感もあったし、同じ人間として大丈夫なのだろうかと悩んでいた時期だ。
しかし、真っ向から現実と向き合い、自分ができる範囲で努力している同世代のオッサンがいることに気付いて、とても励まされた。
彼の学歴を調べてみたのだが、華やかだと言えない。市内の県立高校を卒業して市役所に勤めたらしい。他の市役所と同じく、市内の高校卒の枠で入庁したパターンなのだろう。
市内の県立高校の入試の偏差値は40程度。お世辞にも学力が高いとは言えない。
しかし、私にとって彼の生き方はそのような物差しなんて全く関係ない。同じ職業人として、いや、同じオッサンとして粋な生き方だと思った。
自分が銀杏の紋章を持っているから堂々と言うが、学歴なんてものは、社会が若者たちを都合よく選別するための規格品のシールのようなものだ。
国内外を問わず、そのシールによって人の格付けがなされ、職業人生や生涯年収にまで影響を及ぼすことが少なくない。
それらのシールは自分が剥がそうとしても剥がせない。大人になるかならないかという時期に貼られたものが、オッサンになっても貼られたままだ。しかし、シールはシールでしかなく、人の優劣を決めるものでもない。
バーンアウトから回復してきた頃には、さらに世界観が変わって見えた。
普通に生活していると、市役所の人たちの仕事を気にすることはない。せいぜいが役所で書類を発行する時くらいだろう。
その考えは間違っていた。自分あるいは家族が普通に生活しているという状況自体が、彼ら彼女らの仕事の成果なんだ。平凡な日常を維持する仕事とは、若い人たちから見ると何とも華がないように感じるかもしれないが、それはとても難しい。
市役所の人たちは、市長が有能であっても無能であっても、その難しい仕事に取り組み、平凡な日常を維持してくれている。その環境の中で自分たちは生きている。仕事の価値は、華があるとかないとか、そういった物差しで考えるべきではないと、手負いのオッサンである私は思った。
他方、学校を卒業して社会人になるまで、あるいは社会人としてスタートした頃は華麗な経歴があったとしても、途中でしくじって普通になってしまったオッサンもたくさんいる。
何をもってしくじったのかという点については人それぞれだ。自分がしくじったと感じていなければ、自分がしくじったことに気付かない。
私の場合には仕事とは関係のないプライベートな部分、具体的には結婚から子育ての段階でしくじった。結果、職業人生にも影響が及んでしくじった。
しくじらずに人生を全うする人の方が少ないだろうと開き直ってはいるが、もう少しで死ぬところだったので、生き長らえたことを幸運と思うほかはない。
これは非常に興味深い事象ではあるのだけれど、自分は一度もしくじったことがない賢人だとばかりに、自己愛や承認欲求をネット上に投げ込むオッサンが少なくない。
彼らのアピールの場はどこなのかというと、ツイッターだったりもする。
しかも、アカウント名において実名だけでなく職場まで併記する企業人については、その構図がとても面白い。
おそらく、本名でツイッターを使いこなす海外のビジネスパーソンの真似なのだろう。
しかし、海外の企業人のツイッターアカウントはもっと穏やかで洒落ている。その使い方を日本のオッサンたちが真似した結果、見栄の張り合いやマウンティングになっている感が否めない。
そもそも、これらの日本のツイッターアカウントは、自分のためなのか企業のためなのか、今ひとつ意図が分からない。自分のアピールを繰り返すことで、職場にメリットがもたらされるのだろうか。
行動学的に非常に興味深い。
職業人として歩みを進めた場合、ツイッターを使って自分でアピールしなくても、周りが勝手に自分について紹介してくれる。
私としては職業人生をしくじったつもりでいるが、その期間であっても這いずり回りながら働いたのだなということがネットを眺めても分かる。
サイクリングサークルで出会った同世代の父親に自分の本名を告げたところ、彼が私の名前をネットで検索してドン引きしたこともある。
だが、自分自身をアピールしている中年企業人のツイッターアカウントは実に興味深い。
彼らの自己アピールの柱は学歴や若手の頃の職歴であり、それら以降は転職や異動を経て輝きが褪せている気がしてならない。
その上で、自分にはこんなに高等な専門知識があるとか、自分はこんなに賢いのだというアピールを続けたりもするわけだ。
例えば、私は〇〇大学卒ですとか、以前は□□□で働いていましたとか、そのような過去をアピールしたところで五十路のオッサンにとってはあまり意味がない。だが、彼らにとっては意味があるのだろう。
本人の心の中でこれまでの経歴に誇りを持つことは間違っていないが、20代前半までの話で威張ってどうするのか。
学歴が役に立つのは、せいぜい最初の就職活動くらいだろう。就職してからも学閥が蔓延るのは役所の中くらいではないだろうか。最近では役所の中でさえ学歴なんてものは通用しなくなってきたと聞く。
しかしながら、自己愛や承認欲求が異様なまでに強い人たちの中には、職業人としてあまりパッとしていなくても、「自分はこんなに優秀なんだ!」とツイッターで発信しないと気が済まない人たちがいるらしい。
繰り返しになるが、とりわけ私にとって理解しかねるタイプは、自分の職場の名前までアカウントに含めてアピールしているオッサンたち。プロフィール欄には高校や大学の学歴まで書いていたりする。
おそらく、そのような人たちは、学歴とか職歴といった「鎧」を身につけていないと不安になってしまうのかもしれないな。まあ確かに鎧は長持ちするし、その中身が空っぽでも分かりづらい。
新浦安にも、自らが働いている職場の名前でアピールするオッサンがたくさんいる。子供を育てていると、父母会だPTAだと保護者が動員されるのだが、そこでも井戸端会議を経由して個人情報が広がったりもする。だれだれのお父さんはどこどこの会社に勤めているとか。どうでもいい話だ。実に鬱陶しい。
一方で、職場ではない部分でアピールするオッサンもたくさんいる。後者について言えば、自ら起業して会社を経営している人たちだな。アピールする手段はツイッターではなくて、ポルシェとかベンツといった自家用車だったりもする。
どうして新浦安は同世代でマウントを取ろうとするのか、私には分からない。鎧をアピールしたところで意味があるのだろうか。
私の場合には日本全国のヒグマやツキノワグマよりも数が少ない職業人のひとりではあるが、自分が優秀だとかエリートだという気持ちはバーンアウトで焼き切れてしまった。通勤電車のストレスで下痢が起きて顔をしかめるような無様な人生だ。
だが、いくら学歴があっても金があってもたどり着けない職場にいることは間違いないし、同世代の父親同士の職業マウントでは負ける気がしない。
いや、目の前にプロレスラーとか、無職なのに資産家とか、AV男優といった父親がいたら、さすがに負けた気になると思う。
とはいえ、職業人としてのプライドは他者にアピールする必要はないし、自分の心の中で保ち、リタイアした後は昔話になる。ただそれだけの話だろう。
ところが、ツイッターという世界には、まあとにかく自分大好きな人たちが強烈な勢いで自分を投げ込んできたりもする。
嫌なら見なければいいというだけの話で、実際にあまり見ないのだけれど、ハッシュタグを付けて自分をアピールする輩までいる。凄まじい自己愛だ。
しかも、若い頃は世界的に有名な企業に勤めたこともあるとアピールしている人までいる。
オッサンである私には、過去の栄光にすがるオッサンの姿が無様だと感じる。しかし、それを恥だと全く考えていない。凄まじい自己愛だ。
ところで、私は企業人ではないので全く気にしたことがなかったのだが、大手企業に勤める人たちにとって、「本社」と「子会社」という職場には線引きがなされているらしい。
そういえば、私の叔父はとある企業の副社長になった後でリタイアしたのだが、本人はあまり誇っていなかった。私から見ると凄いじゃないかと思ったのだが、本人的には子会社だよという諦めにも似た雰囲気があった。
どこかのテレビドラマでも出向というエピソードが取り上げられていたそうだが、私の家にはテレビがないのでよく分からない。本社と子会社で何か違いがあるのだろう。
この街には大手企業に勤める同世代がたくさん住んでいる。興味深く感じたので調べてみたのだが、どうやら、本社勤務として採用された人が、途中で出向という形で子会社に勤務することは、あまり華々しい軌跡ではないらしい。
本社で手腕を発揮して、子会社の立ち上げに参画するというパターンも少数ながらあるらしい。だが、その多くは本社から何らかの理由があって子会社に「飛ばされる」というパターンなのだそうだ。
上に対して注文を付けすぎたとか、周りと協調することができなかったとか、まあその理由は様々だ。立場としては本社から子会社に出向という立場だけれど、本社に戻ってくることができずにそのままという人もたくさんいるらしい。
外資系の企業の場合には戦力にならないと判断された後でいきなり解雇されることも多いそうだが、国内企業の場合には、子会社に出向という形で流されるということか。
そういえば、私の大学院時代の同期は、外資系企業の日本支社に就職した後、なぜだか分からないが20年後に米国の本社の管理職として働いていることを最近になって知った。
彼は、日本語と英語と中国語と...歳をとって忘れたが...あとひとつ何かの言語を流暢に話す極めて優秀な人だったのだが、間違いなく年収1億円の世界だな。そうか、本社から子会社への出向と逆のパターンだったのか。
もとい、本社に就職して、途中で子会社に出向になったとして、それが職業人としての失敗だとか、しくじりだと嘲るつもりはない。組織の論理においては本人の能力だけでなく、人間関係や社内政治も関係するだろうし、自分がいる状況で最善を尽くすことが職業人としての矜持だと私は思う。
しかしながら、自分が子会社に出向になったにも関わらず、親会社のネームバリューを鎧にしてツイッターでアピールすることに、何かの意味があるのだろうか。
本社に就職したけれど、出向して子会社にいます、まあそれはともかく本社採用の私は優秀なんです、凄い人なんですとアピールしたいのだろうか。
そこまで自己愛が強いのならば、ツイッターで頑張らずに仕事で頑張って、さっさと本社に戻ればいいのにと私は思った。いや、そのような性格だから子会社に飛ばされたのかなとも思った。
私もオッサンなので実感しているが、四十路を越えたオッサンの自己愛に付ける薬はない。自分を見つめ直すよりも先に自分を肯定するベクトルに思考が回るのだろう。
バーンアウトによって感情が焼き切れたことは不幸だったが、その過程で自らの自己愛までが灰になったことは幸運なことだった。自己愛に振り回されている同世代のオッサンたちを涼しげな眼差しで眺めることができる。
どのようにアピールしたとしても、いずれ職業人としての終焉がやってくる。その時には学歴や職歴といった鎧は意味をなさず、ただそこに自分がいるだけだ。何をもって自分たりうるか。
学歴や職歴といった鎧に頼りすぎて、もはや鎧が本体になってしまっているオッサンを見かけることはよくある。とりわけ、定年退職が見えてきた時期からのモガキは分かりやすい。そのような人たちは、とてもシンプルな価値観の中で生きているのかもしれない。
自らの死に直面し、生きることに向き合った今なら分かるが、朽ちて世を去る時どころか、職業人生をリタイアする時点で、そのような鎧が意味を持たなくなる。
自分たちの父親に相当する団塊世代の男たちが、退職を機にしばらく自分探しに出かけ、何も見つからずに目的を失って彷徨っている姿を見たか。
最初は家庭菜園や蕎麦打ちといった趣味を始め、それらに飽きてしまい、妻の使い走りになり、現役時代に楽しかったはずのゴルフや麻雀が楽しくなくなり、何を柱に生きれば良いのかと。
彼らは、自分の身にまとっていた鎧がなくなり、そこにあった自分はとても小さく、社会から見放されて無価値になったように感じているはずだ。それは、鎧ばかりを気にして、自分という本体を受け止めていなかったからではないか。
しかし、そのような人たちに何を言っても無駄だろう。自分をアピールし続け、他者から無視されても、ひたすらアピールを続けるだけだな。
自分が思っているほどには、他者は自分に対して興味も関心もない。
中年のオッサンたちがツイッターで自分自身をアピールし続けている姿を見かけると、彼らが孤独という霧の中で大声を上げて自分の存在を他者に伝えているように思える。
これから職業人をリタイアすると、孤独の霧はさらに深まりを増し、自分を包み込む。その時、彼らはどのようになっているのだろう。
自分大好きな人たちの20年後の姿を見てみたいものだ。