2022/01/15

納車したミニベロに乗って眺めた隅田川と新婚時代の自分の姿

本格的な中学受験シーズンが到来して、妻と上の子供が激しく動揺している。二人とも癇癪持ちで落ち着きがなく、神経が太いようで細い。受験で落ちたことがない私だから言うが、受験のプレッシャーというものは腹の底で受け止めて、それを集中力に変換することが重要だ。しかし、この二人はプレッシャーに丸飲みにされてしまっている。

深夜に帰宅した自宅の中は服や鞄が散らかって荒れ放題。この緊迫した家庭の状況を何とかしようと、わざと明るく振る舞っている下の子供のテンションが実にシュールだ。翌日、悼まれない気持ちで私は家事を片付けた後で休日出勤に向かう。帰り道に都内のショップにて注文したミニベロを受け取り、そのまま浦安まで走って帰宅することにした。


私は浦安という街のことを知らずに引っ越したので、市内で上の子供が産まれた後、子供の将来設計について漠然としたイメージしか持っていなかった。

うちの子供は私の頭脳を遺伝子として受け継いでいるわけだから、市立小学校から市立中学校に上がり、そこから県立浦安高校に進み、国立大学というルートが可能だと本気で考えていた。

東京大学は難しかったとしても、学部を選ばなければ千葉大学もしくは埼玉大学なら大丈夫だろうと。

しかし、浦安市での生活が長い同世代の父親にこのプランを話したところ、「君は酔っ払っているのか?」とでも言わんばかりの表情が返ってきた。

どうやらそのルートで千葉大学に合格すると、浦安市役所に呼ばれて浦安市長とツーショットで写真を撮られ、広報うらやすに掲載されるくらいの大変な出来事になってしまうらしい。

もう一つの誤算としては、確かに私の遺伝子が子供に受け継がれているが、妻の遺伝子も受け継がれている。学力に関係する神経細胞間の情報伝達や無数の蛋白質は、両者の遺伝子のうちのどちらかが発現することで表現型として導き出される。

つまり、私の遺伝子が子供の頭の中に入っていたとしても、妻の遺伝子が多く発現していると神経細胞の性質は妻と同様になる。そして、妻や義父母、義妹を含めて、この一家はあまり受験や勉強が得意ではない。

とはいえ、私の実家は職人の家系なので、そもそも受験や勉強といった物差しそのものがない。国立大学を卒業したのは父方の親戚では私だけだ。母方の親戚は勉強と金儲けが得意で、赤門を出た人や企業の重役になった人もいる。

両者の遺伝子がランダムに混ざり合い、変異と呼んでも差し支えない状態で生まれたのが私なのだろう。

私には東京大学に通っていた時に交際していた同世代の女性がいたのだが、いざ結婚という段階で話がこじれて縁が切れた。その女性は私よりも学力が高かったので、もしも結婚していたら生まれた子供は受験で無双だったかもしれないな。

しかし、当時の私は20代。もっと別の生き方があると高望みしてしまったことも否めない。結局のところは、自分に覚悟が足りなかったのだろう。

もっと別の生き方を求め、紆余曲折を経て、覚悟を決めて進み、そしてたどり着いたのが、現在の状況だ。

どうして私は毎日、毎日、ストレスで顔をゆがめながら駅に立ち、電車に乗っているのだろう。こんなに苦しい生き方なんて、自分は求めていなかったはずだ。

職業人生は大学受験で大勢が決まるが、それは人生の一部でしかない。私生活を含めた人生は結婚で大勢が決まる。すでに五十路が見えてきたので、そんなことを言っていても仕方がない。

休日出勤なので残業する必要はなく、しかも納車されるブルーノのミニベロのことが気になって仕方がないので、一段落したところでさっさとサイクルショップに向かう。

そのショップは想像通りの自転車臭い店構えで、愛想がないスタッフたちが懸命に自転車を整備していた。壁に掛けられた工具類はどれも古びていて、彼らの経験と腕の良さを物語っていた。

今回注文したブルーノについてはカスタムのベースとして使うと伝えていたので、ショップとしては念入りに整備せずに順番を早めて納車してくれたようだ。

私としても、6万円のスポーツ自転車に優れた完成度を求めているわけでもなく、とりあえず東京から浦安まで走って帰ることができればいいと思った。

6万円という金は安くはないが、スポーツ自転車としては採算が合わないくらいの廉価品だ。そして、メーカーが最も恐れるのはフレームの破断だと思う。これによって事故が生じたりすると、そのモデルだけではなくて、メーカーのブランドや信頼性が大きく傾く。

そうなると、いくらエントリーモデルだからといってフレームの耐久性を落とすわけにはいかない。ということで、ホイールやタイヤ、ギヤといったパーツ類がコストカットの標的になる。

店頭でしばらく待っていると、スタッフがブルーノのミニベロを持ってきてくれた。「カスタムのベースですよね?どれくらい交換しますか?」とスタッフが尋ねてきた。

私は、「フレームとフロントフォーク以外は全て交換ですね...」と答えた。おそらく、スタッフはそのことを見越して早々と整備を切り上げたのだと思う。注文から納品まで数週間かかるという話だったのに、実際は3日で準備完了の連絡が入った。早すぎだろ。

足周りはケンダの千円タイヤ。チェーンリングはボルトではなくピン止め。7速のリアはカセットフリーハブではなくてボスフリーハブ。そのまま使い続けられそうなパーツが見当たらない。

そして、ボトムブラケットの裏面には煌々と輝く「MADE IN CHINA」の文字。

フルカーボンのフレームにDURA-ACEのホイールを取り付けて走っていたロードバイク乗りが、ここまで墜ちたかと自嘲する気持ちはなくて、実に清々しい気分になった。

車輪だけで数十万円するような自転車に乗って楽しむという人生のステージは終わった。これからどうするかは分からないが、自由気ままに走ってみよう。

自宅から持ってきたキャットアイのライトをブルーノに取り付け、ヘルメットを被り、とりあえず浦安まで走って帰ることにした。すでに日が傾いているので、ナイトライドで試走行というあまり良くない条件になった。

しかしながら、この6万円のミニベロは値段の割によく走る。

折り畳みのミニベロに乗って同じルートを走った時には、フレームが妙なところでよじれる感じがあって怖かったが、ブルーノはホリゾンタルのクロモリフレームだ。クロモリ製のロードバイクとよく似た剛性感がある。

車輪が小さいので起伏に気を遣うが、太めのタイヤを履いているので安心感がある。ホイールを手組に変更すればもっと良くなることだろう。

カンチブレーキが効かないという話は本当だな。確かにこれならばパニックブレーキで前転落車はないが、ミニVブレーキに交換せねば。

総じて、この小回りの良さはとても軽快だな。

東京の23区は突貫工事で仕上がった路面が広がり、通行する自動車が多いこともあってサイクリングにはあまり適していない。

けれど、都心をミニベロでのんびりと走ると、見所がたくさんあって面白かったりもする。一般道に自動車が多い時には通行可能な歩道に回避しても何ら気を遣う必要がない。

ロードバイクに乗っていた時には、歩道に逃げたら格好が悪いという思い込みがあって、タクシーやハイエースに幅寄せをくらったらイキって睨み返したものだ。

オッサンがミニベロで走っていると、そのような運転手たちとしてもプレッシャーをかけづらいのかもしれないな。幅寄せしようものなら、本当に転びそうな雰囲気がある。

そういえば、この付近だったなと、私はブルーノを切り返して台東区に向かった。

妻と結婚した私は、台東区の三筋という場所にマンションを借りて、新居を構えた。最寄り駅は蔵前駅。

すると、「浅草の近くなんてけしからん」と、埋め立て地が大好きな義実家から猛反対を受けた。ウトメやコトメが、妻の合鍵を使って私に無断で新居を物色したこともあった。あの当時からおかしな一家だったな。

「台東区なんかよりも、浦安の方がずっと住みやすい!」という妻や義実家の意見を尊重して浦安に引っ越したら、すぐに大震災がやってきて新浦安が液状化で崩壊した。

私は風呂に入ることもできず、猫砂に大便をする生活を味わった。そのまま台東区に住んでいたら、あのように惨めな経験を積む必要さえなかったわけだ。

しかしながら、当時は柔和で優しかった妻が、今では台東区のことを口汚く批判することがある。私が全ての金を支払ったのだが、台東区になんて住みたくなかったらしい。

蔵前駅の周辺は大きなスーパーがなくて不便だった、魚の刺身を買うこともできなかったと妻は文句ばかり言う。

しかし、我が家では食材の多くを宅配で買っている。妻は生モノが嫌いなので、魚の刺身なんて私が買ってこなければ年に数回しか食卓に上がらない。とにかく浦安を持ち上げてマウントで勝ちたいだけ。

私としては上野の付近がとても好きで、むしろ浦安になんて住みたくないのだが、人の好みは人それぞれだ。感性が合わない男女が結婚したことが軋轢の原因であることは間違いない。

よくよく考えてみると、妻と結婚して幸せだったのは、台東区に住んでいた頃の新婚時代と、子供たちが赤ん坊だった頃だったのかもしれないな。

その後は、浦安に住みたいからと浦安に引っ越し、共働きをしたいからと共働きを続け、子供を私立中学に入れたいからと受験に臨み、多くが妻の主張によって事が進んでいった。それが夫としてのあるべき姿だと私は信じた。

だが、我慢を続けた結果としてバーンアウトによって感情を失い、まさに生きるか死ぬかという苦しい状態に追い込まれた。

妻としては、自分に責任があるなんて全く考えていないことだろう。義実家の連中も同じ精神構造だ。だが、子供たちが生まれた以上は育てなければ。その気持ちを抱えながらここまできた。

一時は離婚寸前だった夫婦関係は、子供たちが独立するまでという時限付きで休火山となり、やがて夫婦ともにその状態に慣れ、最近では喧嘩をすることもなくなった。正しくは、口論にならないように距離を取っているだけとも言えるが。

それにしても台東区はいい。学生時代から慣れ親しんだ雑多な雰囲気。

街も道も浦安のように綺麗ではないけれど、たまに歩道に吐瀉物が落ちていたり、人が寝転んでいたり、手書きの看板が並んでいたりするけれど、このカオティックな風情がたまらない。

子供の頃から感覚過敏に苦しんできた私が、歩くだけで何かの臭いが漂ってくることもある街を好むのは不思議だと思う。おそらく、外的刺激の閾値を振り切った状態になり、逆に気を遣わなくて済むからなのか。

浦安市の場合には、道路を挟んで北部と南部が水と油のように分かれてしまっている。元町を中心とした北部で開催される浦安の三社祭に南部の新町の住民が快く招待されるなんて話を聞いたことがない。

だが、浦安の三社祭よりもずっと規模が大きい浅草の三社祭では、引っ越してすぐの状態にも関わらず祭りに招待された。その場所は、近所の理髪店だった。

「この街に住んだのだから、仲間だ」と。

しかも、浅草の三社祭では一般道にブルーシートが敷かれ、そこで住民たちが宴会を始め、通りがかった警視庁の警官を「まあ、こっちに来い」と呼び止めてブルーシートの上に招待し、酒を出された警官が猛烈に拒否している光景を見た。

こち亀の両さんのようなエピソードが実在するのかと、私は大喜びしてその光景を眺めた。

自宅に帰れば、当時は優しかった妻が出迎えてくれて、本当に幸せだった。

たった1年にも満たない時間だったけれど、台東区での生活は私の人生の中で最も楽しい時期だったのかもしれないな。

異様なまでに過干渉な義母が、毎晩9時に妻の携帯に電話をかけてきたことを除いて。あのトメは当時からおかしかった。

「そうか、あれから10年以上が経ったのか。老けるはずだな」と過ぎ去った時間を虚しく感じつつ、隅田川を越えて浦安に戻ろうとした時のことだった。

隅田川にかかる厩橋の上から、東京スカイツリーとアサヒビールの金色のモニュメントが見えた。

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台東区に住んでいた頃は、まだスカイツリーが建設されていなかった。

「黄金のうんこ」と揶揄されることが多く、初めて見た人にはそうとしか思えないであろう金色のモニュメントは、当時からあった。セピア色の写真ではそれを確認することが難しいが、橋の近くの大きなビルの近くにある。肉眼であればあまりに目立つので見つからないはずがない。

今乗っているブルーノにはセンタースタンドがあるので自転車を立てかけることができるのだけれど、スタンドのないスポーツバイクに乗り続けたせいか、私はミニベロに跨がったままでその光景を眺めた。

すると、金色のモニュメントの近くの遊歩道をオレンジ色のママチャリに乗って楽しそうに走っている男性の姿が見えた。

彼の姿は白昼夢にも似た追憶で生じたイメージなのだろう。なぜなら、そのママチャリに乗っている男性は、若き日の私自身だったからだ。

台東区に新居を構えた時、妻の父親が自転車を買ってきてくれた。おそらくホームセンターで1万円もしないような安物だった。今から思えば、あの当時からウトは身銭を切ることを嫌がる人だったんだな。

その自転車に乗って私は近所に買物に行った。実に楽しかった。サイクリングという趣味を始める前のことだったが、自転車に乗って目にする風景がとても新鮮だった。

温和で礼儀正しく、とても素晴らしい女性と結婚することができたと、当時の私は幸福感に充ちていた。

私から見ると妙な義実家が妻とセットで付いてきたけれど、うちの妻は義実家と線を引いて私と連れ添ってくれると前向きに考えた。

しかし、浦安で子育てに入ってから妻が別人のようになり、義実家ではなく私に対して線が引かれた。

子はカスガイという文字通りに生き、通勤が辛くても必死に自宅と職場を往復し、家庭に金を入れる。それが夫であり父親である私の役割になった。

厩橋の上から見えた若き日の自分自身の姿は、オカルトでもホラーでもなく、私の脳に記憶されているイメージが再構築されただけの話だ。

だが、SF作品であれば、時空が歪んで過去の自分とすれ違うなんてことがあったりもする。現在の私がタイムスリップしたという設定であれば、目の前に東京スカイツリーがないという情景になっていたりもするわけだな。

完全なる妄想の世界ではあるが、台東区で幸福感に充ちて明るい将来像を描いている若き日の自分と、その後で浦安に引っ越して苛烈なストレスで心身ともに擦り切れて老け込んだ現在の自分が顔を合わせた時。

現在の自分は過去の自分にどのような言葉をかけてあげられるのだろう。

「絶対に浦安に引っ越すな!感情を失うことになるぞ!」と忠告したところで、若き日の私が聞き入れるはずもないだろうな。

そういえば思い出した。この付近をオレンジ色のママチャリで走った時と、今、ブルーノで走っている時の他に、一度だけ私はこの場所を自転車に乗って訪れていた。

バーンアウトの真っ最中で感情が枯渇し、これでは死んでしまうと思ってロードバイクに乗りまくっていた時の頃だ。

浦安と都内をロードバイクで通勤するという無茶な行動に出て、週末のサイクリングも含めて数年かけて地球を半周した計算になる。最後は交通事故に遭って自転車通勤を中止した。

あの当時も、この厩橋、あるいは下流の蔵前橋を自転車に乗って走っていた。だが、歩道ではなくて車道を突っ走っていたように思える。

この症状はうつ病の場合と同じかもしれないが、バーンアウトを起こした頃の記憶は断片化しているようで、自分が思い出そうとしても思い出せないことがよくある。

確か、車道の脇にロードバイクを停めて、掠りながら走って行く自動車を右腕で感じながら、隅田川を眺めていたような記憶が残っている。

当時は共働きの育児で精神の線が切れてしまった妻が自宅で暴れ続けていて、帰宅すること自体に恐怖を覚えていた。長時間の電車通勤があまりに辛くて、車内で息ができなくなり、それがきっかけで自転車通勤を選択した。

いや、自転車で職場に通わざるをえない心身の状態だったんだ。それが結果的に自己治療になっただけの話だ。

そういえばさらに思い出した。バーンアウトに苦しみながらロードバイクに乗って通勤していた頃、隅田川や荒川にかかる大きな橋に差し掛かると、そこから川に身を投げて死ぬイメージがとても鮮やかに脳裏に浮かんだ。

無念だとか、悲しみだとか、そういった感情ではなくて、ここから飛び降りたら楽になれるかもしれないという甘美な気持ちにも似た衝動だった。今から思うと、かなりヤバい状態だったのだな。

現在の私としては、新婚時代の自分ではなくて、バーンアウトで苦しんでいる時の自分に会いたいな。死にそうになっている当時の自分にかける言葉は、たったひとつ。

「そのまま自転車に乗り続れば、何とかなるさ」

実際に何とかなったのだから間違っていないだろう。

ところで、子供たちが私立中学に入学したら、私は晴れて浦安から脱出することになる。脱出した後で、私は台東区に戻ってくるだろうか。

おそらく、別の区に引っ越すことだろう。

どこに引っ越したところで、浦安大好きな妻やウトメやコトメは色々と文句を言ってくるはずだ。金を出すのは私なので、私が決める。口を出すなら金も出せ。

しかし、台東区に引っ越すと、新居を構えて幸せだと喜んでいた頃の自分の記憶を、今の自分の記憶で上書きすることになる。

再び住んだところで、人生最良の日々が戻ってくるはずもなく、時間も戻らない。自分の記憶の中でそのまま保存しておきたい。