2019/11/19

過集中とオーバードライブ

いつも暗く沈んだエントリーを重ねている私だが、特に病んで休職しているわけでもなく、共働き子育てと長時間の電車通勤で四苦八苦しながらだが残業込みで働いている。


妻が感謝しているのかどうか分からないが、すでに男の目標の一つであるかもしれない何とか万円プレーヤーになって時が経った。父親同士でよくある学歴や職歴のマウンティングでも負ける気がしない。

妻が満足しているかどうか分からないし、多少ハゲてはいるが、かつて独身女性が重視した、というか現在でも何だかんだ言って婚活のプロフィールで必ずチェックするであろう3高の条件も満たしていたりする。しかし、どうしてこうも生き辛いのだろうな。

都内から浦安に引っ越したことが、私の人生で最も大きな失敗だった。義実家との関係に苦悩し、長時間の通勤で苦痛を感じ、仕事をセーブし、さらには慌ただしい街でストレスを受ける。

夜に電車に乗り込んでくるハイテンションのディズニー客。朝は朝で新浦安駅で通行を妨げる修学旅行生。

日の出地区の近くの私立大学。大学側が地域に貢献していても学生たちの態度は感心できない。世の中にはルールがある。

そして、私も含めて自我が強くてせっかちな市民性。全てではないけれど。

ストレスフルな浦安ライフが10年も続いている。地獄のような苦しみを10年も。こんな状態で仕事に励むのは無理だ。将来は、子育てをサポートしてくれない市内在住の義父母の介護。自分なりに努力を重ねて生きてきた。どうしてこのような目に遭うのだ。

浦安に住むことの意味の一つだった私が立ち上げたロードバイクサークルは、多くの社会人スポーツサークルの例に違わず開店休業状態になりつつある。もはや未練はない。メンバーが必要としないのなら潰すまでだ。

あとは子供たちがこのまま公立小学校をパスして都内の私立中学校に入学すれば、晴れてこの街から離れることができる。

妻としてもようやく夫の地獄に気づいたのか、義実家と私との一触即発な状態を懸念したのか、あと5年で都内に引っ越すことに同意している。

浦安に引っ越したら液状化だ通勤地獄だと大変な目に遭った。暴風雨で京葉線が止まり、ずぶ濡れで歩いて帰宅したこともあった。感じ方は人それぞれだ。私にはこの街が合っていない。それだけのこと。

ということで夫婦仲は浦安脱出を見据えて小康状態。

金曜日の夜は家族のことを気にせずに仕事に没頭することにしている。土曜日に大量の家事が待っているが、こんな状態で仕事が進むはずがないのでまとめてこなす。妻にもその旨を理解してもらっている。

夜遅くまで仕事を続け、駆け足で職場を後にして駅まで急ぐ。終電に間に合った。車内は酒気帯びの乗客たちの臭いが渦巻いている。目の前には酒が入って脚を伸ばしたまま座ってスマホをいじる大学生らしき若い男性。

いつもの通勤地獄だが、仕事をやり切った時には爽快感がある。切羽詰まった状況で要請を受けて登場し、自らの力で誰かを助ける感じがヒーロー風で気に入っている。

私は子供の頃から変わっていたためか、両親から虐待に近い扱いを受けた。公立小学校では同級生からイジメを受けて孤立し、教師たちもPTAも助けてくれなかった。

その後も相変わらずの変わった人として扱われ、自分の存在を希薄に感じながら生きてきた。別に私がいなくてもこの世界は何ら変わらない。だったら生きている必要があるのかと。

何とかして存在を残そうとするのは、そのリアリティのなさの裏返しなのかもしれない。しかし、それが仕事であっても、たとえ微力であったとしても、他者から必要とされて役目を託されると、生きる気力が湧く。そこに私が存在する場が生まれる。

とはいえ、リアルな世界は漫画やアニメのように甘くはない。他者から信じてもらうことの重圧がやってくる。時に胃からせり上がってくるようなプレッシャーに耐え、耳鳴りがするくらいまで精神を研ぎ澄ます。

色々と勉強しても、往々にしてその場の状況判断で対応を変えざるをえない。失敗すると助かるはずの人が助からなくなる。二重三重のセーフティを構えてはいるが、もはや後がない。

無事に仕事が終わって誰かを助けた時の感動は何事にも代え難い。私自身が生きていることを実感する。

努力しても助けられなかった時には落ち込む。落ち込んで、悔やんで、不条理に対して憤って、次に向けて学ぶべきところを学ぶ。

たまにそういったギリギリのラインでスリルを味わうために仕事をしているのではないかと感じることがある。それは間違った感性だ。

電車の中で日付が変わりかけている。そういえば昼から何も食べていなかったなと余裕をこいていたら、途中の駅で酔っ払いたちが車内に押し寄せてきた。

最悪だ。臭い。こっちはシラフどころか普段よりさらに感覚が鋭くなっている。目の前の派手な髪型の若い女性が吊革に掴まったまま眠っていて、揺れに合わせて私の目の前に女性の下半身が迫ってくる。あいにくの思秋期なので何も感じないし、これで喜ぶエロ親父ではない。

隣で座っている中年男性は私の肩に頭を乗せて沈んでいる。50代で肝機能が落ちていても部下からお酌されたら飲むしかないだろうが、突然嘔吐しそうだ。吐くなよ、頼むから吐くなよと思いながら、過疎化が進む彼の頭部から発せられる加齢臭で気分が悪くなる。

以前どこかで書いたことがあるが、数年前、激務に加えて共働きの子育てと長時間の電車通勤が祟ってバーンアウトしかけた。その時、私の大切な能力が上手く使えなくなった。

中二的に表現すると、ツインアームとして発動していた一方のスペックが封印されてしまい、もう一方のスペックを制御できなくなった。

持って生まれた特性がベースにある能力なので、言葉にこだわる人は「能力」ではなくて「才能」だと指摘するかもしれない。

この辺の定義が難しい。才能だけで物事を処理することは難しく、それを使いこなすためには大なり小なり努力して才能を磨く必要がある。するとその力は能力に該当するかもしれないし、持って生まれた特性が関与しない能力があるはずもない。

さらに、後天的に磨き続けることで身に付く力を技能と呼ぶそうだが、技能だって生まれ持った特性との相性があるだろう。

そういった言葉の使い方にこだわる自己啓発系のオピニオンリーダーもどきには往々にして人を導く力はない。講演を聴いて「なるほど!」と感じても、実際の生活では何の価値さえなかったりする。勉強になったと錯覚しているだけだ。

個人的に封印されてしまったスペックというのは、興味ある物事について深く集中する力。何かに集中すると周りの音が聞こえなくなり、その世界に没頭してしまう。発達障害の分野では「過集中」と呼ばれる性質なのだろう。

しかし、過集中は発達障害でなくギフテッドパーソンでも起こりうる。何かについて一気に集中力を高められる力は強ちデメリットだとは思わない。

「過集中が起こると一般的に社会生活が大変になる」と宣う人たちがたくさんいるが、それはどの社会について言っているのだろうか。

「一般的に」という職場はどのような職場のことなのか。大人になればある程度コントロールできるし、矯正する必要はあるのか。

声をかけても気づかないくらいに集中する。それが社会生活でデメリットになると言えるのかどうか。私の場合にも、この特性を生きる力として仕事で使っているわけだ。

全くもってデメリットだと思わないので、私はこの特性を「オーバードライブ」といういかにも中二的な言葉で表現している。

オーバードライブを発動すると、半日くらい休憩を取らなくてもそのまま仕事を続けることができたりする。夜を徹して作業していても眠くならないし、腹も空かない。あまり無理をすると体温が下がってくるので強制終了することはあるが、とても仕事が捗る。

これを受験勉強等において使用するとどうなるか。チートに該当するくらい長時間の学習を続けることができる。受けた入試を全て合格したり、大学院でトップクラスの成績を収めて飛び級した背景には、このような裏技があったりする。

ただし、私の場合には落ち着いた環境でないとオーバードライブの状態まで持ち込めない。

幸いにも職場のボスが私の性質を理解してくれていて、有り難いことにそのための環境まで用意されている。実に働きやすい。倍近い年収を提示されても転職しないのはそれが理由だったりもする。

しかし、共働きの子育て、さらに長時間の通勤があるとリラックスすることは難しい。せっかくオーバードライブを発動して仕事をしていても、途中で切り上げて家庭に戻らなくてはならない。しかも混み合ってストレスが溜まる電車通勤。

強烈に苛立ちながら浦安に戻ってきたら、慌ただしい街が私のストレスをさらに高めていく。家に帰ったら普通の父親にならなくてはならない。仕事と家庭のギャップがさらに私を追い込んでいった。

妻の実家が浦安だったという理由で浦安市民になり、通勤でも毎日の生活でも精神的な負荷が高まる。そして自分本位な義実家。我が人生、どうしてこうなったと。

数年前、それは突然やってきた。苦労しながらも仕事で発動していたオーバードライブがほとんど使えなくなった。おそらくストレスによるバーンアウトの兆候だ。

過度に集中しようとしても集中できない。武器としていた脳のスペックを使えない普通のオッサンになってしまった。その時のショックは大きかった。漫画や映画のヒーローでよくあるパターンだが、心の底から焦った。

このままでは手遅れになると思い、あまりにストレスが大きい電車通勤を止めて自転車に乗って職場まで通勤することにした。その間にも、この通勤や共働きのストレスが私にとって大きなダメージがあるということを何度も妻に説明した。

妻は感情的になって色々と主張してきたが、もはや別居か離婚かというくらいの危機だった。

四苦八苦しながら仕事を続け、妻や子供たちも落ち着いてきて、ようやくオーバードライブが戻ってきた。

以前のように自らの意志で気楽に過集中に入ることは難しいが、「よし、行くぞ」と頑張ると集中力を高めることができる。

もっとオーバードライブの深度を高めることと、スムーズに発動させることが今後の課題だな。おそらく浦安から都内に引っ越せばオーバードライブも回復することだろう。

感覚過敏と過集中が一つのシステムとして脳で実行されていると思っていたが、今回のエピソードに基づくと、どうやら両者が独立して機能しているようだ。何事も勉強だな。

では、このオーバードライブは遺伝するのかどうか。感覚過敏は私にとって重荷でしかないけれど、過集中は生きるための力だ。子供たちに伝わった方がいいかなとも思っていたら、とりわけ下の子供に伝わったようだ。ごく自然にオーバードライブを発動させている。これは面白い。

小学校の保護者面談で話をしたのだが、担任の先生は下の子供のオーバードライブに気付いていた。集中して学習してくれると誉めていた。私と違って我が子は良き教師に巡り会えたようだ。

この力を活かすためにはどうすればよいのか。他の特性を考えながら思案する毎日だ。

上の子供もある程度のオーバードライブを持っているが、むしろ観察力や洞察力が高い。私はこの能力を中二的にイーグルアイと表現している。これも私から子供に遺伝したのだろう。下の子供はあまりに個性が強すぎてイーグルアイがあるのかどうかも分からない。

上の子はまだイーグルアイを使いこなせず、度々混乱する。大量の情報が頭の中に押し寄せてくるだろうから。そして妻が怒る。いつか使いこなせるからと私は妻を説得する。

オーバードライブは私の実父から、イーグルアイは実母から受け継いだものだ。孫まで伝わるとは面白い。

バーンアウトしかけた頃の私は、オーバードライブが封印されてイーグルアイを制御できなくなっていた。脳に情報が流れ込んできて集中して処理できなかった。上の子供を育てる上でのヒントになることだろう。

世の中にはお子さんの過集中に悩んでいる親御さんがたくさんおられるだろうけれど、きっと生きる力になる。その力を活かす仕事もある。

風呂上りでパジャマも着ずに読書でオーバードライブ状態になったり、小学校に登校する前の朝食で虚空を見つめながらオーバードライブに入られると困る。育てていて疲れる。けれど、きっとこの力を使って職業人生を歩むことだろう。

一時的であってもその力を失って苦労した身としては、子供たちのスペックについて悩まずに伸ばして行きたいと思う。遅刻寸前で「コラー!間に合わないだろぉお!」「いちいち、ウルさいよ!」と子供たちを叱る毎日だけれど。