2021/12/05

ぞうきんかけご飯とシュタインズ・ゲート

今週は家庭において疲れきってしまったので、休日のサイクリングに出かける気力もなく自室に入って静養していた。事の発端は衝撃的な出来事だった。相変わらずの長時間の電車通勤にてストレスを蓄積させながら、やっとのことで自宅にたどり着いたところ、台所がとても荒れていた。

おそらく仕事が遅くなった妻が急いで夕食を作ったのだろう。片付けくらいは私がやらねばと、食器と調理後の野菜の皮が混ざったカオティックな状態のシンクを片付けた。その後、キッチンを拭こうとして転がっていた雑巾を手に持ったところ、その下には蓋のないタッパーに入った白飯があった。それは明日の私の弁当だ。ありえない。何が起こったのか。


私は、その状況を全く理解しえず、ただ呆然とその場に立ち尽くした。

すでに冷めている米飯の上に乗っていたのは、濡れた雑巾ではなくて乾いている雑巾なのだが、どう見ても過去に何度も使用したことがあるマイクロファイバーの雑巾だ。

先週の私が、この雑巾に洗剤を付けてキッチンのシンク周りを掃除した記憶がある。

「何だこれ?」と私がつぶやくと、お帰りの挨拶もなく食後に歯ブラシをくわえて磨いていた妻がやってきて、私の手からその雑巾を取り去った。

しかも、私に対して謝るどころか、そのまま洗面台に向かってしまった。

さらに、妻は白飯の上に雑巾が乗っていたという奇妙な状態について何の説明もせず、さっさと別室に行って寝てしまった。

私はあまりの衝撃で何が起こったのか整理することができず、とにかく自室に入り、なかなか寝付けずに眠りに入った。

翌朝、しばらく停止していた私の思考が再び少しずつ回り始めた。可能性としては様々なロジックが考えられる。

そのロジックの開始点は、なぜ蓋のないタッパーに白飯が入っていたのかというポイントだ。おそらく、夕飯として炊いた米をタッパーに入れ、粗熱を取った後で蓋をして、冷蔵庫に保管するためだろう。

妻は私が頼んでもいないのに弁当を作って私に持たせる習慣がある。私が妻以外の女性とランチに行ったら、この弁当を食べろという浮気防止の対策なのだろう。私は義父とは違うのだが。

なるほど、タッパーに入った白飯は、このようにして準備されていたわけだ。いつも深夜に帰宅するので気が付かなかった。

この時点におけるロジックは何ら問題ない。

問題なのは、そこからどうしてご飯の上に雑巾が乗ったのかという経緯だ。いくつかの可能性が類推され、そこからロジックが分岐する。

① 妻が夫に対してストレスや憤りを持ち、意図的に白飯の上に雑巾を載せ、それを夫に食べさせることで憂さ晴らしをしていた。

② 白飯の粗熱を取ろうとしたが、何かを乗せておかないと米が乾燥するので、とりあえず近場にあった雑巾を乗せてみた。

③ 白飯の粗熱を取ろうとして蓋をしていないタッパーに米を入れて放置していたところ、何らかの偶発的事象によって雑巾が飛んできた。

④ ストレスが多い新浦安ライフによって、とうとう私の脳がおかしくなって幻覚を見た。

最も考えられるのは、①の可能性だな。夫が気が付かないところで妻がモラルハラスメントとして行う行為として、ネット上でもよく見かける。

夫の歯ブラシで排水溝を磨いて元に戻しておくとか、雑巾を絞った後の水をさりげなく飲ませるとか。

まあ、そのようなことをやる妻は陰険かつ異常だと言わざるをえないし、夫婦関係が破綻したとしても夫としてはむしろ幸福とも言える。

そして、このケースの場合、今回に限らず私は雑巾をかけられた白飯を弁当として職場に運び、それを日常的に食べていたということになる。吐き気がする。

②の可能性についても完全には否定しえない。妻は診断には至っていないがADHDの傾向があるので、何かの行動の際に別のことに注意が及び、客観的に見るとおかしな展開になることがある。

妻の身の回りで書類が神隠しに遭うことは珍しくないし、入浴中に湯船の中でメイクを落として顔を洗ってしまったことなんて数え切れない。

私が深夜に帰宅して風呂に入ると、まるで入浴剤を入れたかのように湯が真っ白。バスタブと水面の境界には肌色の粘着物が貼り付き、何とも言えない化学臭がする。

加えて、妻本人は適切に使用しただけだと主張するが、使い方が荒くてメンテナンスもせずに家電が壊れることもよくある。

③についても我が家ではありうる。妻と同じで上の子供は落ち着きがなく、衝動性と多動性が高い。

帰宅後に玄関の靴を揃えないとか、着ていたアウターの服や鞄を部屋の中に散らかすとか、洗面台を使った後に片付けないとか、そのような性質は妻とそっくりだ。

つまり、妻もしくは上の子供が夕食時にテーブルを拭くために使った雑巾を、あまり深く考えずにキッチンに向かって投げたところ、私の弁当の米飯の上に着地したという可能性は否定できない。

④については、むしろ幻覚であってほしいとさえ思う。だが、職場で定期的に実施されるメンタルチェックにおいて私は全てパスしているし、妻が取り去った後のマイクロファイバー雑巾には何粒もの米が付着している。間違いない、これは現実の世界での出来事だ。

翌朝、おそらく精神性の要因による下痢がやってきた。先の可能性において①が生じていた場合、私は雑巾かけご飯を毎日食べていたという解釈になる。食べてしまったので仕方がないが、あまりに気持ちが悪い。

夫であり父親である私の弁当を前日に作って翌日に持たせるというシステムでさえ、男性にとっては屈辱的かもしれない。さらには、弁当を冷ますために雑巾をかけておくなんて、意図的であれば妻から夫に対するモラルハラスメントでしかない。

その時点で多くの夫たちが離婚を考えることだろう。私も離婚届に判子を押すイメージが何度も頭をよぎった。

妻の実家がある浦安に引っ越し、長時間の通勤に苦しみ、苦手な街での生活に苦しみ、義実家からの干渉に苦しみ、それでも家庭が経済的に苦しまないように努めてきた。

それなのに、夫に対して雑巾かけご飯を食べさせるというのは、もはや婚姻関係の破綻のきっかけとして十分すぎるくらいのインパクトだ。

しかし、①および④ではなく、②もしくは③の要因による事象の場合には、妻に悪意はなく、過失という理解になる。

その場合には、妻が私に対して何らかの説明をすれば済む話だ。しかし、妻はそれを拒否している。彼女は義母と同じで自己肯定が非常に強い人なので、たとえ自分が悪かったとしても、私に対して謝ることはほとんどない。

つまり、②と③が否定され、④の幻覚を見たという可能性も否定すると①だけが残る。

しかも、雑巾がかかっていた白飯のタッパーが、翌日の弁当として用意されていた。何ら問題がないと考えているらしい。

その日以来、私は妻が用意したタッパー入りの白飯には手を付けず、弁当として持って行かないことにした。

さて、ここからの夫としての行動においては、大きく分けて4つのパターンがあると思う。

① 「何だこれは! ふざけるな!」と怒って、喧嘩上等で妻に抗議する。

② 妻に対する愛情や信頼が失せて、気持ちが冷めたまま看過する。

③ 自分は飯の上に雑巾をかけられる程に情けない夫だと自戒する。

④ 現実を受け止めずに、自分の力で何とかして自分の記憶を消そうとする。

妻は共働きの状態での上の子供の中学受験において気が立っている。雑巾かけご飯の経緯が意図的にしろ、偶発的にしろ、①を選択すれば夫婦関係の悪化は避けられない。ただ、人として自然な感情だと思う。

②は離婚に向かってダイレクトに突き進む感じがする。それ以前の段階として卒婚あるいは夫婦仲が法的な制度でしかない状態になっていることだろう。

③については、夫が我慢を続け、それが限界に達して精神が崩壊し、うつ病などの精神疾患を発症する危険性があると思う。妻が原因で夫がEDになってしまったという冗談のようで全く笑えない事例も実在するらしい。

④はどうか? それができれば苦労はない。

そして、私がとった選択肢は④だった。何が起きたのか理解することができないのだが、この事象について大きなリアクションをとることは「危険」だと感じた。

バーンアウトを起こす直前、妻と私は頻繁に口論を繰り返し、互いを理解することは困難だと私は妻に伝えてある。いくら妻が感情的になって私に対して主張しても、私はその主張を受け入れることが難しい。なぜなら、感情的になった妻の主張を理解することができないからだと。

しかし、子供たちが生まれた以上、成人するまでは夫という責任を果たし、その役を演じ続けると伝えた。

かといって、夫婦同士で憎み合っているわけでもなく、互いの距離感を明確にして対立しないように連れ添っている。

この状態だって法的には立派な婚姻関係なわけで、歳を重ねた夫婦にはよくある話かもしれない。

だが、雑巾かけご飯については何もなかったことのように忘れ去ることは難しい。あまりに衝撃が大きすぎるし、妻のフォローが全くなかったことがさらに堪えた。

2日目までは離婚や別居という選択肢が頭から離れずに辛かったが、そこからは自分が気にしなければ何もなかったような家庭での時間が流れた。

いつもよりも気分が沈んだ休日がやってきた。

気分転換として動画でも見ようかとアマゾンプライムにアクセスしたところ、これまでに見かけたことがないアニメがお勧めの中に並んでいた。

「STEINS;GATE」という名前の作品で、日本語読みのタイトルは「シュタインズ・ゲート」。

視聴時は気が付かなかったが、原作は同じタイトルのゲームソフトウェアなのだそうだ。

私はタイムスリップとかタイムリープといったテーマの映画やアニメを好む。その理由はなぜなのか、自分自身でも分からない。

自己否定感が強くて、「あの時、ああすれば良かったのに」とか、「あの時、別の選択をすれば良かったのに」と、いつまでも自分の行動を後悔する癖があるからなのだろうか。

タイムスリップは人間が偶発的に時空の歪みに落ちて未来や過去へ移動するという概念、タイムリープは身体ではなく意識が時空を飛び越えるという概念だと私は理解している。

タイムリープの場合には自らの意思で決まった時間や場所に意識を移動させたりもする。あくまでフィクションの中の話なので、偶発的なタイムスリップよりもストーリーを構成しやすいという事情があるのかもしれないな。

また、タイムリープは和製英語で、海外ではタイムトラベルやタイムワープと呼ばれることが多い。タイムトラベルやタイムワープでは意識だけでなく身体ごと時空を越えるので、タイムリープの定義と少し違う気がする。

だが、そもそも身体ごと移動する物語においてもタイムリープと表現されることがある。タイムリープの定義自体が明確ではないからだ。

ドラえもんの世界でタイムマシンに乗って現在から過去や未来を行き来するというストーリーは、タイムスリップではなくてタイムトラベルに該当すると私は理解している。

シュタインズ・ゲートという作品では、第6話くらいまではコミカルタッチな展開で物語が進む。いわゆるアキバ系やネット掲示板について関心がない人においては、しばらく退屈な時間が続くかもしれない。

しかし、途中から物理学あるいは形而上学にも通じるシリアスな展開になり、視聴者までが思考をフル回転させて楽しむような話に変わる。ゲームソフトの内容が原作という経緯もあるのだろうか。

タイムリープやタイムトラベルといったテーマの作品においては、自分が生きている世界と同じ時間軸において、様々なパラレルワールドが存在しているという前提があったりする。

それらの世界を入れ替えたり行き来することで未来の姿を変えるというストーリーは、小説や映画、アニメに至るまでよくあるアイデアだな。

自分が生きている現実世界は、自分が認識している世界なのだから当然のごとく存在している。

また、「現在」という期間を厳密に定義すると、それは一瞬の出来事になる。数分前がすでに「過去」になり、数分後は「未来」に該当する。

つまり、私たちが生活している世界の時間軸においては、ほとんどが過去と未来で構成されていて、両者の僅かな隙間が現在という解釈になる。

しかし、その僅かな「現在」という時間の出来事や選択が、その後の未来を大きく左右する。当たり前のことではあるが、深く考えると怖くもある。

シュタインズ・ゲートにおいては、世界線という表現でパラレルワールドが表現されている。その作り込みが丁寧で緻密なので非常に興味深い。

自分が認識している現実世界と認識しえない並行世界が現在において同時に存在すると考えることは難しい。同じ時間の別の世界にも自分がいるなんて、フィクションの中の話ではないかと。

しかし、少し先の未来においてはどうなのかというと、確かに無数の並行世界が存在していると考えることは難くない。いや、むしろ実際に存在していると考えた方が自然だな。

自分が道を歩いていて、途中で分岐していたとする。「現在」という視点では世界はひとつだ。しかし、そこからすぐ先の時間、つまり未来について考えてみると、右に進んだ場合の世界と、左に進んだ場合の世界が存在している。

右に進んだ場合には、そこが現実の世界となり、左に進んだ場合の世界は消失する。そして、少し先の未来にも無数の並行世界が存在しているという理解になるわけだな。

その流れを過去に向かって眺めるとどうなるかというと、まるで同じ時間軸で無数の並行世界が流れ、膨大な要素が複雑に絡み合うことでひとつの世界が選択され、他の世界が消失することで、現実世界に繋がっているように見える。

その膨大な要素の組み合わせが少しでも異なっていたら、現実世界は別の状態になっているはずだ。

時間を戻ることは不可能なのでありえない話だが、シュタインズ・ゲートの作中では過去において実在していた現実世界を並行世界にスイッチさせることでその後の世界を変えるという、このジャンルによくある設定がなされている。

しかし、この作品においては、未来から猫型ロボットがやってくるとか、マッチョなアンドロイドが全裸でやってくるといった派手な演出は行われない。そんなことをしたら、未来の世界がどのような状態になるのかを推測することが難しい。

この作品のストーリーに厚みを持たせているのは、些細な事象が様々な要素に対して連鎖的に影響を与え、その後の展開を左右するという「バタフライ効果」だな。

後方視的に考えれば現実世界においてもバタフライ効果によく似た事例は存在している。とりわけ人的な要素が大きい。

例えば、織田信長の気が変わって本能寺に滞在していなかったなら、おそらく日本の首都は東京ではなかったことだろう。クレオパトラの美貌の話も同じラインだな。

名前を伏せるが、売れない画家の絵が一部の人たちに認められていれば、先の大戦で大きな悲劇は生まれなかったかもしれない。

キャリーマリスが夜のドライブに出かけた際、空に綺麗な月が見えていなければ、PCRという技術の発明が大きく遅れていたかもしれない。

現実世界および並行世界の関係については、これらの歴史的な事象だけではなくて個人レベルにおいても実感することができる。

例えば、実際の子育てを経験している男性たちならば分かると思うけれど、自分がどうしてこの世界に存在しているのか不思議に思ったことはないだろうか。不思議というよりも、天文学的な確率によって自分がこの世界に存在しているということを感じたことはないか。

下ネタではなくて、若き日の自分の両親が「さあ子供を作ろう!」と夫婦で励んで自分が産まれたわけだが、その際の父親に一瞬の気の迷いがあったとする。

そのきっかけは、夜にかかってきた1本の電話だとか、布団の近くに置いていた時計が倒れたとか、晩酌の量が一杯だけ多かったとか、まあとにかく何でもいい。それによって父親の射精のタイミングが瞬間的にずれたとする。

それだけで、数億個の精子の動態は大きく変わる。

結果として何が起きるのかというと、「自分が現実世界に存在していない」という解釈になる。

その世界においては、自分と容姿がよく似た人物が存在する可能性はあるけれど、ゲノム構成や脳内の人格は自分とは異なる。つまり、別人だ。

そのような展開は現実の世界から過去を眺めれば無数にある。また、過去から現在までの流れを理解しても、過去を変えることができないから諦めもつく。

しかし、過去の事象における僅かなタイミングに対して、現在の現実世界からアクションを加えることができたとしたら、どうなるだろう。タイミングによっては自分を巻き込んだまま並行世界が現実世界になる。

シュタインズ・ゲートという作品の場合、登場人物が身体ごと時空を越えるというよりも、過去に向かって送ったメールの内容によってバタフライ効果が生じ、並行世界と現実世界がスイッチするという設定がなされている。ミステリー作品とも呼べるような細かな描写が実に面白い。

夜更けにシュタインズ・ゲートを視聴し始めて、気が付くと自室の窓の外が白んできた。とても面白い作品だったので、アニメを見ることに過集中を起こしてしまったらしい。

それにしても素晴らしい作品だった。

以前、「インターステラー」というSF映画を観た時にも深く考えさせられるものがあったのだが、今回のシュタインズ・ゲートも非常に感慨深いものがあった。

冒頭の話に戻ると、通勤で疲れて自宅に帰り、そこで目にしたのは雑巾がかけられていた明日の私の弁当の米飯だった。

衝撃を受けて立ち尽くしていた私のすぐ先には、様々な並行世界が無数に存在していたわけだ。

多くの父親たちにおいて、そのような出来事があれば気分を害して妻と喧嘩になり、夫婦関係に大きな亀裂を生じ、時には離婚の引き金になることさえあるかもしれない。

その時の私においても様々な選択肢があった。「これは何だ、説明しなさい」と抗議することを選択すれば、中学受験で気が立っている妻がすぐに感情を発火させて口論になるという現実世界がやってきたことだろう。

これまでの長い夫婦生活における経験論としては、ストレスが溜まっている妻が、むしろ「キレどころ」を探していて、どこかで感情を爆発させるタイミングを狙っているようにも思えた。

少し前の過去に存在した私は、雑巾かけご飯が意図的なものではなかったとしても、その状況について指摘すれば妻が一気にキレることを察したのだろう。

そして、今後、妻が用意した弁当の米飯については手を付けないというオプションを選択することで現実世界が進み、夫婦喧嘩が勃発するという並行世界が消失した。

人生をゲームのように考えてみると、「この選択をすると、このようになって...」というロジックを組み立てることができる。

かといって、全てがロジカルに進むわけでもないし、不確定要素に左右されることもある。結婚がくじ引きと表現されることにも説得力がある。

雑巾かけご飯について私が指摘しなかった結果、なぜか子供たちが私の自室に順番に入ってきて、楽しそうに私に話しかけ、何か満足したように部屋を出て行った。

子供たちとしては、両親が喧嘩して大変なことになる世界を予測していたのかもしれない。その並行世界が消失して安堵したということか。

今回の出来事に限らず、生き続けるということは、無数に存在する並行世界を選択し、現実世界を確定することの繰り返しだな。

過去の選択が現在においてどのような結果になったのかを知ることは容易い。

しかし、現在の選択が未来の現実世界においてどのような結果になるのかは、たとえ直近であっても分からない。

考えすぎるのは良くないが、考えすぎないことも良くない。素になって考えるとグラグラと不安定な世界で生きているのだな。