ブロンプトンを手に入れる寸前で踏み留まる
自分は何のためにこのような劣悪な住環境で生活しているのだろう。そうか、家族のためだった。私がこんなに苦しんでいても知らない顔をする家族のために。生きることが虚しくなったので、ブロンプトンを買うことにした。
生きることが虚しくなったことと、折り畳み式の小径自転車(ミニベロ)のブロンプトンを買うことには何の脈絡もないように思える。確かにその通りで、私にも意味が分からない。
しかし、この欲求はとても大きい。今すぐにでもブロンプトンが欲しい。仕事の最中にもブロンプトンのことが頭から離れない。
そして、疲れて自宅に帰り、相変わらず妻や子供たちの靴が散乱した玄関を整え、相変わらず父親に対して「おかえり」の挨拶すらしない上の子供の態度に苛つき、相変わらず中学受験に執心している妻の態度に苛つき、ひとりで黙々と酒抜きの夕食をとり、自室でネットを眺める。
ドアの向こうからは妻の甲高い大声。どうして棘のある物言いなのだろう。昔はこのような人ではなかったのに。
ああ、酒を飲みたい。この環境ではアルコールで脳に麻酔をかけたくなる。
耳栓を付けてネットで検索してみると、船橋のワイズロードにブロンプトンの在庫があった。しかも、レーシンググリーンというカラーのストレートハンドルの2021年モデルが売れ残っているらしい。
2022年モデルからは値上げして30万円程度の金額になるそうだ。意中のブロンプトンは22万円という値札が付いている。
値段よりもカラーリングが気に入った。ブロンプトンはフレームサイズも変速の仕様もあまりレパートリーがない。自分が気に入ったカラーの自転車に乗ることが最良のオプションだと思う。
自分が気に入ったカラーリングの型落モデルが売れ残っている。これは何かの縁を感じる。ブロンプトンは一生物という話だから、確率論的あるいは偶然の出会いは重要だな。
ということで、全てが前向きな思考のまま、明日の朝に目が覚めたら有給休暇を取得して船橋に行き、ブロンプトンを買って帰ろうと心に決めて布団に入った。
酒が入っていないので、思考がクリアなまま眠りに就かねばならないのだが、その生活にもようやく慣れてきた。何だろうな、植物も生えない砂漠の中を歩き続けて、ようやくオアシスを見つけたような心躍る感覚は。
方向性は違ったとしても、我慢できずにパパ活や不倫に走ってしまうお父さんたち、あるいは儲かる目処も立っていないのに40代や50代で脱サラして個人事業主になってしまうお父さんたち、さらにはメタボなのに食べ歩きが止まらないお父さんたちの心境に似た衝動かもしれない。
レールの上を歩き続けることに疲れてしまって、そのレールを自分から踏み外したくなるような感覚。この衝動は極めて強力だ。頭から離れないくらいに自分を追いかけてくる。
とはいえ、家庭の崩壊を招く不貞、あるいは経済的な困窮を招く脱サラ、血管系や内臓の疾患を招くメタボな食べ歩きに比べると、趣味の自転車を買うというだけの話なので健全と言えば健全だ。
しかし、本当に健全なのか。自転車の本体だけで30万円、オプションやカスタムを加えると40万円近くの出費になる。40万円の衝動買いは健全とは言えない。
子供の中学受験ではさらに多くの金がかかり、私立中学に通うとそのペースが毎年続く。子供に投資することで孫にまで良い影響が及べばいいと願っているが、そのような明るい未来像が実現するのだろうか。
だが、私は父親として生きているので、子供たちのために金を稼ぐ必要がある。金を稼ぐためには働く必要がある。働くためには自分の心身を維持する必要がある。
ブロンプトンはタフで壊れないので10年以上の長きにわたって使う人はたくさんいる。これだけコスパが良い自転車を買ってサイクリングを楽しみ、心身の健康を維持することができれば安い買い物だ。心身を壊して倒れてから、あるいは年老いてから目の前に40万円があったとしても元には戻らない。
新浦安という気に入らない街で生活し、長時間の電車通勤や近くに住む義実家によるストレスで酒量が増え、精神どころか肉体にまで影響が出た。妻の実家の近くになんて住むべきではなかった。確実に私の寿命が縮んでいる。
それにしても、仕事はそれなりに働き甲斐があって楽しいが、プライベートは散々だな。苦しいことはたくさんあるが、楽しいことがほとんどない。
私はグルメには興味がないし、食べたいものがあれば妻が用意しなくても自分で買ってきて自分で食べる。
酒が好きというよりも、辛い現実をアルコールで緩和させているという感があり、酔うことができれば何でもよかった。
ところが、どうやら浦安住まいのストレスで飲み過ぎたらしい。人間ドックの結果を見る限り、断酒をしないと定年前に死んでしまうことだろう。
妻は子供の中学受験のことで頭が一杯だ。私の身体が不調になっていることにも関心がない。加えて、ずいぶん前からレス状態。戸籍上は妻という同居人のようになっている。
オンラインを含めてゲームの類には興味がなくなってしまった。漫画も読み飽きた。そもそも、長時間労働で忙しい上に通勤で往復3時間も消費されるので、フリーな時間が少ない。
他に娯楽と言えば、寝る前にアマゾンプライムで視聴するアニメや映画くらいか。
谷津道のサイクリングは、楽しみというよりもバーンアウト後の後遺症の自己治療、および精神や肉体のメンテナンスという意義が大きい。あくまで鍛錬なので、気を抜いて走っているわけではない。
生きていて楽しいことはなんだろうかと考えてみると、自転車という趣味以外には大して面白く感じることもなく、一方でこのまま人生が終わるのは何だか虚しいと焦る感じがある。
いいじゃないか、ブロンプトンを買うことくらい。それによって生き方が少しでも変われば。こんなに我慢して生きているのだから、細やかな楽しみが見つかれば。
いけないな。これは中年親父にやってくるミドルエイジクライシスの症状だ。男性の更年期とか思秋期といった呼び方もある。
妻がいる状態で他の女性に心が動いて、実際に肌を重ねてしまう、あるいは上司や取引先に頭を下げることが嫌になって、職場という安全地帯から脱サラして荒野に出てしまうといった中年のお父さんたちの行動は、俯瞰して眺めて見ると論理的とは思えない。
明らかにメタボなのに、注文して出てきた脂の塊のような料理の写真をスマホで撮影し、額に脂汗を浮かべながらそれらを平らげ、写真をツイートするお父さんの行動も理解しがたい。
しかし、その論理的ではない思考、いや衝動に突き動かされてしまうのが思秋期のお父さんたちの頭の中だったりもするわけだ。
思春期の男の子たちが論理的ではない言動に出てしまうパターンに似てもいるが、時に人生を破滅に向かわせる思秋期の方が深刻だと思う。
今回の私のブロンプトンに対する欲求も、あまり論理的なものではない。
私がどうしてブロンプトンというメーカーのミニベロを欲しているのか、ダホンやタイレルといったメーカーのミニベロでは不適なのか。
おそらく、欠品が続く自転車メーカーのシマノの不甲斐なさに辟易して、ほとんどのパーツを自社製品だけで自転車を組み上げるブロンプトンに魅力を感じた。
また、コンパクトに折り畳むとコインロッカーに入ってしまうブロンプトンの精巧な作りが素敵だと感じた。クロモリ製の鋼鉄フレームも気に入った。
以前は間抜けなシルエットだなと思っていたが、よく見るとフレームの造形が美しく感じてきた。
ブロンプトンを手に入れて、一生物として大切に手入れして、電車で輪行して房総半島の谷津道に行ってみたくなった。
レーシンググリーンのブロンプトンに跨がって、笑顔でサイクリングを楽しんでいる自分の姿を容易にイメージすることができる。
朝になって目が覚めたので、寝ぼけ眼のまま米式のタイヤバルブ用のアダプターをアマゾンで注文した。ロードバイクやシクロクロスバイクは仏式バルブだが、ブロンプトンは米式バルブなのだそうだ。イギリスなのに、どうして英式バルブではないのかというと、おそらく高圧の空気をチューブに入れる必要があるからなのだろう。
さて、これから船橋のワイズに電話をかけ、とにかく今から行って現金一括払いで購入するから、レーシンググリーンのブロンプトンを取り置いてくれと頼むことにしよう。
携帯電話を手に取った瞬間、布団の中から自室を眺めてみた。私の自室は6畳間だ。
妻との関係に疲れ果てた私は、以前からこの部屋に身の回りの一式を持ち込んで寝泊まりしている。家族との間で必要最小限のコミュニケーションは取っているが、夫や父親という役を演じている気持ちでいる。
私がバーンアウトで死にかけた時、この家族は助けてくれなかった。しかし、夫や父親として家族を助ける必要がある。それでも何とか暮らそうとした結果が、これだ。
穏やかな家庭内別居、あるいは卒婚という状態だな。
風呂やトイレが別とはいえ、六畳一間の生活は無様でもあり面白くもある。五十路近くまで生きてきて安心することができる空間が六畳一間なんて悲しい現実だ。しかし、子育てに入っても趣味の部屋があり、そこで寝泊まりすることができるというのは父親として幸運かもしれない。
離婚して家を出て、養育費も十分に払わない父親たちより、きちんと家庭に金を入れて自室で静かにしている父親の方が少しは立派だろう。
とはいえ、着替えなども収納し寝泊まりしている六畳一間に、スピンバイクを含めて3台の自転車を入れることは厳しいな。
シクロクロスバイクについては、メタルラックを工夫することで縦方向に吊り上げて保管している。スピンバイクも置いてあるし、タンス代わりのクリアボックスも積み上げている。リモートワークのための座椅子やテーブルもある。ここに布団を敷くと現時点で空きスペースがない。
小さな折り畳み式のローテーブルを片付ければ、何とかブロンプトンを置くためのスペースを確保することはできそうだ。しかし、シンプルに生きたいという最近の私のスタイルとは異なる形になってしまう。
非常に強烈な衝動ではあるけれど、私は本当にブロンプトンを欲しているのだろうか。
こんなはずじゃなかったという生き方を続けてきて、自暴自棄になって折り畳みのミニベロを手に入れ、どこか遠くに行きたくなったというだけの話ではないのか。
コロナ禍によって社会全体が絶えることがないストレスを抱えている。夫婦共働きで複数の子供を育て、私立中学への進学。さらには鬱陶しい義実家からの過干渉。妻の荒い言動と実家依存。
若き日に夢見た幸せな家庭生活は幻想でしかなかったし、今はただ慌ただしく余裕がない毎日の生活だけが続く。
蓄積したフラストレーションから開放されてゆっくりと生きたいという気持ちを、ブロンプトンに乗ってのんびりと走るイメージと重ね合わせてしまっているように思える。
地獄のような浦安での生活を耐え続け、ようやく都内に戻る将来が近づいてきた。その時にはシクロクロスバイクをマンションの中に持ち込むことができるのだろうかと不安になり、折り畳み式のブロンプトンならば大丈夫だと自分に言い聞かせた。しかし、その思考は正しいのか。シクロクロスなのだから、肩に担いで階段を上ればいい。
私のサイクルスタイルは、夜間の走行が多く、谷津道のような荒れた路面を走ることが多い。そのような状況おいてブロンプトンが適しているのだろうか。
やはり、思考のロジックが跳躍を繰り返しており、きっと何とかなるという前向きかつ曖昧なイメージが先行している。
ブロンプトンを手に入れた場合、カスタムを繰り返してようやく完成したシクロクロスはどうなるのか。休日にサイクリングに出かける余裕があまりない私が、両者を器用に使い分けることができるのか。
今までの経験に基づくと、複数台の自転車があると私はひとつに乗り続けてしまう。とても変化に弱い性格なので、前回のサイクリングと異なる状態になると思考が混乱してしまう。
この状況は明らかにミドルエイジクライシスによる衝動と解釈して差し支えないし、往々にして結婚というくじ引きに挑む男性の心境にも似ている。もっと落ち着いて考えねば。
浦安から都内への自転車通勤を始めた時、最初に購入したのはターンの折り畳み式のミニベロだった。
しかし、落車したら大型車に轢かれる危険性がある幹線道路において、小径ホイールでの走行はとても怖かった。しかも、フロントフォークから伸びる首長のコラムにはステムが付いておらず、そのままハンドルが取り付けられている。
ロードバイクで5cm程度のステムを使うとハンドルがクイックになるが、そもそもステムがないストレートハンドルのミニベロはさらに挙動がクイックだ。
路面上の小さな段差を拾ってハンドルが不意に切れてしまったら、そのまま落車する危険性がある。夜間の走行では路面の段差が見えないことが多い。
そこで、折り畳み式のミニベロからアルミ製のロードバイクに乗り換えた。これはこれで走りやすかったが、軽量なフレームでは夜間に路面の凹凸を拾って乗り上げた時に不安定になると感じた。
そこで、クロモリ製の重いロードバイクに乗り換えた。すると、フルカーボンのロードバイクを所有していたにも関わらず、ずっとクロモリロードバイクに乗り続けるようになった。
そして、千葉県北西部に広がる谷津道を走ることの素晴らしさに気付き、クロモリロードバイクに太いタイヤを取り付けたくなったので、クロモリ製のシクロクロスフレームを手に入れて、自分で組み上げることにした。
なんだ、落ち着いて考えてみると、自らの経験の中で試行錯誤しながら現在の状態に至ったわけだ。
そういえば、輪行が楽だからと折り畳み式のミニベロを買ったけれど、実際に輪行したのは1回だけだった。私は駅や電車が嫌いなので、趣味の中でそれらに近づきたくないという笑えない理由だった。
街乗りとしてブロンプトンという形があるかもしれないが、数十万円もする自転車だからと店の中に持ち込んだり、コインロッカーを探して自転車を預けるなんて、何だかおかしくもある。
ブロンプトンが活躍しているロンドンならば分かる気がするが、ここは日本だ。街乗りであればシティサイクルに乗って気楽に出かけて、必要があれば適当に駐輪して出歩くくらいの余裕がほしい。
また、いくらホイールベースが長かったとしても、16インチのタイヤでステムのないブロンプトンが、シクロクロスのような安定性を有するはずがない。現にブロンプトンに乗っていて、些細なことで落車したというブログエントリーをたくさん目にする。その多くが前方一回転だ。この自転車は歩道をのんびりと走るようなタイプのものであって、夜間の都内の車道を走るような通勤には適していない。
しかしながら、ブロンプトンにはそれだけの価値があるのだろう。それも分かる。家の中でも外出時もずっと身近にいる一生物の道具という存在は素敵だと思う。
また、それに乗ってのんびりと走りたいという気持ちも分かる。その気持ちが私の頭の中で混線して、穏やかに生きたいという衝動になってしまったのかもしれない。ブロンプトンを手に入れてのんびりと走っていれば、生き方においても余裕が生まれるのかもしれないと。
だが、谷津道を中心とした荒れた路面に突っ込んでいくことが多い私のサイクリングスタイルにおいて、車輪が小さくてハンドルがクイック、かつ積載量が少ないブロンプトンはあまり適していない。
近い将来、都内に引っ越して電車通勤から自転車通勤に変更した場合にも、ブロンプトンでの帰宅時の夜間走行は危険だと思う。
都内は突貫工事で仕上げた路面が多く、横方向だけではなくて縦方向の段差もたくさんある。それは2年間も自転車通勤を続けたので分かる。夜になると段差が見えない。
その状態の道路を16インチのホイールで夜中に走って落車し、後ろから自動車がやってきたら大変なことになる。
やはり、今回のブロンプトンの件は、ロジックがどこかで跳躍していた。
自転車によって生き方が変わったことは確かだけれど、仕事にしても家庭にしても、今の生き方はミニベロでのんびりとポタリングを楽しんでいるような感じではない。舗装されてもいない砂利道に突っ込んで、砂まみれで傷だらけになりながらペダルを回している感じ。
サイクリングという趣味のある生活の中で、自分が求めてたどり着いた車種が、クロモリ製の旧式のシクロクロスバイクだったという結論は、自分の生き方と照らし合わせると皮肉でもあり、因縁めいた感じもある。
自分の生き方が、自分のサイクルライフにおいても反映している。
ようやく、ブロンプトンを手に入れたいという衝動が治まってきた。凄い衝動だったな。思秋期とは怖いものだ。
それにしても、この衝動がパパ活や不倫といった破滅系のベクトルにならなくて助かった。
そうか、あのようなペイズリー柄の欲望に引っ張り込まれてしまうお父さんたちは、自分ではそれが悪行だと分かっていても、自分を制御することができない精神状態になってしまうのかもしれないな。思秋期に性的な衝動まで追加されたら、理性が崩壊してもおかしくない。
今回のブロンプトンが欲しいという衝動は、破滅系ではないし悪でもない。
そのようにのんびりとしたサイクリングの楽しみ方があって当然で、そのようにゆっくりと生きることだって素晴らしいことだ。
自分がそれを選択しなかった、あるいはその選択に至らなかっただけのこと。
舗装路だと思って走っていたら結果的にグラベルになったという実感が甚だしくもあるが、時代遅れの鋼鉄製の自転車に乗って悪路に突っ込んでいくような生き方を選択したのは、自分の判断によるものだ。
それにしても、穏やかで気楽な人生のイメージさえ付随させてしまうブロンプトンという自転車の魅力は凄まじい。老後の楽しみにしておこう。