2021/10/31

電車という閉鎖空間と無敵の人

せっかくの日曜日に雨が降ってサイクリングに出かけることができなかったので、溜まった洗濯物を処理した後、オールロードバイクのカスタムに取りかかる。カスタム自体はほぼ完了したが、復刻版の古いフレームなので色々と微調整が必要だ。

そして、仕事が忙しくて過集中を使い続けたために肩や首がバキバキに凝っているので、トレーニングチューブで上半身の筋肉を伸ばす。トレーニングチューブは、その名の通り筋トレのための道具なのだが、ストレッチのために使うこともできることに気付いた。下手な整骨院のマッサージよりもずっと楽になる。


一段落してネットニュースを眺めてみると、世の中に騒動をもたらした御仁がさらに新たなニュースを届けたらしい。そのニュースに対して、病的なまでに上から目線な群衆が「我こそは正義」とコメントを投げ込んでいる。そのような趣味で時間を使って、さぞかし有意義だろう。

まあ確かに御仁は真面目に取り組んでいるはずなので気の毒だが、私のような団塊ジュニア世代から見ると、この騒動においてはドリフターズのコントのように鮮やかにオチが決まった感がある。

自室でスピンバイクに乗りペダルを回して汗をかいた後、シャワーを浴びるついでに風呂場の掃除を始める。

うちの妻は相変わらず風呂の使い方が汚い。使った後の床には髪の毛や洗剤が残っていて、この状態でどうして何も気にせずに浴室を出ることができるのか理解に苦しむ。

妻が専用で使っているコンディショナーが空になり、補充用の詰め替えの袋が床の上に転がっている。放置されてから今日で2日目だ。

妻は生活用品のゴミを放置する癖もある。おそらく処理するつもりがないことだろう。

しかも、詰め替えの袋の中にコンディショナーが残っている。ボトルにはまだ余裕があるのだが。状況が分からないまま残りをボトルに補充した。

私が気に入って使っている小久保のネットの中の石鹸もミミズのように細長く磨り減っているが、うちの家族たちは完全に石鹸がなくなるまで気にしない。しばらく経つと自動で石鹸が元のサイズに戻ると思っているらしい。

浴室を清掃してシャワーを浴びると、すでに外は暗くなっていた。年の瀬を感じられる冷たい外気が心地よく感じ、しかし年末年始の多忙な日々を想像すると気が重くなる。

そういえば、今日は衆議院議員選挙の投票日だった。昼間から降り続いた雨が止んだので、ミニベロに乗って投票場に向かう。

この日曜日は妻が一度も怒鳴らないという珍しい一日で、その背景にはようやく学習ペースを掴んできた上の子供についての満足感があるのかもしれないと思った。

色々とやることが多かった休日だが、穏やかに時間が過ぎていく。

スマホでネットにアクセスすると、案の定、ステレオタイプな状態になっていた。

選挙で当選確実だとか、敗北確実だとか、翌日になればきちんと結果が出るにも関わらず速報で騒ぎ立てるアレなマスコミ。

時代劇のように展開が分かる単純さに辟易する。マスコミの体質は昭和の中期から変わっておらず、今でも彼らのターゲット層あるいはビジネス上のペルソナは団塊世代の人たちなのだろう。

我が国がシルバー民主主義と揶揄される状況に陥った背景には、マスコミが少なからず影響を及ぼしている。

しかしながら、アレなマスコミはともかく、今回は様子が違う。

「選挙どころじゃないだろ!」というネットユーザーたちのツッコミが飛び交うニュースが報じられた。ツイッター上は確かに選挙どころではない状態になっている。

これがマスコミと一般市民の感覚のズレだな。

京王線の電車の中で刃物を振り回し、火を付けた通り魔がいたらしい。通り魔というよりも、もはやテロだと私は感じた。

先日、小田急線においても同様の事件が発生している。

しかも、今回の京王線の事件では小田急線の事件だけでなく、様々な事件の内容を模倣し、より被害を大きくさせるように「学習」している感がある。

ネット社会では良い情報も悪い情報も瞬時に広がり、ログが残る。検索すればいつでも情報にアクセスすることができる世の中だ。

犯人が過去の事件を参考にして凶行に及んだとすれば、さらに大きな不気味さを感じる。

セキュリティの強化が難しい電車という空間の脆弱性と、狂気としか表現しえない精神のバランスを崩した人物の蛮行。

このような人たちは、ネット上で「無敵の人」と呼ばれているらしい。卓越した能力があるから無敵なのではなくて、失うものが何もない状態だから無敵なのだそうだ。

失うものが何もないという表現について、私は同感することは難しい。心の中で様々な感情や思考が浮かんだとしても、人として失ってはいけないものはたくさんある。

その人たちだって、親や兄弟、親戚がいるだろうし、その蛮行によって他者の大切な存在まで巻き込む。

だが、人として失ってはいけない道徳や理性まで失ってしまったという意味であれば、失うものが何もないという解釈になるかもしれない。

彼らは捕まることを全く恐れていないようだし、むしろそれを望んでいるかのように思える。社会のルールや不文律が通用しない人たちは珍しくないが、他者に危害を加えるベクトルに動くので非常に危険だ。

しかも、彼らの標的は誰でも構わないという点にも恐怖を感じる。その精神構造には自他境界が存在せず自己のエリアで埋め尽くされて硬化しているはずだ。

だが、今回は事件という形で明確な姿として現れただけの話であって、往復3時間を超える電車通勤を続けていると非典型的な言動を伴う人物に出くわすことはよくある。

何もない状態でブツブツと独り言を続けながら、途中で感情を高まらせてひとりで怒っている人。

電車の中でマスクを外して泥酔状態のまま酒を飲み続けている人。

足を通路に投げ出して座る人、三人席に横向きに座っている人。

手持ちのバッグに数え切れないくらいの人形を取り付けている成人男性。

言動や身なりは普通でも、表情が非典型的というケースもある。電車の中なんて、ほとんどの人が苛ついているのであまり目立たないが、よく観察してみると明らかにヤバそうな眼をした人は確かにいる。

車内でそのような人を見かけると、私はすぐに別の車両に移動することにしている。そのような人が突然錯乱して刃物を振り回す危険性がないとも限らない。

昨今ではコロナ対策としてほとんどの人たちがマスクをしている。マスクを付けずに堂々と電車に乗ってくる人は、感覚や思考がおかしいと考えて矛盾しない。分かりやすいフラッグだな。

けれど、そのような人の隣の座席で平然と居眠りをしている人がいたりもする。もの凄い胆力なのか、たぶん大丈夫だと油断しているのか。

私は電車の乗り換えで駅のホームに立つ時には、決して先頭に立たないことにしている。正気を失っている人が後ろから押してきたら回避が困難だ。

止むなく列の先頭に立つことになった場合には、前を向かずに電車が来る方向を見つめる感じで横を向くことにしている。

しかしながら、駅のホームの先頭でスマホゾンビになってしまっている人たちはたくさんいる。電車が入ってきても何ら気にしていない。

電車や駅に関係する異様な事件が連続しているのは日本だけなのだろうかと、海外のニュースを眺めてみた。やはり、米国等においても地下鉄を中心に異常な事件が生じている。

ニューヨークの地下鉄は以前から治安が悪いことが知られており、最近では昔ほどではないという話だったのだが、再び治安が悪くなった。

短絡的に考えることは良くないかもしれないが、コロナによる社会の混乱が、無敵の人たちにおける最後の安全装置を外してしまったのかもしれない。

そのような人たちであっても、悩みや苦しみを少しでも相談することができる人がいれば凶行に及ぶことはなかったのではないか、もしくはわずかなタイミングで行動を止めることができたのではないかと思うことがある。

人を自暴自棄な行動に向かわせる大きな要因は孤独感だと思う。電車の人混みで事件を起こしたり、電車に飛び込んで死のうとする人たちの中には社会から孤立して苦しんでいる人たちが多い。

今回の犯人はバットマンに登場するジョーカーをリスペクトしていたそうだ。

おそらく彼はバットマンの本編ではなく、「ジョーカー」というタイトルの映画に傾倒していたことが推察される。主人公のアーサーは不遇な生活の中で仕事も人間関係もうまく行かず、深い孤独を抱えていた。

人は誰だって孤独な存在だが、それを受け入れることは容易ではない。SNSを使ってせめてもの繋がりを求める人がいかに多いことか。

とはいえ、今回のように無差別で他者を襲うような輩を許す気持ちにはなれない。

「自分の身は自分で守る」という言葉があるが、目の前で錯乱した人が刃物を振り回して火を付けたら、大人の男性であっても回避は困難だ。

日本は米国のように銃が身近ではないので安心していたが、刃物は町中でたくさん売られている。

大昔の日本ならば、護身用に刀を持った侍がいて、狂人が出現すれば斬捨御免だったかもしれないが、今はそのような人が居合わせるはずもない。

いくら武道に長けていたとしても、揺れ動く車内で刃物を持った狂人と戦ったら無傷では済まされないし、武器になりそうなものが車内に見当たらない。

走っている電車の中に警官や警備員を常駐させることは難しく、仮に配置できたとしたも離れた車両にいる犯人を速やかに確保することも難しい。

しかも、犯行現場から離れた場所に向かって乗客が通路を走って押し寄せてくるはずだ。

つまり、電車の中は逃げ場のない閉鎖空間であって、職業として警備を担当するスタッフがいない空間という理解になる。このデザインはあくまで乗客が正気を保っていることが前提で作られていて、通り魔の出現なんて全く想定していない。

無敵の人たちには防犯カメラなんて意味がない。最初から捕まることを前提に行動している。

電車や駅において、言動や格好が非典型的な人を見かけたら、決して近づかずに距離を取る、もしくはその場から離れるくらいの警戒心が必要だ。

「水と安全はタダ」と言われていた日本だが、もはやその考えは幻想でしかない。

通り魔に出くわす確率は限りなく小さいとか、所詮は他人事だと思わずに、目の前の人混みの中に無敵の人が含まれているという想定の下で生活した方がいい。

とはいえ、長時間の通勤地獄を耐えていると、おかしな人に出くわすことが多過ぎて感覚が麻痺してきているが。