繽紛たる悩みの中で心を練る
朝に目覚める直前、私は短い夢を見ていた。とても若い自分の目の前に立っていたのは、中学時代の同級生の女性だった。そのような夢の背景にどのような潜在意識があったのかは分からない。夢から覚めた後、もはや自分には職場に向かうモチベーションさえ枯渇していることに気付いた。仕事を休んで禅を組み、自分がどのような状況なのかを頭の中で整理することにした。
バーンアウトによる精神の井戸に落ちたという過去の経験は、私にとって良かったと思える事象ではない。無様にもがき苦しみながら井戸から這い出て、今でも地面を歩き続けている。飛び跳ねることはない。
しかしながら、実際に井戸に落ちたからこそ、深く沈んだ際のコントロールの方法を知ることができた。
そこは底なし沼でも落とし穴でもなく、過剰なストレスを受けた脳において生じる物質的な現象に他ならない。その精神の井戸と表現しうる真っ暗な淵には、神経伝達という細かなレベルというよりも、脳の部位における細胞レベルでの不調、とりわけ液性因子が関与しているように思える。
そのような液性因子は脳細胞において産生される蛋白質であり、その発現パターンが壊れることはあっても元に戻すことは難しい。そのため、多くの人たちが投薬を受けても井戸から抜け出せずにいる。
脳細胞の働きが壊れると回復までに時間と苦しみが続くので、壊れる前に休む必要がある。
しかし、その見極めが難しい。足が痛いなら歩かなければいい。熱や咳が出るのなら布団に入って眠ればいい。
だが、脳が疲れていても仕事や家庭をこなすことはできる。脳を取り巻く硬膜や動脈は痛みを感じるが、脳自体には痛覚は存在しない。ストレスを受けたからといって脳が痛いと感じるわけでもない。
めまいや不眠、気分の沈みなど、自覚しうる症状に気付いたとしても何とかなると無理を続けているうちに、リミットを超過して脳が不調をきたし、平凡な日常が遠い存在になる。
その様子が、まるで落とし穴やトンネル、底なし沼、あるいは井戸の中に自らの精神が落ちたように感じるわけだ。
それでは、精神が疲れたと思った時には何をすればいいのか。運動や趣味で発散というスタイルは正しい。酒を飲んだり美味いものを味わってリフレッシュするスタイルも正しい。
しかし、頭に覆い被さるような負の思考のループを断ち切れない場合にはどうすればいいのか。それが分かれば苦労はない。
少し前までは、酒を飲んで酔っ払って眠るというスタイルだったのだが、酒を飲むと体調が崩れるので飲めなくなった。
そこで、無駄な足掻きをせずに、じっと座って自らの心を練ることにした。
仕事のスケジュールはとても混み合っている。休んでいる余裕はない。中学受験が近づいてきた年末年始という家庭の状況も慌ただしい。
しかし、細かなストレスや焦りが頭の中で渦を巻き、自分の頭の中でループしている。
このような時は、とにかく座り、自分がどのようなことに悩んでいるのかについて、思考や感情を整理する必要がある。
その過程で必ずしも解決に至らなくても構わない。浮かび上がってきた思考や感情を受け流し、ひたすら座ることに集中する。
「ああ、大変だ」とか「ああ、面倒だ」といったことは、真正面から受け止めて実際に取りかかってみると、大したことがなかったりする。
しかし、それらの負の感情が頭の中で何倍にも大きくなって複雑に絡み合い、さらに自分を苦しめるように感じることはないだろうか。
そのような時に焦っても仕方がない。とにかく落ち着いて自分の内面と向き合うことが大切だな。
自分の内面と向き合うためには静かな環境が必要だ。
義母と同じで妻は落ち着きがなくて喧しい。甲高い大声を部屋中に響かせたり、ドアや引き出しを叩き付けるような癖がある。
子育てに入る前までは静かな人だったのだが、現在では眠っている間以外は騒音を発している。
加えて、夫婦共働きのまま中学受験に入る家庭において、私の休日は正しい意味での休みの日には該当しない。
平日は仕事で疲れ、休日は家庭で疲れる。本当に休みたい時には、「平日に仕事を休む」ことしか手立てがない。
かつ、これはベテランの職業人になってから気付いたことだが、体調を完全に崩して仕事を休む前に、少し疲れたという程度で休んだ方が回復が早い。有給休暇は山のように残っている。せっかくだから休もう。
妻が出勤した後なので、家の中はとても静かだ。
中学受験を控えた上の子供は朝が来ても子供部屋にいる。もはや小学校は頼りにならず、通う意義さえないような機関になっているのだろう。平気で遅刻したり、丸一日休んでしまう。
学校を休むのは構わないが、その時間で遊んでいたら意味がない。
ゴミ出しのついでにコンビニで朝食とコーヒーを買ってきた私は、自室に入ってカーテンを開け、窓から入る日差しを眺めた。
久しぶりの有休ということで、少し朝食を買いすぎたらしい。減量中の自分の胃はあまり多くの食物を受け付けない。途中から満腹になってしまったが、とりあえず食べておく。
その後、数時間にわたって座ったまま、文字通りに地に足を付けて心を練ることにした。
自分から自我が離れているように感じる離人症の症状は相変わらずなので、自分がどうして疲れているのかを分析することは難しくない。まるで自分から幽体離脱したような状態のまま自分を眺めることができる。
しかし、その状態が快適なのかというと、快適ではない。自我が自分と一体になっていることで自らのモチベーションが高まるのだが、その一体感が損なわれてしまうからだ。
何のためのモチベーションなのかというと、生きることのモチベーション。
自我が離れているように感じている時、本体である自分はアバターのように感じる。その時の自我は本体から外れてどこかにいる感じがある。幽体離脱したように上から見ている時もあれば、背中の辺りにくっついている時もある。
超自然的な現象のように感じはするが、なんてことはない。脳内での自分の認識がピンぼけしているだけの話だろう。
ある程度はアバターが自動で動くような感じがあるのだが、言葉を発する時や身動きする時に微妙な違和感やタイミングのずれがある。この気持ち悪さは表現しがたい。
当然だが、自我は本体の脳の中にいるわけで、心霊現象でもオカルトでもない。あくまで生理学的な現象であることに他ならない。
最初に離人感が生じ始めたのは、2015年の終わりから2018年にかけてバーンアウトによって感情を失い、そこから回復し始めた2019年頃だったと思う。
当時、なんだこれはと面白く感じたが、その後でコロナ禍がやってきて、離人感をコントロールする心の余裕もなく、大勢の人たちとともに社会の混乱に飲み込まれた。
普段から忙しい仕事がさらに忙しくなり、自分の仕事への矜持も以前より異なる形になった。それまでは中二病的な価値観が背景にあったけれど、自分が守ろうとしていた社会や人々の本質はこの程度のなのかと現実を受け止めることができた。
自分から自我が離れて、本体がアバターのように感じるという離人症は解離性障害のひとつとして分類されており、子供の頃に受けた親からの暴力や社会からのプレッシャーといった様々な記憶が脳に刻まれた状態のまま、過度のストレスを受けることで生じるらしい。
過度のストレスは何かというと、バーンアウトを起こすくらいの状況だったわけだから、それを記すまでもない。住みたくない街でストレスを受け、義実家との軋轢、長時間の電車通勤、そして夫婦関係。
その多くが仕事ではなくてプライベートな空間で生じたストレスだった。感情を失うくらいの重症だった当時と比べると、現在は楽な方だ。
じっと座って自分の内面と向かい合ってみる。
現在の状況としては、仕事については予定通りに進捗している。バーンアウトの際には使うことができなかった過集中も戻ってきた。
しかし、家庭、とりわけ妻や義実家との間でトラブルがあると、仕事において過集中を使うことができなくなるので注意する必要がある。
また、疲れの原因は複数ある。それぞれはとても単純なことだ。
疲れのひとつは、通勤時の電車や駅が混み合ってきたこと。
オリエンタルランドがディズニーの入場者数を大幅に増やしたのだろう。キャリーバッグを引きずった人たちが電車や駅、さらには新浦安の街中にまで押し寄せてきた。
コロナ禍の前はそれが日常的な光景だったが、当時からその状況にうんざりしていた。
特に、派手なビニール製バッグを手にして、頭にネズミの耳をつけたまま街中を歩く群衆を見かけると激しいめまいがする。
テーマパークの格好のまま公の場に出るなんて思考がおかしい。いかに教養と常識がないのかと嘆かわしく感じる。
そのような人たちが出歩いている街で私は生活している。恥も知らずにネズミの耳をつけて街中を歩いている人たちは、自分たちが住んでいる街で同じことをすればいい。明らかにおかしな姿だ。
商業エリアと住宅エリアが混在することは珍しくないが、テーマパークと住宅エリアを混ぜてしまったこと。それが新浦安の都市設計における失敗だと私は考えている。
加えて、コロナ禍の社会の雰囲気に耐えられず、酔っ払って電車に乗る中年男性たち。この人たちによるストレスが地味に蓄積する。
通勤時のストレスを感じているのは私だけではなくて、多くの千葉都民が感じているのだろう。電車や駅で人々の不満が身体から染み出しているように感じる。
疲れのひとつは、中学受験が近づいて妻の思考が混乱していること。
元々、妻の精神はあまり太くない。
自己肯定が非常に強くて全く折れない部分は確かにあるのだが、自分で感情を抑えきれなくなると癇癪を起こして家族にぶつけたり、すぐに動揺してスマホゾンビ状態でネットの不確かな情報を検索し続けたり、義母を頼ったりする。
私はすでに愛想が尽きているが、子供たちが成人するまでは婚姻関係を維持すると妻に伝えている。その後はどうなのか分からない。あまりに酷いようならば別居や卒婚を考えるしかあるまい。
疲れのひとつは、家庭を維持することの楽しさを感じられなくなっていること。
離人感とは自分から自我が解離するような感覚だが、それとは別に家庭という場から自分が解離しているように感じることがある。なんだろうな、この感覚は。何と表現すればいいのか分からない。
義実家のスタイルが色濃く残ったまま、妻が牛耳ってしまっている現在の家庭の姿は、私が想像していた家庭像とは大きく異なる形になってしまっている。
望むことと生きることは違うので、そんなことを悩んでいても仕方がない話だ。しかし、往復3時間以上もかけて自宅と職場を往復し、家に着いたら食事をとって眠るだけ。
電話で会話するよりも短い会話を家族と交わし、再び往復3時間の通勤地獄。
このような苦しみに耐え続けて、一体、私は何をやっているのかと素になってしまったのかもしれない。家族がより快適に生活することができればと思って浦安に引っ越したわけだが、その生活は私の苦しみとトレードオフの関係にあった。
しかし、家族が私の苦しみを理解しているとは思えない。そのような家族のために身を粉にして生きることで、何か幸福が訪れるのか。いや、訪れないことが分かってしまったのだな。
疲れのひとつは、生きていることの楽しみが見当たらないこと。
この疲れは断酒して減量に入ってからさらに大きくなった。
酒を飲みながら食事を味わったり、映画やアニメを見るというストレスの解消は、それなりに楽しかったのだな。
今となっては飲酒後の下痢や倦怠感があまりに辛いので、炭酸水を飲みながら食事したり、コーヒーや紅茶を片手に動画を視聴したりもするのだが、どうもしっくりこない。
その他の趣味といっても思い浮かばないし、これまでの人生で手を付けた後で手を離したのだから、おそらく楽しくなかったのだろう。
自転車という趣味に飽きたわけではないのだが、現在のシクロクロスバイクやスピンバイクは趣味品というよりも心身を維持するための健康器具になってしまっている。
健康器具に愛着を持つ人は少ないことだろう。ブロンプトンを手に入れてポタリングを楽しもうかと思っていた気持ちを自分で制限してしまったことは他者から見ると実にくだらないことだが、自分にとってはそれなりに影響があったのだろうか。
たとえ些細なことであったとしても、楽しいと感じられることがあれば、生きることが楽しくなる。それが見当たらないと虚無感がやってきて、残りのモチベーションまで削れてしまう。イマココという段階なのか。
なるほど、通勤の苦しみ、夫婦間の緊張感、家庭の失望感、生きることの虚無感という四者が繋がりながらループし、疲れが増大しているというわけだ。
かといって焦る必要はない。
通勤の苦しみは、子供たちが私立中学に入学して浦安から脱出すればなくなる。その時まで義実家がアポ無しで突撃してきたら、私は抑えることなく義実家に抗議する。
また、我が強くて癇癪持ちの妻との関係は、子供たちが成人した後で再考すればいい。離婚寸前の状態まで対立した際、私は下の子供のために家庭に留まった。
そして、想像していた家庭像とは異なる人生になってしまったことへの虚無感については、考えても仕方がない。
妻の本質的な性格や義実家との共依存に気付かずに先に進んでしまったのだから、その選択は過去の自分の判断によるものだ。
子育てに入って妻は大きく変わった。変わることで得られたことは何なのかは分からない。しかし、自分の心の中で失ったことはたくさんある。それらを含めて夫婦なのだと言われれば、確かにその通りかもしれないが。
最後に、自転車という趣味が健康維持のための手段になってしまい、他の楽しみが見つからないという虚無感については、考えたところで意味はないはずだ。
楽しみが本当に存在していないのか、楽しみを見つける気持ちになっていないのか、その見極めが大切だな。
中年親父たちにとって、人生に破綻を来しうる楽しみであれば心当たりがある。臆さずに言えば不倫やパパ活の類だな。
レスが続く夫婦の場合、男たちには鎖に繋がれたようにストイックな生活が続く。そのような鎖を引きちぎって楽園を拝みに行く人たちは凄いなと思う。小学生並みの感想だが。
パパ活の場合には刹那的な印象があるのだが、お互いに割り切った熟年の不倫関係なんて、あまりに深淵で想像を絶するところで展開されている気がしてならない。
だが、それらは民法において禁じられている内容だ。融通の利かない頭を持っている私には、どうしても法を破るということに抵抗がある。
もっと健全な範囲での楽しみと言えば、やはり自転車という趣味の中か。
やはり、先日、ブロンプトンを手に入れれば何かが変わるのではないかと期待した私の思いつきは、あながち無鉄砲なアイデアではないのかもしれないな。
もしくは、谷津道を探しにサイクリングに出かけて、新しいルートに出会うだけでも気分が上向くかもしれない。
そうか、生きること自体へのモチベーションが低下してしまっていて、楽しみを見つけようという気持ちさえ萎えてしまっているということだな。
繰り返しとなるが、自転車以外の趣味がないのであれば、楽しさのヒントは自転車というエリアの中にあるはずだ。
たとえそれが金の無駄遣いになったとしても、何かを試して楽しければそれでいいという体で生きてみようか。
気が付くと昼飯時が過ぎてしまっていた。減量による空腹感に慣れすぎたので、昼食を取らずに昼寝をすることにした。
目覚めた後、自分の身体が軽く感じた。負の思考のループがどこかで切れたらしい。
しばらくすると、子供たちが家に帰ってきた。
しかし、夜19時になっても20時になっても妻が帰宅しない。子供の話では、妻が帰宅するのは20時過ぎで、夕食は21時頃なのだそうだ。小学生にとってはリズムが遅すぎる。
相変わらず妻はサービス残業を続けているらしい。短時間の通勤で済むように浦安に住んでいるのに、その分を残業に当ててしまったら家庭に負荷がかかる。たぶん本人は何も考えていないのだろう。
20時を過ぎて、ようやく妻が帰宅した。サービス残業が私に見つかってしまい、バツの悪そうな顔をしている。
色々と悩んでみたけれど、中学受験が一段落するまでは落ち着かないな、これは。