プライベートな場では情報の密を避けてオフラインに
スピンバイクの下を含めると3枚もマットを敷いているので、見た目は少し異様な感じではあるが、埃っぽいカーペットが苦手な私としては、この方がしっくりくる。拭き掃除も容易だ。マットの交換のついでに少し早い自室の大掃除を行い、窓から入ってくる温かい日差しと冷たい空気を感じながら、考えごとに浸る。
週半ばで祝日があって運良く休暇を取ることができたわけだが、子供たちが受験塾に通うということで妻が朝から大騒ぎしている。
複数の未就学児を育てるという厳しいステージが終わったと思ったら、今度は私立中学に子供たちを入学させるという厳しいステージに入った。
育児のステージと比べて中学受験のステージが楽なのかというと、そのようなことはない。確かに子供たちの世話については楽になったが、親にかかる負荷は大して減っているように思えない。金もかかる。
当初は私立中学受験を考えていたけれど、途中でそれを諦めて公立中学に方針を変えたという世帯も珍しくない。その切り換えの時期は夏前には終わっている。
妻はすでに受験の狂気を発動して久しい。まさに鉄の意志だ。
これから冬を迎える受験組は、すでに臨戦モードに入っている。公立小学校のカリキュラムなんて子も親も頼りにしていない。
小学生レベルの学習は5年生の段階で受験塾において完了している。6年生になって塾で学習するのは明らかに中学レベルであり、入試ではその内容が求められる。
運動会は適当に流して、その後で塾に通うという厳しさだ。この道の先にどのような将来があるのか。行けば分かるさと覚悟するしかないだろう。
本格的な受験シーズンが来ると、お世話になっている小学校の6年生の学級は、登校する子供たちの数が半分以下になるらしい。小学校に通っている場合ではないという考え方はおかしく感じるが、競争なので仕方がない。
妻がフルタイムかつ自ら志願して残業を続け、子供たちを受験塾や習い事に通わせ、しかも面倒な孫育てに消極的な義父母からのサポートは期待できないという状況。
妻は子供たちが家の手伝いをするように躾けていないので、子供たちは家事を手伝わない。片付けもできない。
こんな状態で家庭が安定するわけもなく、部屋の中は荒れた状態になり、私が掃除や片付けをしないとさらにカオスになる。
せっかくの休日に晴れたのだが、朝からサイクリングに出かけることもできず、妻や子供たちが塾に向かった後の荒れた部屋の中を片付け、掃除し、溜まった大量の洗濯物を干す。
それが夫であり父親である私の役割なのだろう。
私立中学の受験については、夫婦で子供たちの将来について話し合った結果ではない。妻と義実家が最初から青写真を描いていて、公立中学校というルートを最初から全否定していた。
私の考えはどうなのかというと、浦安市内の公立中学の状態を見渡してみた場合、それらが決して首都圏で劣った環境ではないと思いながらも、やはり私立中学に子供たちを通わせた方がいいと私も感じる。
だが、義実家からのサポートが期待できない我が家において、夫婦共働きで中学受験に挑むことはハードルが高かった。
落ち着きのない妻が毎日のように甲高い大声を上げて子供たちを叱ったり、母親の指示に従わない落ち着きのない子供たちが甲高い大声で反抗したりと、我が家はいつも通りに気が滅入る。
この落ち着きのなさの源流を辿っていくと義母に行き着き、義母の性格を受け継いだ妻も落ち着きがなく、さらには子供たちも落ち着きがない。この人たちは黙っていることが性質的に難しく、一度、禅寺で修行した方がいいように思えるが、おそらく効果がないことだろう。
以前は、自分が理想とする家庭と現実の家庭のギャップを感じ、現状に抗いながら不満を溜めていた。しかし、もはや修正は不可能だ。ならば、現状の中で「自分が」穏やかに生活するための策を考えよう。
さて、今さらながら思うことがある。それは、人の脳が処理しうる情報量がどれくらいなのかという疑問。
仕事という場においてはより多くの情報にアクセスし、それらを分析し、以後の取り組みに活かすことが求められる。職種が違っても、そのようなスタイルは概ね同じだろう。
仕事が人生の生き甲斐になっている人がいたりもするが、私にとっての仕事とは生きるための手段だ。
仕事に意義や矜持を感じることはあっても、やはり働いて金を稼ぐことの大切さは変わらない。私は大きな借金を背負った実家で育ち、子供の頃から親の仕事の手伝いをしていた。家業が傾くと生きていくことができなくなるからだ。
職業人として生き抜くためには、情報という存在はとても重要であり、それらを脳に取り込むことは生きるための活動のひとつだと私は理解している。
では、仕事から離れた場、つまりプライベートという場における情報とはどのような意味があるのだろうか。答えにたどり着けそうにもない課題について黙々と考えていた。
もう少しで2年になるコロナ禍の社会。私の生活スタイルにおいて大きく変わったことがある。それは、プライベートな場において他者がネットで発する情報をできるだけ受け取らないこと。
自分でブログを継続しているのに、他者がネットで発信する情報について関心を持たなくなるという形は、我ながら矛盾している。
以前は興味がある他者のブログやSNSのアカウントを定期的に訪れて、色々と学んだり暇を潰すことがあった。ネットニュースについても同様。
ところが、最近では他者がブログやSNSで発信する内容への関心が削がれ、むしろアクセスすることで疲れを感じるようになった。また、ニュースについても心を波立たせる内容が多いように感じ、それらの情報を脳に入力することに何の意味があるのかと疑問を感じるようになった。
脳に入力しても何の意味もない長文の録を書き留めている私がそのように感じることは、極めておこがましいことだが。
空き時間に何となく暇だからという理由でスマートフォンを見つめてしまうという行動は、別におかしなことではないと思う。このプラスチックの板は社会に繋がる窓だ。その繋がりに疲れてしまうというのは、一体、どのような理由があるのだろうか。
けれど、プライベートにおいてネット上の情報を意識的に間引くことで、驚くほどにストレスが減ることに気付いた。
自分の人生においてより楽しいことを見つけたい、あるいは何かに困っていて解決策を知りたいという目的でネットに接続しても、そこに答えがないことの方が多い。
通販による商品の購入や電車の乗り換え経路の照会、行政サービスの確認、実店舗の検索といったソリッドな情報の場合には、ネットはとても便利だ。
しかし、個人レベルで発信される情報を他の個人が受け取るという関係は、もはや限界なのかもしれないな。
以前は、ネットで検索すると面白い個人ブログがヒットしたりもしたのだが、数年前に実施されたGoogleのアルゴリズムの変更によって、個人ブログが検索であまりヒットしなくなった。
しかも、広い意味ではコロナの影響を受けているはずだが、その内容やスタイルが大きく変わってしまった、もしくは更新が停止したブログがとても多いように感じる。
他方、SNSによって他者が発する内容を十分に受け入れることができるのかというと、それも難しい。ツイッターの短文を眺めたところで、そこから自分の頭の中で何かが展開されるわけでもない。
また、人によっては、ブログやSNSだけでなくネットを介した動画やゲームなどに興じることもある。それらによって生活が豊かになったのだろうか。
私は映画が好きで、映画の脇役に憧れて職業を決めてしまったくらいだ。若い頃はプレイステーションのゲームに没頭したこともある。
だが、レンタルビデオ店で作品を借り、ゲームショップで中古品のソフトを買っていた頃の方が穏やかだったように思える。不便だからこそ味わいがあったというか。
ネットが発達することで様々なメディアやコンテンツが便利になったが、総じてペースが速すぎるように感じる。
ならば、自らネットへのアクセスを制限すればいいという私なりの結論に至った。
ネットというツールが普及し、自分が望めば大量の情報にアクセスすることができる時代になった。同時に、気がつくと人の脳が処理しきれないくらいの情報が流れ込んでくる時代になっていた。
日々の生活で空き時間が生まれた時、それらが暇だとか退屈だと考えてネットにアクセスし、脳内を情報で埋め尽くしてしまうと、脳が休む時間がなくなってしまうのではないか。
仕事で働く際には様々な情報に接して脳をフル活動させないといけないが、プライベートではネット上の情報をできるだけ制限し、あえて昔ながらの生活に戻した方がよさそうだ。
気に入った小説を読んだり、何も考えずに音楽を聴いたり。私の場合には座禅を組んだり、考えごとに浸ったり。
昔ながらのオフラインな生活では自分の活動を自分でコントロールすることができる。だが、オンラインな生活では情報の利便性が優ってしまい余裕がなくなる。
ネットによって生活が便利になったにも関わらず、ネットによって疲れる世の中になるとは、何とも皮肉なことだ。