2021/12/18

中学受験という戦に突撃する時の虚無感

子供が中学入試を受験する夫婦共働きの家庭において、休日は休日に該当しない。仕事や学校を休む日を休日と呼んだとしても、本当に休むことができるはずがないからだ。今回の上の子供の中学受験は、私の意見を挟むことなく全て妻が仕切って進められている。

その分の家事が溜まるので、私の休日の多くは家事に費やされる。妻としては頼りにならない夫のような考えがあるかもしれないが、労働時間と収入を維持しながら、往復3時間以上の通勤を抱えた状態で子供の中学入試まで面倒を見るなんて、現実的に考えて不可能な話だ。


それでも、世帯によっては妻が子供の中学受験を担当し、夫に準備状況や成績、志望校の選定などについて相談することがあるのだろう。

我が家にはそのような妻から夫への相談や情報共有がない。ほぼ全て妻の独断だ。「ほぼ」という表現については、間違いなく妻の実家がとやかく言っていると私は考えている。

子供が模擬試験においてどのような点数を取ったのか、あるいはどのような中学校を志望校にしているのかさえ詳しく伝えられていない。

このような夫婦関係において、私が子供の中学入試について関心を持つとは思えないし、失敗すれば妻の責任だと私は考えている。

紛う方なく、中学入試は勝敗が決する「戦」に該当する。

戦と呼ぶと古風であったり好戦的に感じるが、知性だけでなく努力、さらには運までが左右するコンペティションであり、その結果が人生の軌跡を大きく変える。

受験が間近になってきた時期においては、可能な限り親が家庭にいて子供に寄り添う必要がある。私がその役目を担うことはできない。仕事が立ち行かなくなれば、私立中学だなんだと言える金がなくなる。

しかし、相変わらずベクトルがずれていると私は思うのだが、妻は中学入試が近づいてきても残業を減らさない。仕事の残りをサービス残業で片付けてから帰宅しているようだ。

他方、上の子供が中学受験のプレッシャーを感じて学習に専念しているかというと、実際のところ、あまり集中することができていない。自分自身をコントロールすることができないタイプだ。

私はまともな進学塾もない地方の田舎の公立中学の出身だが、そこから進学系の高校にトップの成績で入学し、国立大学に現役で合格し、大学院に進み、就職についても全てパスしてきた。

現在の我が家の状況は、準備が出来ていないところで戦に出陣するようなイメージがあり、もはや賭け事に近いかもしれない。

中学受験をテーマにした某漫画において、そのように自分の経験や憶測から物を言う父親は、中学受験の現実を理解していないといった形で批判されている。余計な世話だ。

妻は某漫画を熟読しているが、私は途中から読まなくなった。中学受験は、本当に子供たちの学力や適性を評価していると言えるのか。大人たちの商売の道具になってはいないか。

確かに、試験という存在は戦でありゲームだ。出題する側の傾向を分析し、自分に要求されている部分と足りない部分を補強し、プラスアルファで想定外の事態についても考えておく。

大人たちが敷いたレールの上を走ろうと、自分で対応して臨もうと、結局は受験する本人がどれだけ努力して志望校の入試問題のパターンを頭に記憶させるかによって勝負が決まる。

地方でも都市部であれば情報が手に入るが、私が育った田舎の場合には参考書ひとつで都会の同世代と勝負する必要があった。明らかに不利な状況だった。

首都圏の大学に入学した際には、周りの同世代がどれだけ恵まれた環境で受験に挑んでいたのかを知った。学校以外の受験産業によって下駄を履いて入学してきた人たちがたくさんいた。

中学受験の場合には、そのさもしさが露骨に現れている。受験に必要な情報を営利企業の大人たちが商品として親たちに「販売」し、それらを親が「購入」して我が子に与えるという図式がまかり通っている。

子供たちの人生に受験産業の大人が介入し、親が必死になり、しかも世帯の経済状況によって子供の学習の環境が違うという不条理が生まれる現実は、今に始まったことではない。

私の実家は大きな借金を抱えていたので、受験塾に通うことも私立大学の滑り止めを受験することさえできなかった。そして、せめて自分の子供たちにはそのような不利な状況を経験させたくないと考え、ここまでやってきた。

しかしながら、その状態を得ることができた父親としての私の目の前にあったのは、有利な状況が普通だと感じ、感謝もしない妻や子供たちの姿だった。

妻本人は受験に強くない。難関を突破したという経験がないのだから、未知のゾーンへの挑戦かもしれないし、想像しうる範囲は自身が基準となる。

妻は塾の講師や漫画やネットからの情報に思考を左右されている。しかし、夫が受験において無双だったということを認めない。家庭におけるマウンティングで優位になることにこだわっているのか何なのか分からない。

受験を戦に例えると、明確な戦略を立てた後、結局は勝負に挑む子供のコントロールが必要になる。

ある程度は子供の自主性に任せてもいいと思うのだが、上の子供は自分自身の衝動性や多動性を制御することができないタイプだ。

模擬試験は、自分に足りない部分を見つけるためのスクリーニングなのだが、本人は良い点数を取ったことばかりアピールする。妻が激しく怒るので悪かった点については話そうとしない。

これではスクリーニングの意味がない。

妻は試験の結果によって子供がサボっていることに気付いて怒るわけだが、結果を見なくても普段の生活を眺めていればサボっていることが私には分かる。

もっと丁寧に子供と接する必要があるのだが、妻は受験に限らず面倒なことを嫌う。

子育てに口を出すと妻がとやかく言ってくるので面倒だが、子供がサボることができないシステムを用意する必要があった。

「文句があるなら、あんたがやりなさいよ!」と妻が私に対して切れたりもするのだが、中学受験を希望しているのは妻だ。責任の放棄において論理性がない。

この調子であれば、私立に行っても公立に行っても日東駒専レベルに着地することだろう。

国立大に行かせたいのであれば、その山に登ったことがある私の意見を聞くべきだ。

併せて、経済的にも環境的にも有利な環境であるにも関わらず、集中して勉強しない上の子供については、どうしてこのような状態になったのか父親として分からない部分が多い。

生来の性質かもしれないし、子育てについて主導権を握って夫を無視する妻の躾の結果かもしれないし、私自身の至らなさによるものかもしれない。おそらく全てが関係するのだろう。

中学受験について、現段階まで私は妻や上の子供の自主性に任せてきた。この期間において私が実感したことがある。

妻も上の子供も家の中の整理が苦手で、すぐに服やバッグや靴を散らかす。使った後の調味料や洗剤などのフタが開いたままだったり、使い切った消耗品を補充せずにそのまま放置したりもする。

この人たちは、そのような外的な行動だけでなく、頭の中の情報の整理についても苦手なんだな。

二人とも癇癪持ちなのだが、どうして癇癪を起こすのかも分かった。事象と感情を頭の中で整理することができず、そのままの状態で噴火させて外に出てしまうというわけか。

中学受験については、すでに時間切れだ。これから私が何を言っても変わらないし、最初からそのつもりだ。

明確な戦略に基づいて準備を重ねて戦に出るというスタイルが私のやり方なので、正直なところ妻や上の子供のスタイルがどのような結末を迎えるのか想像がつかない。

この人たちのスタイルには不確定要素が多分に含まれており、弱点のフォローが間に合っていないまま突撃しているように感じる。

長所が十分に活かされる内容であれば合格ラインに届くかもしれないが、補強できていない箇所を突かれたら確実に負ける。

模擬試験のたびに、妻や子供が私にデータシートを見せてくれれば、ある程度の分析が可能だったかもしれない。しかし、受験における主導権にこだわる妻は私にデータを開示しない。そのような状態で私の知恵や経験を使うことができるはずがない。

義母も同じような感じだが、偏ったフェミニズムというか女尊男卑というか、根本的な思想に何かがあるようだ。

では、私自身にとって上の子供の中学受験はどのような存在なのかというと、結局のところは大学受験の前哨戦だと考えている。

中学受験で希望の学校に入学できなかったからといって、大学受験で何とかすればいいという負け惜しみではなくて、受験という競争の厳しさを子供が理解するためには有用なステージだと私は思う。

また、家庭での主導権を握りたがる妻においては、自分の責任を自分で感じ取る必要がある。受験について夫と情報を共有せず、その一方で実家とは密に情報を共有しているような状態は、ひとつの家庭として歪な姿だと私は感じざるをえない。

この人たちは自己肯定がとても強いので、自分たちの非を決して認めないことだろう。受験に失敗すれば私の協力や努力が足りなかったと文句を言うに違いない。

だが、戦力に偏りがあるような状態で出陣すれば苦戦がやってきてもおかしくはない。

むしろ、ここで挫折した方が、大学受験に挑む上で認識を固めることができる...のだろうか。たぶん妻も上の子供も自戒せず、その調子のまま大学受験に突撃するような気がしてならない。

中学受験の場合には、そこから分岐する選択肢が用意されているが、大学受験の場合にはその後の職業人生を決定付けてしまう。

そこで資格やレッテルが固まると、どれだけ頑張っても取り返すことが出来ない現実がある。

その厳しさを、妻や上の子供が理解しているとは思えない。この人たちは自分たちの努力以上に恵まれた環境にいるからだ。

望むことと生きることは違う。それは分かっているのだが、自己肯定や自己愛を前面に出しながら突撃していく人たちを諭すことは難しい。

そして、私には歩くATMとしての役割がまわってくるということか。何とも虚しい生き方だ。

職業人生は大学受験において大勢が決まる。私生活は結婚において大勢が決まる。

論理が通用する前者は得意だったが、論理が通用しない後者は不得意だな、私は。