中学受験で滑り止めの学校に支払う入学金という名の手付金
コロナ禍によるサプライチェーンの停滞によって日本国内での自転車の供給が滞っているので、より良いスペックのブルーノが手に入らなかった。そのため、廉価版のブルーノを買ってカスタムすることにしたわけだが、子供の私立中学への入学に比べれば費やす金の意義がある。いや、むしろ中学受験での金の飛び方があまりに無慈悲で不条理なんだ。
子供が通う学習塾の受講料については、まあそれは仕方がないなと思った。塾の講師たちがカリキュラムや教材を準備し、相応の時間をかけて子供たちに勉強を教えているわけだから。
しかしながら、中学受験の本番に入ると、まるでホローテックIIのボトムブラケットにシマノのクランクがスムーズに収まるかのようなギミックによって金が飛んで行く。自転車乗りにしか分からない表現だ。
入試を受けるだけで数万円という金額については気にしない。学校の運営や教員たちの人件費を考えると当然かもしれない。
だが、私が驚いたのは、いわゆる滑り止めの学校を先に受験して、その後で本命の学校を受験する際の金の流れだ。
高校受験や大学受験と比べて、中学受験は試験から合格発表までのスピードが著しく速い。その多くは受験の翌日に合格発表が行われる。中には受験した当日に合否が発表される中学校さえある。
そこに合格発表の風情はない。
今はコロナの影響で自粛されているかもしれないが、大学受験の場合には、試験を受けた後でしばらく発表を待ち、桜が咲き始めたキャンパスの合格発表の場において体育会系の先輩たちから胴上げをしてもらうという光景が定番だった。大学の後は社会人だ。それらの境界に進めたという喜びや高揚感もあった。
高校入試の合格発表の場合には、思春期を迎えた中学生たちが進路を色々と考える複雑な感情があった。部活で共に汗を流した同級生、あるいは想いを寄せる女子生徒と別の道に進む寂しさがあったり、高校に入ってからの新しい世界に胸を躍らせたり。
だが、中学入試は違う。私自身は公立中学の出身なので中学受験の経験がないのだが、我が子や妻の状態を眺めて唖然としている。
なんだこの流れ作業というか事務的というか、親が目を血走らせている横で子供たちがベルトコンベヤーに乗せられて機械的に選別されるような様子は。
中学入試の合格発表は郵送通知どころかオンライン。確かに速達では間に合わないくらいのスピード感がある。
合格した場合にも、不合格だった場合にも、その学校が第一志望なのか、第二志望なのか、それ以外なのかによって対応が変わる。対応というよりも戦略と呼んで差し支えないかもしれない。
非常に限られた期間に多数の学校で入試が行われるので、それらをどのように組み合わせていくのかが重要なポイントになる。
加えて、入試を受けるのは小学6年生だ。気持ちの浮き沈みは大きく、いざ本番で動揺してポテンシャルを発揮することができないなんてこともよくあるらしい。
そして、私が驚いたのは、受験者たちから滑り止めとして扱われた私立中学が、その世帯から効率的に金をもぎ取っていくギミックだ。
例えば、定員が100名だった場合、多くの学校はその何倍もの受験生に合格を出す。大学受験で水増し合格と呼ばれる対応だが、その合格者数の多さが国立大学ではありえないレベルだ。定員が100名なのに、合格者が400名とか500名とか。
定員の何倍もの合格者を出したとしても、それくらいの勢いで入学を辞退する受験者がいるという現実がある。
それぞれの中学校の受験日を同じ日にすれば、このように異様とも言える水増し合格は生じないだろうけれど、中学校にとっても保護者にとっても受験産業にとっても受験日が異なった方が都合が良いのだろう。
そして、水増し合格を出してさえ定員が充たない場合には、私たちの世代での国立大学の前期日程と後期日程のような形で、第2回目の募集においてより多くの受験生に合格を出すことで調整するらしい。
第1回の募集で水増し合格の辞退者があまり出なかった場合にも、同様に第2回の募集で入学者数を調整するわけだな。同じ中学で複数回の受験日が用意されているのは、子供たちのリカバーというよりも、経営者サイドの都合なのかもしれない。
私立中学の入試においてことごとく不合格になることは「全落ち」と呼ばれて恐れられている。
子供たちとしても、実際に入学してもいいかなと思っている中学校に合格した後で本命を狙って行くと精神的に余裕が生まれる。その意味で滑り止めの存在は大きい。
だが、私なりのイメージとしては、滑り止めの中学校に合格した後で、本命の中学校を受験し、本命の中学校が不合格となった場合には滑り止めの中学校に入学金を支払うという順番だった。
ところが、滑り止めの中学校の入学金の支払い期限が、本命の中学校の受験日の直近だったりもする。まあそれでも本命の中学校の受験日の当日や前日ならば何とかなる。
しかし、滑り止めの中学校の入学金の支払い期限が、まるで狙ったかのように本命の中学校の受験日の前日だったりもする。その場合には、滑り止めを確保するために入学金を支払っておく必要がある。
手付金のような形で10数万円を先に支払う私立中学校もあるが、全額で30万円程度の入学金を要求してくる私立中学校もある。もちろんだが、入学しなかった場合には入学金が戻ってこないケースがほとんどだ。
この隙間のなさ。まさにシマノのホローテックIIのボトムブラケットにクランクを差し込む時のような感覚に似ている。グリスを塗ると空気さえ入る隙間がない。
この様子を大学受験で例えると、私立大学を滑り止めとして受験して合格し、入学金を支払った後で国立大学に挑戦するようなスキームに似ている。
私の場合には実家が大きな借金を抱えていたので、国立大学を受験する時に私立大学の滑り止めを確保するための経済的な余裕がなかった。
命綱を付けずに岸壁を登っていくスタイル。それが私が辿ってきた人生のルートだ。足を滑らせたら学校に入ることができず、働いて金を貯めて学校に入るしかない。
それだけのプレッシャーを感じたからこそ、勉学に集中することができたとも言える。
また、自分の子供たちにはそのような苦労をさせまいと人生を進み、実際に滑り止めのための金を払うことはできる。
しかしながら、その状態になって気付いたのは、滑り止めの学校に金を払うことについて何の疑問も感じない妻と子供の姿だった。
私なりには自分の生き方を踏まえた上でそれなりの達成感があり、過ぎた時間を振り返ると美談になるかもしれないと思っていたが、実際には虚しさだけが残った。
よくよく考えてみると、入学しない私立中学校に対して数十万円の金を支払うという制度は法的に問題がないのだろうか。この金は本来の意味での入学金には該当せず、不動産等での手付金のような扱いだ。
その金に入学金という名前を付けて、労せずに収入を得ることに問題はないのか。多くの保護者たちがおかしいと感じているはずだが、どうして行政は動かないのか。
私立学校のネットワークが政治に対して影響力を有していることは分かるが。
本命の学校の入試に挑戦する際の退路としての精神的な保険、あるいは本命の学校で不合格になった場合の現実的な保険として、滑り止めの学校に金を払うという理屈は分かる。
しかし、滑り止めとして利用される私立中学校としてはとてもメリットが大きい。入学金の納付期限を調整するだけでコストをかける必要もないまま高額な金が入ってくる。子供たちに教育を施す必要はなく、トラブルが生じるリスクも少ない。学校の運営を考えると魅力的な収入になることだろう。
では、保護者から見ると、滑り止めの私立中学に納める入学金にどのような意味があるのか。
我が子の将来のための保険であることは間違いないが、そのような保険がなければ先に進めない子供が、大学入試、さらには就職試験を突破することができるのか。
そのような精神論を振りかざすような余裕もないまま、この慌ただしい1ヶ月が進んでいく。
本命の私立中学の入試において不合格になり、滑り止めの私立中学に進むことになったなら、その入学金は無駄にはならない。支払った金額に見合った意味が生まれる。
私なりには、「滑り止め」という表現自体が学校に対して無礼だと感じる。滑り止めと表現している学校に入学したのなら、それが本人の力の限界だったというだけの話だ。現実を受け止めてその後に精進すればいい。
他方、本命の私立中学に合格した場合には、滑り止めの私立中学に支払った入学金は無駄になる。30万円もの大金を、自分の子供が入学しない私立中学に寄付するようなものだ。このシステムは本当に正しいのだろうか。
入試の日程はそれぞれの私立中学校で自由に決め、入学金の納付については一律の期限というシステムであれば、そのように金をむしり取られることがない。
自分たちが志望する中学校を一通り受験し、その合否が判明した上で、どこに入学金を支払うのかを決める。とてもリーズナブルな流れだ。
だが、そのシステムを採用してしまうと、滑り止めとして利用されてしまう学校としては新入生の人数の見当が付かず、3月から4月にかけてカオスになってしまうかもしれないな。
生き続けていると、世の中の様々な不条理を実感することになる。私立中学の受験においても自分が考えたところで仕方のないことがあるというわけか。
まあそれが中学受験というものだと諦めつつ「金って、なんだろう?」と自問自答したりもする。
しかしながら、そのようなことを考えたところで時計は回る。
市立小学校から市立中学校に進み、高校受験で進学校に入り、そこから難関の国公立大学に合格するというコストパフォーマンスが高い子供とめぐり合うことができれば苦労はない。自分がそうだったと言っても、妻はそうではなかった。
現状として、親からゲタを履かせてもらわないといけない子供が生まれた。また、そのようなスタイルが当然だという妻と連れ添うことになった。過去の自分が決めて進んだ結果なのだから仕方がない。
子供の教育に金をかけることは間違っていないが、無駄金を投じることさえ許容するべきなのか。
そう考えながら、趣味の自転車に無駄金を投じているわけだけれど。