ありのみコースの前を通って谷津道に抜けるルートを探す
①をそのまま進むと手賀沼にたどり着き、途中で白井市内の金山落とし沿いの谷津道に入ると印西市内の谷津道に入ることができる。②のルートでは佐倉市内の小竹川の谷津道を経由して印旛沼、さらには複数の谷津道を連結して外房まで行くことができる。加えて、新川と神崎川沿いの谷津道を経由することで①と②の周回ルートが出来上がる。
さらに、②のルートから花見川沿いを走ると千葉市の海浜幕張方面に抜けることができたりもする。
普段から荒川や江戸川の河川敷ばかり走っているサイクリストから見れば全く意味不明なルートだと思う。これらのルートを走っていて、ロードバイク乗りどころかママチャリに乗っている人たちとすれ違うこともあまりない。
手賀沼や下手賀沼の付近、あるいは印旛沼や花見川の近くではサイクリストを見かけることはあるが、彼らにとっての谷津道は目的地までの廊下のようなものだろう。
明日は①と②のどちらに行こうかと考えながら眠りに就き、翌日の日曜日は朝から激しい怒声によって目を覚ました。
上の子供が受験塾の定期テストであまり良くない成績を取ってしまったとか、これをやっておけと言われていた学習をやっていなかったとか、まあそういったことがきっかけで妻の火山が噴火してしまったらしい。
それにしても、日曜日の早朝から甲高い大声で怒鳴る姿には、仕事...正しくは長時間の電車通勤で疲れている私に対する配慮が微塵も感じられない。
いきなり怒鳴り声で起こされた私は、「どうしたんだ!?」と子供部屋に向かって叫んだ。しかし、妻は私を無視したまま上の子供を叱りつけている。
「じゃあ、どうすんの!?」
「じゃあ、どうすんの!?」
「じゃあ、どうすんの!?」
切れた妻が子供を叱責する時は、どこが良くないかを諭すようなことはしない。一部を褒めもしない。ブラック企業のパワハラ上司が部下を詰問する時と同じように、抽象的かつ高圧的に問いを投げかけ、絞り出すように答えた内容について駄目出しをする。
そして、再び抽象的かつ高圧的に問いを投げかける。このループを長時間にわたって繰り返す。
いつも思うのだが、これで子供が勉強を好きになるはずがない。定期テストは良い点数を取るためのものではなくて、学習の習熟度、とりわけ足りない部分を見分けるためのものだ。
それなのに、足りない部分があるじゃないかと子供を責め、しかも自分でどうするかを考えさせ、その考えを全否定するなんて、精神的な拷問でしかない。
このような叱り方は子供どころか大人でさえ個人の自主性をスポイルさせるので、最もやってはいけないことだ。
癇癪を起こして論理的に考えることもできず、ひたすら怒鳴り声を上げ、自分が間違っていることにも気が付かない。このような妻と子育てに入ったことは私の失敗だった。
私がバーンアウトを起こす前は、当然だが妻の叱り方について何度も口論になった。
しかし、自己肯定が非常に強い妻は、感情的になると夫の意見なんて全く聞き入れない。
「じゃあ、どうすんのよ! あんたがやりなさいよ!」と怒鳴り、暴れ、物を投げる。自分で考えることを放棄しているのに、他者が考えろと要求する。
今では間欠泉くらいのレベルになってきたが、上の子供が小学校に入った頃は、毎日欠かすことなく朝も夜も妻が切れて大噴火していた。
あまりのストレスで私がバーンアウトを起こして感情を失ったのが2015年頃。
それでも、妻からの暴力は減らなかった。この人は他者の感情を察するという性質が欠けてしまっている。
そして、私は完全に追いつまり、一時期は離婚するしか手段がないという局面になった。なんてザマだと我ながら思ったが、私がうつ病を発症して働けなくなると、子供たちの経済状況が傾いてしまう。
妻が暴れ始めた当時、産後うつ、あるいはPMS(月経前症候群)を疑った。治療すれば何とかなるかもしれないと思った。
しかし、出産からかなり時間が経っているし、月経の周期に関わらず怒り暴れる。
義母も義妹も癇癪持ちなので、おそらくパーソナリティにおいて遺伝的な偏りがあるのだろう。この人たちは外面に強固なペルソナを有しており、裏返ったような声で自分を取り繕う。
だが、家庭の中ではシニカルな発言を飛ばし、あまり品が良くない言葉を使い、すぐに感情的になって甲高い大声を上げる。二面性が強すぎる癇癪持ちとの生活はとても厳しい。
このような状況では、もはや離婚するしかないと思った。互いを理解し合うことは不可能だ。
しかしながら、当時はまだ保育園児だった下の子供が、夫婦の対立を泣きながら仲裁しようとしている姿を見て、私は離婚せずに連れ添うことにした。正確には、子供たちが成人するまでは夫を演じると妻に伝えた。
交際時や新婚時代にはこのような時が来るなんて夢にも思わなかったが、これが現実だ。私の判断ミスで結婚したのだから自分で責任をとるしかない。
妻の癇癪は病気なんだと、私自身に言い聞かせながらここまで耐えてきた。
だが、私は子供たちが成人するまでは連れ添うと言ったが、その後も連れ添うとは言っていない。妻もその意味を理解している。
また、あまりに酷いようならば途中で決断するしかないこともあるだろう。
感情的になった妻を止められるのは、精神的に共依存の関係にある義母くらいだ。かといって、私がこの状況を放置して、妻が狂ったように叱責や詰問を続けていると、上の子供の心に傷を残してしまう。
「どうしたと聞いているんだ!」と、引かずに妻に抗議する。
「なんでもないわよ!」という意味不明な妻の返答。何もないのに怒鳴るはずがない。
この人は癇癪を起こすと論理的な思考がなくなってしまう。義母と同じだ。
このような時、「なんだと!」と応戦すると、さらに興奮して逆効果になる。妻にはパーソナリティにおいて何らかの疾患があると私は考えていて、病気を持っている人には病人として接する必要があると考えている。先にそれに気付いていたら、バーンアウトして感情を失うこともなかったことだろう。
妻がもしも上の子供に対して暴力を振るったら、私は何ら躊躇せずに警察を呼ぶ心構えができている。また、あまりに怒って暴れるようであれば、離婚や別居という最後のカードを切らざるをえない。
無言でそれらのプレッシャーを漂わせながら、妻が落ち着くまで待つ。
私がバーンアウトする以前は、数日どころか1週間くらい切れ続けることもあった妻だが、最近では少しずつだがアンガーマネージメントができるようになってきた。
妻が落ち着いてきたことを察して、色々と気を遣って妻に話しかけたり、自分で勉強や読書に励む下の子供。
いつも気を遣わせて申し訳ないと思いつつ、この子が我が家に生まれてきてくれて良かったと思う。もしもこの子がいなかったら、この家族はとっくに離別しているはずだ。
妻が落ち着いてきたら、今度は私のターンだ。妻が切れた当日は、私は妻とのコミュニケーションを絶つことにしている。会話どころか目も合わせないし、笑いもしない。
正気を失って激昂したこと、また夫婦の絆が確実に削れていることを妻本人に気付かせる必要がある。
そのような過程では、妻と精神的に共依存になってしまっている義母の存在が邪魔だ。
夫婦の間で距離感や不文律をつくろうとしていても、過干渉な義母が毎日のようにラインで割り込んできて妻の精神を上書きしてしまう。ああ、本当に迷惑だ。
いい加減に子離れせよと思うけれど、義母についてもパーソナリティの病気だと思って耐えている。
舅や姑はネットでは「ウトメ」というスラングで表現されることが多い。ウトメ問題はどこの世帯でも大なり小なり生じているはずで、結局のところはウトメが鬼籍に入るまで現実的な問題が続く。
では、ウトメがいなくなって問題が全て解決するかというと、そんなはずはない。夫もしくは妻が配偶者である自分よりも両親を優先したという事実は、恨みや不信感としてずっと記憶に刻まれ、熟年離婚の原因になるそうだ。
確かに本当だろう。ずっと昔のことであってもリアルな怒りや不快感が残っている。
妻が落ち着く時間を待っていたら、すでに正午を過ぎてしまった。上の子供は受験塾に行ってしまい、下の子供と一緒に昼食をとる。
下の子供は私に話しかけて機嫌を伺ってくる。「いつものことだろ?」という表情で下の子供を安堵させる余裕がないくらいに私は疲れていた。
そして、妻については相手にせずにサイクリングの準備を始め、無言で玄関を出る。
いつも通りに出発したものの、どこに行くかさえ決める余裕がない。すでに精神的に疲れ切ってしまっているので、適当にポタリングをして自宅に戻り、スピンバイクを漕いだ後で昼寝をしようかとも思った。
しかしながら、年明けから仕事が忙しくなりそうだし、サイクリングを楽しむことができる時間が限られているかもしれない。
冒頭の話に戻るのだが、私には以前から何とかならないかと思っていたことがあった。それは、浦安市内から①の大津川沿いの谷津道に入るまでのルート。
船橋市から市川市については裏道を抜けることで混み合っていない場所を走ることができるのだが、鎌ケ谷市内から大津川沿いの谷津道に入る際に、非常に混み合った住宅地や駅前を通る必要がある。
それは鎌ケ谷市に非があるわけではないし、私は浦安市よりも鎌ケ谷市の雰囲気の方が気に入っている。おそらく、鎌ケ谷市出身の浦安市民を除いて、最も鎌ケ谷市を好む浦安市民の一人だと思う。
そういえば、以前に地形図を眺めていた時、大柏川沿いの谷津道の痕跡から鎌ケ谷市を抜けるのではなくて、市川市の北部の台地を乗り越えて鎌ケ谷市を抜けるという道があることを思い出した。
このような精神状態でいつも通りに谷津道を走る気力がないので、今回のライドでは、鎌ケ谷市の市街地を通らずに大津川沿いの谷津道に入るルートを自分なりに開拓することにした。
市川市の北部の台地に何があるのかというと、とても緑が豊かな場所が広がっている。その場所において具体的に何があるのかというと、梨園や公園、そして墓地がある。
正確には、総武霊園と市川市霊園に沿った車道を走ることで鎌ケ谷市の市街地を回避し、途中で鎌ケ谷市の端を通過する形で下総航空基地の周辺にアクセスするというルート。
この道路沿いには、墓地だけではなくて、多くの梨園を見かける。
梨の生産においては千葉県が最も多く、そして千葉県内においては市川市が最も多いそうだ。船橋市が梨の妖精を公認することができない理由も分かる。
そして、墓地や梨園に囲まれた状態で「ありのみコース」というフィールドアスレチックがある。
この場所は23区の子育て世代があまり知らないかもしれないが、料金が安い上に自然が豊かでそれなりに楽しめるそうだ。
ハンドルに取り付けたスマホにて自転車ナビタイムのマップを表示させ、ありのみコースをランドマークにしながら市川市を抜ける。
途中で路線バスの後方に付く形になり、少しフラストレーションが蓄積した。乗降のために停車したバスの発車を待っていたら、信号が赤になった。
ああ、面倒だなと思っていたら、バスの中から数人の若い女性が降りてきた。そのうちの一人が銀河鉄道999のメーテルのような美女だったので、バスが行ってしまった後もリスタートできずに呆然と眺めてしまった。
私にはこれといった好みの女性のタイプはないが、視線の先に立っている女性の姿があまりに美しい。サングラスをかけていたので私の視線を読まれないはずだが、レンズを隔ててガン見していることが分かったら、さぞかし気持ち悪く思われることだろう。
しかも、喪服のドレスと美女という組み合わせは何ともインパクトがある。
そうか、メーテルの格好は喪服だったのか。
私は電車が苦手だが、このような美女との二人旅ならば、999号に乗ってアンドロメダまで行ける気がする。
そういえば、子供の頃の私は、アンドロメダにたどり着いて無料で得られる機械の身体が、大きな装置を支えるボルトだったという作中のシーンを見て愕然とした。身動きが取れない不自由な生き方ではないかと。
しかし、大人になった私は、気がつくと仕事においても家庭においても、たった1本のボルトになってしまったように感じる。
家庭という存在を支えるボルトに対して家族が感謝することはない。支えて当然というわけだ。
職場での存在なんて、交換が可能なネジそのものだ。自分がいなくなっても、別の人が代わりになる。
結局のところ、人生という長い旅路の果てに気付くのは、自分が社会におけるネジでしかなかったということなのか。久しぶりに999の原作を読みたくなった。
さて、本日のライドは、旧型のクロモリフレームのための特注パーツの具合をチェックするという目的もあったので、往路では写真を撮っている場合ではなかった。
この特注パーツについては、自分で図面を書いて業者でアルミを削り出してもらったのだが、話が長くなるので別の録に記す。
そして、思ったよりも楽に鎌ケ谷市を抜けて下総航空基地までアクセスすることができたので、これでいいと復習がてら来た道を引き返した。
往路で通り過ぎた時には、ありのみコースの駐車場がマイカーで埋まっていた。利用料金が格安な上に子供が楽しめるということで、結構な人気なのだろう。
「ありのみ」という言葉は、蟻が通る道のようなイメージがあるが、これを漢字に直すと「有りの実」になる。
「有りの実」が何を意味するのかというと、果物の「梨」のこと。
「梨」という発音と「無し」という発音が同じなので、場所や状況によってはあまり縁起が良くない。
ということで、「無し」の反対の意味をもつ「有り」と置き換えて、「有りの実」と呼ぶことがあるらしい。このような言葉は、「忌み詞」とか「忌み言葉」と呼ばれている。
霊園沿いの車道は車の交通量があまり多くないので楽に走ることできるのだが、路肩のすぐ近くに多くの電柱が並んでいる。
しかも、それらの電柱には反射板などは取り付けられておらず、墓地と車道の間のフェンスと同じ色だ。さらに直線ではなく下りのカーブ。
サイクリストは車道の白線の外側を走ることがあるが、このエリアでは白線の上すら危険だ。
グループライドなどでよそ見をするどころか、真面目に走って後方の自動車を確認することさえ危ない。前方から目を離すと電柱に接触する危険性がある。ヘルメットを付けていても顔から突っ込んだら大怪我だ。
私はソロで走っているが、この電柱の配置は危険だと思った。ナイトライドでこのルートを通ることは避けたい。
その他に気付いた点がある。自転車ナビタイムのマップでは、レストランやコンビニ、そしてトイレの場所が表示される。
ありのみコースや市川市霊園、その付近の公園があるエリアでは、マップがトイレの表示で埋め尽くされた。
そういえば、夏場は汗で水分が出るのだが、気温が10℃台になってくるとトイレが近くなる。気になり出すとやってくるのが尿意というもので、墓地のエントランスを抜けてトイレを借りることにした。
案の定、周囲は静まりかえっており、トイレも汚れておらず綺麗だ。
私の場合には、墓地という存在をあまり不吉に感じない。きちんと供養されているので成仏していることだろう。
では、なぜ市川市内において墓地と梨園が近くにあるのかというと、このエリアは谷津ではなくて台地に該当し、土壌が火山灰に由来していることが理由なのだろう。
火山灰の土壌は肥料を蓄える隙間があり、しかも排水性に富んでいる。前者については梨畑についてメリットがあるが、高台で水捌けが良いという性質は墓地にも適しているはずだ。
加えて、このエリアに墓地が集まっている理由は他にもあるのではないかと私は感じた。
私は市川市民ではなくて浦安市民なので詳しくないが、市川市の南部、つまり行徳のエリアが市川市に含まれるようになったのは昭和の前半だったと思う。
現在ではエックスのような形になっている市川市だが、昔は行徳のエリアを除いたハート型のような形だったはずだ。
そして、そのハート型の地形の中心部から見て、市川市の霊園や斎場はどの方角にあるのかというと、北東の方角。つまり、陰陽道における鬼門に墓があるという解釈になる。この点を踏まえると、市川という土地は昔から高い文化レベルを有していたことが示唆される。
漁師町からスタートし、海を埋め立てることで市域を拡大した浦安市にも歴史があったりもするが、3分の2が埋め立て地なので深みが足りない。
また、昔の浦安は青べか物語で描かれたように陸の孤島と化した貧しい漁村であり、特異な風習があったとしても文化的には遅れていたことが推察される。
対して、市川市の場合には、かなり古くから時代の潮流に乗って街が形成されたのではないかと思われる。
今では財政力が高く近代的な街並みが広がり、ディズニーもある浦安市ではあるが、はるか昔を想像すると、市川市の方が豊かで近代的であり、市民感情としても市川市民の方が優位にあったことが考えられる。昔の市川の民は、浦安の民を敬遠していたのではないだろうか。
前回のライドに引き続き、復路では途中から日が沈んで暗くなってきた。
原木ICを越えて江戸川が見えてきた時、とても美しい夕焼けが目の前に広がっていた。
オールロードバイクに取り付けてあるライトを点灯させ、ナイトライドを楽しむことにする。今回は背後に何も感じない。むしろ、背負っていた重荷が軽くなったような気がする。
自宅にたどり着くと、朝方の大癇癪が幻かのように妻が落ち着いていて、その真横で下の子供がきちんと座って読書に励みつつ、時折妻に話しかけて機嫌を取っていた。
私は表情を変えずに浴室に行き、毎週日曜日の習慣となっている風呂掃除を始めた。
しばらくすると、あれだけ叱られたにも関わらず平気な顔をして上の子供が家に帰ってきた。
そして、妻から小言を投げかけられても生意気に反論している。
以前は上の子供が妻から叱られると酷く落ち込んでいたが、すでに妻の性格を理解して順応したらしい。
それは下の子供も同じだな。血が繋がっているからなのか、子育てに懸命になりすぎて妻が切れていることを理解したのか、それは私には分からない。
私について言えば、妻が癇癪を起こしても冷静に対応し、辛くなったら自転車に乗ってペダルを回してストレスを減らす。その方針は以前から何も変わってはいないし、おそらくこれが最適解なのだろう。