2021/11/01

自家発電を真面目に考えると面白い

ふと思い出した。あれは数年前の夏だったろうか。私は知人の悩みを聞くことになった。彼は私よりも10歳くらい若い父親で、我が家と同じように夫婦共働きで子供を育てている。彼はポルノグラフィーが大好きで、とりわけ成人動画の視聴が趣味のようになってしまっている。キャバクラや風俗といったリアルな方面には全く関心がないことも興味深い。

一方で、彼の見た目は爽やかで男前なので、そのような嗜好とは対局にあるような印象がある。彼が滔々と述べるポルノ動画の解説は、ストーリーのタイムラインから演技のタイミング、さらにはカメラのアングルにまで渡る広範かつ深淵なもので、同世代の母親たちが聞くと明らかにドン引きするような内容だ。


しかしながら、彼は大きな悩みを抱えていた。育児中ということで、自分の子供を連れてプールに出かけたのだが、そこで見かけた水着の女性たちを眺めても、何も感じなくなってしまったそうだ。

これは大変なことになった、自分はオスとして終わってしまったのかと、彼は酷く狼狽しているようだった。

なるほど、ポルノ動画を見過ぎるとそのようなことになるのかと、私はとても興味深く彼の話を聞いていた。

仏教における十悪の中で、「邪淫」は窃盗や殺人に次ぐ悪だと定義されている。

その煩悩を断ち切るためには、その源となる欲求から自分を遠ざけ、自らを厳しく律することが肝要だと私は思っていた。十善戒という戒律の中でも、「不邪淫」を心掛けることは善行のひとつだと記載されている。

個人ブログの中には自ら煩悩を断ちきり、男の自家発電をどれだけの期間停止することができるのかというテーマに挑戦している賢人たちを見かけることがある。

しかし、それらのブログの多くは何の前触れもなく途中で更新が滞り、以後の消息が途絶えて卒塔婆のようにネット上を漂っている。彼らはどうなってしまったのだろう。

他方、私の知人の場合には、あえて煩悩の中に自分を置くことで、生身の世界については煩悩を感じなくなったという解釈になる。

しかも、彼本人はその状態を深刻な悩みとして真面目に話している。何だこれは。私としては笑いを堪えることで精一杯だった。

「見なきゃいいだろ」という一言が喉まで出かけているが、それを飲み込んで真面目に相談を受けている自分の姿がシュールだ。シュール過ぎる。真面目だからこそ面白いというシチュエーションだな。

とはいえ、趣味のようになってしまっている成人動画の視聴を控えることで、逆に彼がリアルな場で男女問題を起こしてしまうと大変なことになる。彼のルックスは同じ男性から見ても格好良いので、父親であっても女性からモテるはずだ。

そこで、私としては「良かったじゃないか、君は煩悩から解脱したのさ」と彼を励ましておいた。

これは私の愚考だが、子供が産まれると妻の性格が荒くなることはよくある。彼の家庭でも夫婦仲が冷めてきたらしい。その状況が彼のポルノ愛をさらに高めてしまったように思える。

夫婦共働きの生活はとても大変で、時間的にも精神的にも余裕がない。生殖というステージが終わった後の夫婦の関係は、独身時代に想像していたイメージよりもはるかにストイックなものだった。

さて、そろそろ真面目な話に移るのだが、最近では「ポルノグラフィー依存症」というフレーズが世の中に広がり、現実的な懸念として受け取られているらしい。

精神疾患の国際的な診断基準としては、米国精神医学会(APA)が刊行している「DSM-5」が用いられており、疾患の診断や分類についての情報が記載されている。

DSM-5の正式名称は、「Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders, Fifth Edition」という長いもので、一度も噛まずに読むことは難しい。

DSM-5にはギャンブル依存症が疾患として記載されているが、ポルノグラフィー依存症やポルノ依存症という状態は疾患として明記されていない。性的な倒錯のひとつとして解釈することができそうだが、病気ではないという理解になる。

だが、コロナ禍によって在宅での仕事が増えた結果として、自宅でポルノを視聴する人が増え、結果としてポルノ依存症と表現しうる状態になってしまうケースが増えたそうだ。

真面目に報じられるからこそ面白いわけだが、人によっては強迫観念を感じることがあるそうで、間違いなく深刻な悩みになっているのだろう。

女性のことはよく分からないが、男性の場合にはポルノの視聴と自家発電がセットになっているだろうから、強迫観念を感じながらの自家発電という組み合わせは大変だなと思った。

ネットや端末が発達し、ポルノグラフィーがあまりに露骨で不節操なものになったことは間違いない。

ポルノに節操や不節操があるのかという点は議論の余地があるけれど、見えないからこそ想像を働かせる必要がある時代で青年期を過ごした私のようなオッサンにとっては、このようにオープンな時代で青年期を過ごす若者たちの感覚がどうなっているのかと心配になったりもする。

高度成長期の日本では、女性にモテたいという理由で男性が色々と努力したと思う。若くして結婚しようと考える男性も多かった。

髪型に気を遣ったり、頑張って金を貯めて自家用車を買ったり。当時は肉食系男子が多かったと思う。

その背景には、秘密の花園を見たいという欲求があったことは間違いない。

当時の情報媒体には欲求に応じうるコンテンツが乏しかった。そこで、男たちは交際や結婚といった現実的な場で刺激を求めたというわけだな。

機会を得た男たちは予備的な知識もないまま勇者のように実戦を迎えることがあったことがうかがえるし、経験者と未経験者のステータスには大きな隔たりがあったことだろう。

今はどうなのか。あくまで性に関わる情報のみで考えれば、努力する必要もなくアクセスすることができる。

そして、結婚に関心がない男性が増え、現実的な男女関係は面倒だと考える人たちまで珍しくない世の中になってきた。

草食系男子というフレーズも普遍的なものになり、女性とのリアルな接触歴のなさが自他ともに引け目や恥として認識されなくなったようだ。

さらに、これはネット社会の弊害だが、幸せな結婚式を終えて子育てに入ると妻が豹変し、これほどまで厳しいのかというストイックな生活がやってくるという情報でさえ、若い男性たちに届いてしまう。極めてオープンな世の中だ。

この先にはどのような未来像が待っているのだろうか。

AIや画像技術がさらに発達し、さらには世界的に開発競争が繰り広げられているブレイン・マシン・インターフェイスが実用化されると、性的なコンテンツにもシステムが用いられることだろう。

それが何を意味するのか。

男性から見た場合の性的な対象が生身の女性ではなくて、基盤の中で生み出されたCGという偶像に入れ替わってしまう時代が来るかもしれないということだ。

そうなると、性産業で酷使される女性が減るからいいじゃないかという意見があるかもしれないが、必ずしも良いことばかりではないはずだ。

仮想空間の中で彼女あるいは妻のような存在を用意して、もはや結婚や子育てなんてコスパが悪いぜと開き直ってしまう男性が増え、我が国の少子化がさらに進んでしまう気がする。

同時に、現在のポルノ依存症どころのレベルではなくて、仮想現実から抜け出せなくなってしまう人が社会的問題になるかもしれない。いや、かもしれないではなくて、間違いなくそのような問題が生じることだろう。

「あはは、そんなはずないだろ」と笑われるかもしれないが、私が中高生だった頃、まさか多くの男たちがスマートフォン、つまり電話に向かって自家発電に励む時代が来るなんて想像したことがなかった。

昔の男たちは小説を片手に自家発電に勤しむことがあったのだから、どちらがミスマッチなのかは分からない。けれど、真面目に取り組んでいるからこその面白さがある。

このままではコミカルな内容のままで録が終わってしまうので、そろそろ真面目に記さねばなるまい。

冒頭の知人のことを思い出して、私はふと疑問に感じたことがある。

男性のひとりでの行為を自家発電というスラングで表現することがあるわけだが、実際の発電量はどれくらいなのだろう。

例えば、男性たちにボランティアを要請し、振動によって微弱な電気を発するデバイスを手首に取り付けて、実際に自家発電をしてもらったとする。

すでに市販されている人力での発電装置の場合、何度も握って発電する機械では数ワットの電力を生み出すことが可能なのだそうだ。ここでは分かりやすく2ワットの発電が可能だと想定してみる。

原子力発電所の発電量には施設によって相違があるが、一般的には1基あたり「100万kW」という数字が用いられることが多い。

100万kWは 1000000000 Wということなので、男性ひとりにつき自家発電で2Wの電力を生み出したと仮定すると、1000000000 / 2 = 5億という数字になる。

つまり、5億人の男性たちが一斉に自家発電を行うと、一過的には原発1基分の電力を生み出すことができるということか。

世界の成人男性については20代だけでも5億人を超えているだろうから、実際の物理量としては何基もの原発に匹敵するパワーがリアルタイムで発動されているという計算になる。

最近流行りのSDGsには全く貢献が期待できず、だからなんだという話だが、真面目に考えると面白い。