2021/12/17

胃を小さくすることで痩せるというイメージ

10月末から始めた断酒とスピンバイクによる減量は12月中に目標値に至った。さすがに途中で変化がなくなったので食事制限も追加した。2リットルのペットボトル数本分の重量が減り、ズボンやベルトが緩くなったが、飛び跳ねるくらいに軽くなったわけでもない。しかし、電車通勤でタヌキの置物のように太った同世代の中年男性たちを見かけると、不思議な優越感を覚える。

今回の年末年始は、いつになく楽しいことが見当たらない。家庭は完全に中学受験モードに突入し、休日の私は昼まで眠って疲れを癒やした後、山のように溜まった衣類やタオルを洗濯し、散らかり汚れた自宅の掃除しながら日暮れを迎える。サイクリングに出かけているような余裕さえない状況で自分の体重をいじって楽しむというのは、文字通りに禁欲的で自虐的な取り組みだな。


この2週間は、スピンバイクトレーニングのメニューや頻度を変えてみたり、食事の内容や摂取カロリーを変えてみて、自分の体重がどのように変化するのかを観察している。勢いをつけてさらに減量を続けるとリバウンドがやってくるかもしれないし、精神的な負荷も大きくなる。

血液の再検査の結果はとても分かりやすい形で正常値の範囲に収まった。早めに対応したことが良かったのかもしれないが、かといって安心するのも早い。

腎機能だけでなく、最も深刻な状態だった肝機能も所見を認めなかった。とはいえ、肝臓の周りには脂肪が張り付いているだろうから、あと半年くらいは断酒して血中の脂肪を処理する必要があるのだろう。

しかし、新浦安という私にとって最悪な住環境および長時間の電車通勤地獄によるストレスは変わらない。酒量が増えたのは妻の実家がある街に引っ張り込まれて苦しみ続けているからだ。断酒している現在はそれらのストレスがダイレクトに脳に蓄積する。

身体のダイエットに成功しても鬱病になったら話にならない。まあ、たまにはと、試しにバーボンウイスキーをストレートで飲んでみた。

翌朝に強烈な下痢がやってきた。

以前は酒を飲んで腹を壊したことがなかったのだが、今年に入って断酒するまで頻繁に腹を壊していた。なるほど、あの時の下痢は飲酒によるものだったということか。

それにしても不思議なことがある。

真面目にPubMedで英文の文献を検索してみれば分かることだが、ここまで科学が進歩した現代において、「酒を飲み過ぎると、どうして下痢になるのか?」という謎を体系的に調べた論文が見当たらない。

酒飲みであれば誰もが感じる謎であるはずなのだが、その謎を真面目に研究しようという医学者がいないということか。

実験としては簡単なことだと思う。

ディズニーがある街に住んでいる浦安市民として不謹慎だと言われるかもしれないが、ネズミにアルコールを飲ませて下痢をするような条件を決める。

もしくは、アルコールを飲ませると下痢をしやすいネズミを探して、近親交配を繰り返すことで系統をつくる。

そして、このようなネズミに希釈したエタノールを飲ませ、安楽殺した後で腸を取り出し、病理学的あるいは分子生物学的に解析すれば何かが分かるはずだ。

しかも、この研究には発展性がある。日本酒と焼酎とビールなど、酒の種類によって下痢の程度がどれくらい変わるのかとか、付け合わせの料理でどうなるのかなど。

しかし、それらの研究によって、「酒を飲むと下痢をする機序を解明した!」ということが分かったところで、人類にとって何の利益があるのかというと解釈が難しい。

動物実験というものは、それらをモデルとして生命機序を解明したり、人々の病気の仕組みや治療法を調べるといった意義の下で行われる。ネズミだからといって殺生はよくない。

酒を飲んで生じる下痢を抑制するための薬を開発したところで、それならば飲まなければいいだろという話になり、イグノーベル賞に向かって突き進んでしまう。

なるほど、世界中を探しても、酒飲みにとって重大な謎について調べようとする研究者がいないという話なのか。

だが、私個人のレベルで考えると笑い話ではないように思える。

以前は酒を飲んでも下痢にならなかったのだが、最近になって下痢が生じるようになった。この事象は血液検査の肝機能の数値が正常値になった後も生じている。

つまり、自分の身体の中でエタノールに対する反応が変わったということだ。おそらく、内臓のどこかの部位が弱っていることが考えられる。細胞が壊れているのか、酵素系の働きが減弱しているのか、もちろんだがその詳細は分からない。

ところで、世の中には様々な種類のダイエットの方法があり、それら全てが個々の人々にフィットするとは思えない。

食事を制限することで体重が減りやすい人がいれば、運動をすることで体重が減りやすい人もいる。食べても太らない人がいるし、あまり食べないのに太りやすい人もいる。

そして、中年になると太りやすくなるという話は本当で、おそらくエネルギーの代謝が落ちてくるからなのだろう。裏を返すと、若い頃と比べて運動によって代謝を上げるタイプの減量の効果が分かりやすくなった。

また、中年の母親世代がどうして太りやすくなるのかという理由についても、妻を観察することで分かった。料理や食材が残って、それを捨てるのがもったいないという理由で食べてしまうからではないか。

フードロスは良くないことだが、家庭という小さなスケールでは残った料理を捨てても、それを食べて大便として排出しても、大して意味は変わらないように思える。

料理をすべて食べることでカロリーを摂取し、それに見合った活動に繋げることができれば話は別だが、往々にしてカロリー過多になり、結果として太るわけだ。

加えて、そのカロリーを運動によって消費することができれば太らないが、忙しいとか暑いとか寒いとか、そのような理由をつけてカロリーを使わず、結果として冬眠する前の動物のように脂肪としてカロリーを蓄えてしまう。

他方、中年の父親世代の場合には、自宅に帰って食事をとればいいだけの話なのに、途中で酒を引っかけて何かを食べてしまうことがあるだろう。

そのまま自宅に帰って妻が用意した食事が残り、その料理を妻が食べ、結果として話が最初に戻り、互いの肥満を循環させるリングが構成されるということではないか。

私の場合には、妻がもったいない、もったいないと、残ったものを食べて太ってしまっても気にしない。

私には実感もないし思い入れもないが、妻にとっては中学受験という壁に挑戦している段階だ。今のうちに脂肪を蓄えておけばいい。

まあとにかく、減量の基本は難しいことではなくて、身体の中に入ってくるカロリーを減らして、消費するカロリーを増やすだけのことだ。

しかし、基本が簡単だからといって実行することは難しい。食べることを制限すると楽しみがなくなってしまうし、運動を継続することも難しい。

そういえば、独身時代の若い頃、自分がどれくらいまで痩せることができるのかという疑問が浮かんで、試しに限界まで痩せてみようとしたことがあった。

その時には運動ではなくて食事制限によって痩せることにしたのだが、あまりに痩せすぎてしまって実家の両親が心配し、「早く結婚しろ!」と奇妙なベクトルからプレッシャーがかかったことがあった。

あくまで私感だが、食事制限を始めた時期は辛く感じるが、空腹感に耐え続けていると途中から辛く感じなくなる。

その状態で何かを食べると、まるで自分の胃が小さくなったような感覚があり、少しの食べ物だけで満腹になる。

大学の体育会の部活では、新入部員を食べ放題のレストランに連れて行ったり、合宿でノルマを用意して、とにかくたくさん食べさせて、その後でスポーツに適した身体をつくるというメニューがある。

その場合には筋肉量を増やして太る方向なのだが、痩せる場合にはその反対のことをすればいい。

空腹時の胃のサイズはとても小さいわけで、食事制限を続けることで本当に胃のサイズが小さくなるのかは分からない。だが、実際に胃が小さくなった感じがあった。

そのような感覚は若い頃に限った話だと思っていたが、五十路が見えてきた現在でも感じうるのだな。そうか、1ヶ月くらいでこの感覚が生まれるわけか。

そういえば、世の中には断食道場のような活動があったりする。自分の意思だけで空腹に耐え続けることはとても辛いが、同じような境遇の人たちとシステムの中で空腹に耐え続ければ何とかなるという発想なのだろうか。

また、若い頃に極度の減量に挑戦した際にも気付いたのだが、身体の一部を観察することで体重計に乗らなくても自分の状態がある程度分かるようになってきた。

それは、手首の太さ。

厳しい体重制限が課される競馬の騎手は、腕時計と手首の隙間で自分の体重を推測するらしい。一般人でもそれは可能であり、むしろ分かりやすい指標だと思う。

しかしながら、いざ減量を始めて適正な体重になったところで、それによって何か幸せなことがあったのかというと、何もない。全くの自己満足だ。

20代の頃のようなスリムな身体を取り戻したと満足したところで、これから女性と知り合ってアピールする必要もなく、服を脱いだところで誰に見せるわけでもない。

食べたいものを食べず、好きな酒も飲まず、たくさんのことを我慢し、結果としてより長い期間にわたって寿命が維持される蓋然性が高くなったというだけの話。それはとても虚しいことかもしれない。

時間を戻すことは不可能なのだから、元気な時に暴飲暴食を楽しんで何が悪いという気持ちだって、何も間違ってはいない。

そう考えると、電車通勤の時に頻繁に見かけるタヌキの置物のような中年男性たちは、かなりの猛者なのかもしれない。

なぜなら、明らかにメタボな体型であるにも関わらず、減量するための逼迫した状況ではないという解釈になるからだ。

私の場合には、すでに検査結果として深刻な状態になっていた。このままでは内臓がボロボロになってしまうので、減量を含めて生活習慣を改善する必要性を自分で察した。

一方、タヌキの置物のような中年男性たちは医者から痩せなさいと言われているかもしれないが、その生活習慣を続けても何とかなるだろうと考えているはずなんだ。

彼らがメタボに耐えうる強靱な内臓を有しているとすれば、それはそれで凄い。

食べたいものを食べて、飲みたいものを飲んで、一時ではあっても充たされた気分になれば幸せなことだ。

他方、すでに内臓が限界に達していても、まあ何とかなるだろうと残りの人生を突き進むのであれば、それもそれで凄い。

太りすぎは生存期間と相関するという医学的なエビデンスがあるが、それはあくまで統計学的なものだ。太っていても長生きする人はいる。その可能性に賭けているとすれば大したものだ。

通勤電車で太りすぎた中年の同世代を見かけたら、敬意をもって眺めることにしよう。

彼らは勇者だ。