2022/01/12

奥行きがあるオッサンのライフログって...なんだろうな

AmazonはAIを活用して顧客に商品を提案している。自転車用品を探そうとしてトップページにアクセスしたところ、「こちらもおすすめ」という欄に熟女モデルのヌード写真集が立て続けに表示された。私の記憶の中で、そのような写真集を検索あるいは閲覧した記憶がない。

さらに、熟女モデルのヌード写真集のサムネイルよりも先に、「まいっちんぐマチコ先生」が表示されていた。しかも、実写版ではなくてコミック版だ。AmazonのAIがバグを起こしたのか発狂したのか知らないが、これはサポートに苦情を伝えても仕方がないくらいの光景だ。


どうやら、私個人がAmazonでそれらの商品を検索もしくは閲覧していなくても、これまでの閲覧履歴や購入履歴と似ているユーザーの好みに合わせてAmazonのAIが勝手におすすめを提案してくるそうだ。

私が主に検索しているのは自転車用品、あるいは生活用品だ。自転車用品については、シマノだけではなくて、ダイアコンペやタンゲ、ニットーといったクラシックな製品を販売しているメーカーが多い。

そのようなパーツを求めるネットユーザーは、往々にして五十路やそれ以上の年齢の人たちなのだろうか。その人たちが自転車用品だけではなくて他の商品も閲覧し、結果として私のページにまで影響が及んでいるという推察に至る。

それにしても、熟女のヌード写真集とは予想外だった。熟女といっても四十路であれば私よりも年下、五十路であっても同世代なのだから、とりわけ忌み嫌う必要はない。むしろ、よくここまで肌や体型を維持できるものだと、写真のデジタル修正ではカバーしきれない内容について驚きと尊敬の念を感じた。

この歳になってようやく気付くことだけれど、美しい人は歳を重ねても美しい。性別に関係なく人は老い、途中で外見についてどうでもよくなったりもするわけだが、老いに抗うどころか、老いさえも制御しながら歳を重ねたことで発する深みというものがある。

私はオッサンなのでオッサンの目線から考えることしかできないが、リアルな場面においてとても美しい婦人を見かけることがある。その人と結婚したオッサンは、さぞかし幸せな人生を送っていることだろう。

ということは、「ああ、自分の妻がこのような人なら良かったのに...」という気持ちで熟女の写真集を検索したり閲覧したネットユーザーがいて、そのネットユーザーと私の嗜好が良く似ていたということで、AmazonのAIがおすすめ商品を提示してきたと解釈しうる。

余計なお世話だ。これからは楽天やYahooショッピングをデフォルトにするぞとAmazonのAIに抗議したくもなる。

しかしながら、熟女のヌード写真集については私の現況や心理的背景もあったりするので無碍に批判するのもアレだ。確かに、このような人が自分の妻だったらならと思いもする。

他方、まいっちんぐマチコ先生は反則だ。しかも、くどいようだがコミック版だ。一体、どんな性癖があって、このような商品を検索するのか。

せめて、「いけない!ルナ先生」であれば少年時代にお世話になったので許せる。しかし、まいっちんぐマチコ先生を勧めてくるAmazonのAIについては、未だAIは人間のレベルには程遠いことを感じざるをえない。

「その手に乗るか」と、私の好奇心を挑発するようなAmazonのAIに反発する気も失せて、それらを無視し続けた。すると、Amazonのおすすめ欄にサイクリング用のパンツばかりが並ぶようになった。

パッド付きのサイクリングパンツは確かに便利だが、そこまで急いで調達するような状況ではない。しかも、ここ最近の私はそれらを検索したことがない。それなのに、おすすめ欄はサイクリングパンツばかりが並んでいる。一体、AmazonのAIは何を考えているんだ?

さて、話が全く異なるが、最近の私はネット上で他のユーザーのブログやSNSをほとんど見なくなった。

コロナ禍がやってくる前に定期的にアクセスしていた多くのブログで更新が停止し、更新されているブログにおいても尖った内容が増えてきたので、アクセスする気持ちがなくなった。

何をもって尖っているのかというと、紹介される話に奥行きがないというか、偏っているというか、余裕がないというか。

それは他者だけではなくて自分自身についても言えることだ。このように混乱した社会情勢において、思考が尖らない人の方が少ないことだろう。

ブログブームはすでに終焉に至り、SNSで近況を発する人が増えた。しかし、SNSを介して発せられる情報に対しても受け取る側の容量が飽和し、人々が盛んに情報を発したところで誰も受け取らないようになってしまったというのが、昨今のネット事情ではないか。

「人が欲する情報」とは何かというと、「自分にとって都合の良い情報」なのだろう。勉強になる情報ではなくて、もっと即物的かつ打算的な情報。

それらの情報を個人のネットユーザーが提供する時代はすでに終わり、情報を提供することで利益を得るという関係の下で発信がなされるという時代に入ったと思えば、見方によっては安堵を覚えもする。なぜなら、ネットという存在は人が使う道具でしかなかったという当たり前の結論に戻るからだ。

しかし、「所詮は道具でしかない」という現時点の私の理解も、時の流れによって再び大きく変わってくる気がしてならない。

自分が生きていて、その存在を他者に知らせたいという気持ちがあって、自分がネット上に情報を発したとする。人によって受け取り方が違うかもしれないが、誰かが自分の情報を受け取って前向きなレスポンスを返してくれると満足する。

その相手が人間である必要はあるのか。いや、その相手を人間が担うことができなくなってはいないか。

自分が発した情報に対して他の人間が応答してくれると嬉しいはずだが、情報を投げ込む側と受け取って返す側のコストを考えると、後者の方が面倒だ。そのため、既読スルーのような形で情報だけを受け取って無反応を貫いたり、そもそも情報を受け取らないことがあるはずだ。

そのような傾向がネットにおける人々の孤独感をさらに強め、人々は自分の存在を認めてくれる相手を探して情報発信をさらに強める。

余程に魅力ある人でない限り、多くの人たちはネット上においても他者から存在を知ってもらうことさえ難しい。つまり、ネットによって多数の人たちが繋がるという明るい未来は閉ざされていて、すでに現実世界のように知人とその他大勢という形になってしまっているということだな。

しかしながら、このままAIが機械的学習、あるいはさらに高度な進化を繰り返すとどうなるか。匿名のネット環境では、相手が人間であってもAIであっても判別が困難になる。

なぜだか分からないが、自分のブログを積極的に褒めてくれる女性のネットユーザーが現れて、自分の妻よりもずっと話を聞いてくれて、励ましてくれるようになったとする。しかも、送られてきた写真は、なぜだか分からないが自分の好みのタイプだったとする。

その人物像が基板上の電気信号に存在するAIであったとして、脳の中の電気信号でしかない私の自我と違いがあるのか。肉体という点では明らかに違うが、情報という点では両者はよく似ている。

初音ミクに本気で恋心を抱く男性がいるくらいだ。相手がさらに進化したAIであったならば、妻ではなくAIを心の拠り所にしてしまうオッサンが増えてもおかしくない。

妻子持ちのオッサンが他の女性と身体的な接触を持つと不倫だ離婚だと問題になるのだから、精神面だけのマターであればAIでも事足りる。

そのような時代がやってきたとして、それが悪だと言えるのか、自分には分からない。AIには感情はないけれど、感情がないからこそ気持ちが楽になることだってあるはずだ。

まあとにかく、黎明期を知っているネットユーザーである自分としては、常に誰かと繋がっていることが鬱陶しく感じるし、その一方で何だこれでは現実世界とあまり変わらないではないかという落胆も感じる。

もはや妻との会話もないのだから、話を聞いてくれたり励ましてくれる相手がAIでも構わない気がするな。

では、自分は何のために近況をネットに記して公開しているのか。

結局のところは、自分が生きている時間で何を考えたのかを記録しておきたいというだけの話。別にパスワードをかけて自分だけで閲覧する必要もないし、他者に見せられない話でもない。

また、成人した後の自分の子供たち、もしくは顔を見ることができるかどうか分からない孫たちに自分の経験や思考を紹介することができればいいなと思う。

自分の祖父や曾祖父が若い頃にどのようなことを考えていたのかなんて、孫としては細かく知るチャンスはほとんどない。そこに生きる上でのヒントがあったとしても、祖父の頭の中で火葬場に運ばれて灰になるだけだ。

しかし、写真のないテキスト情報であったとしても、ネット上に遺しておけば、いつか自分の子孫が読むかもしれない。そうか、あの爺さんと婆さんは仲が悪かったのかと、暇つぶし程度には面白いことだろう。

併せて、ネット上に情報が氾濫している世の中で、自分を知ってくれている数少ない人たちに存在を伝えるという意図がある。その取り組みに何の意味があるのかというと分からないし、ただの自己満足に過ぎない。もしくは、ネットによって便利になった世の中においても人間は孤独なんだと実感するループに入っているだけなのかもしれないな。

熟女のヌード写真集と同じく、自分がオッサンになったからこそ分かるのだが、プロフィールに年齢層を記入していなくても、オッサンが続けているブログやSNSを見分けることができるようになった。

歳を重ねれば承認欲求や自己愛が減るのかというと、むしろ逆なのかもしれない。

「自分はこんなに素敵なことを経験した!」とか、「自分はこんなに頑張った!」とか、まあそういったことを必死にアピールしているオッサンたちがネット上に溢れている。その多くが他者から無視に近い扱いを受けている。

リアルな場面、とりわけ職場においてはそれでも若い人たちがレスポンスを返してくれるのかもしれないが、それは立場として応じているだけの話だ。定年退職すれば存在さえ失う。それがオッサンの悲哀ではないか。

私なりには、自分と同じような境遇あるいは価値観を持っているオッサンたちがどのように生き、そして朽ちたのかを知りたい。

そのようなオッサンたちが遺したコンテンツが、このネット上のどこかを漂っているはずだ。しかし、昨今のGoogleのアルゴリズムでは情報にヒットしなくなってきた。

半ば落胆を覚えていたのだが、小径車の自転車でサイクリングを楽しんでいるオッサンたちのブログにおいて、自転車ネタに混じってライフログが紹介されていることに気付いた。

残念ながら、それらのブログはすでに更新が止まり、現時点で彼らがどのような生き方を続けているかを知る術はない。歳を取ると我慢することが難しくなったりもするので、ブログを続けることが苦しくなって放置してしまうということもあるのだろう。

だが、更新が止まっていたとしても、そのようなエピソードはとても面白い。

近況なんてSNSで検索すれば手っ取り早く手に入るじゃないかという指摘はごもっともだが、それらの短文ではなくて、もっと深みのある内容がいい。

オッサンたちは自分のペルソナを使って長年を生き、ペルソナと内面との区別さえ難しくなってきていると思う。その中でポロッと内面が顕れたりすると、「ああそうか、やはり同じ感じなのだな」と私は安堵する。

しかし、オッサンたちにとっては内面を吐露することが恥だと見なしている部分があったりもするわけだ。

そして、内面を誰にも紹介することがないまま、老い、朽ちることだってある。それがオッサンの生き方だと言われても仕方がないな。妙に納得した。