「やるぞ」と構えを先に出すよりも、日常として取り組む
人には生まれながらの性格があって、こまめな人もいれば無精な人もいる。その違いが言動に現れる場合には、モチベーションという横文字になるのだろう。人の性格なんて子供から大人になるまで大きく変わることがないと思っていたのだが、実体験として変わることを知った。
うつ病とかバーンアウトといったダウナー系の不調に陥ると、とにかく様々なことが億劫になる。モチベーションの低下というよりも枯渇と表現した方が分かりやすい。
それでも仕事をして生きていかなくてはならないわけで、「よし、やるぞ!」と意気込む力すらなく、「仕方がない...やるか...」という感じで何かに取り組んでいた。
その状態から回復してくると、モチベーションが戻ってくるだけで幸運だと感じるようになる。同時に、モチベーション自体が限られている状況を経験することで、それを節約する工夫が身についている感覚がある。
具体的には、「よし、やるぞ!」という意気込みや構えを出さずに、日常の延長として様々なことに取り組み始めるということ。モチベーションを絞り出さないと動けないのならば、それを使わずに行動せざるをえない。
バーンアウトを経験するまでの自分においては、モチベーションの出し具合がどの程度だったのか。おかしなことだが、それを思い出すことが難しい。
おそらく、現在の日常になってしまっている家の中の掃除においては、大なり小なり「よし、やるか!」と構えた後で取りかかっていたと思う。共働き家庭の父親として家事をせねばとか、そのような気持ちもあった。
今の掃除は、飯を食べたり、風呂に入ったり、トイレで用を足すように、ごく日常のことになってしまっている。掃除をやった結果として妻の感情の噴火が少なくなるが、その日にキレて大暴れしていても掃除を続けている。
バーンアウトを起こす前の自分は、家庭や仕事における平時から行動までの過程でモチベーションを高め、気持ちのギアを変えていた感じがあった。
期限付きの仕事があったりすると、しばらくはモチベーションが湧かず、締め切りが迫ってきてから焦って取りかかっていた。
その後、衝動性が強くて気性が荒く、自己愛にも充ちていた自分の性格が燃え尽きて、その灰の中から少しずつ自分の性格が再構築されてきた。
ドラマや小説でもあるまいし、普通に人生を歩んでいたなら、自分の性格がリセットされて再起動するなんてことはないと私は思っていた。
バーンアウトは決して幸せなことではなかったけれど、その井戸に落ちる前の自分の性格が好きではなかったし、今の自分の性格の方がいい。
生きている実感があるし、対人関係については驚くほどに楽になった。
興味深いことだが、ダウナー系の不調に陥ってから生き残った人たちの中には、同じような感想を持つ人が少なくない。
バーンアウトではなくて、うつ病からのサバイバーの中には、うつを経験する前の自分よりも、今の自分の方が幸せだと表現する人がいたりもする。うつ病が寛解したからこそ言える話だとは思うが、その気持ちは分かる。
妻と結婚して義実家がある浦安に住むことになり、長時間の電車通勤、義実家からの様々な干渉、そして子育てに入って妻が家庭で怒鳴り暴れ続けたことがバーンアウトの原因だった。
もう一度生まれ変わるなんてありえない話だが、相手はともかく、同じ経験をリピートしますかと尋ねられれば固辞したい。あの地獄は凄まじかったし、そもそも義実家との微妙な関係や長時間の電車通勤は今も続いている。決して過去形ではない。
しかしながら、よくよく考えてみると、人生の中で自分の性格が変わるなんてイベントは貴重な経験だ。オンラインゲームでアバターを変えるのとは難易度が全く違う。
平安時代や鎌倉時代の修験者たちは、自分を極限まで追い込んで脳に負荷をかけ、それによって感覚や思考を変えることに挑戦していた。
自分が悟りを得たとは思っていないが、修験者たちが「悟り」と呼んでいた脳内の変化は、おそらくこのような感じなのかもしれないな。
自分の意思によって自分の性格が変わるほどの負荷を脳に入力することは困難だ。その過程には苦痛を伴い、人は自分を守ろうとして苦痛を回避する。
修験者たちの場合には、その行動の背景に信仰、あるいは悟りへの想いがあったのかもしれない。
現代では、他者や外的環境からのストレスによって脳に負荷がかかり、その結果として脳の情報伝達が変わるケースが多いはずだ。
自分が求めていないわけだから、修験者たちと比べて偶発的で不運とも言える。
私の場合には結婚して妻の実家の近くで子育てに入っただけだ。結婚式の頃の私は、その後に苛烈なストレスを受けて性格が変わるなんて想像したこともなかった。
プロセスはともかく、モチベーションがないのに行動するという思考は面白い。やる気がないのに疲れが少ないということも不思議だ。
宗教色を抜いた上で昔の高僧が残した言葉を思い出してみると、「やるぞ、という心構えを先に出して何かに取り組むのではなくて、日常からコツコツと取り組むことが大切だ」と説いたのは、道元だったと理解している。
「何か行動しようと思ったならば、やるかやらないかを判断する前に、まずは行動を始めよ」と説いた臨済の言葉も同じような意味合いだと思う。行動を始めてから中止することはできるが、好機を逃すと戻らないという意味だろう。
日本のように多種の宗教あるいは宗派がある国の場合には、多くの人たちが両親たちから同じような教えを受けたはずだ。
8月31日が近づいてから慌てて夏休みの宿題に取りかかる小学生、期末テストの直前でヤマをかけようとする中高生、デッドラインの前に徹夜で仕事を仕上げようとする職業人。
選挙が近づいてから駅前に立ち、大声を張り上げる政治家たち。
目の前の対象について、自由自在にモチベーションを発揮することができる人は少ないと思う。
躁病のようなアッパー系の疾患、自己愛性のパーソナリティ障害、あるいはその行動によって食欲や性欲といった何らかの快感がやってくるケースであれば話は別かもしれないが、「やらねば」と感じる事象についてモチベーションを出すことは容易ではない。
だからこそ、締め切りや期限といったものがあるわけだ。
大昔の賢人たちが導き出した結論は、無理にモチベーションを引き出すのではなくて、様々な行動の対象を日常の一部として捉えるという考えだ。
その背景には、平時から行動に向けて気持ちを切り替える際に行動が遅れて好機を逃すという理由があったかもしれないし、気持ちのギアチェンジによって心が疲れてしまうという理由もあったのかもしれない。
モチベーションを引き出さずに行動するためには、普段から様々なことを地道に続けるという心構えが必要になる。日常の生活の中に意味を見出す禅宗に根付いている考えなのかもしれないな。
締め切りのある仕事がやってきたら、締め切りまでの期間を計算せずに、とにかくその日のうちに取っかかりとして始めてみる。家事についても、ああ面倒くさいと感じる前に、食事や排泄と同じような当たり前の行動として始めてみる。
「よし、やるぞ!」という気持ちを避けて、何気ない日常の一部として地道に行動を積み重ねた方が疲れが少なく、良い結果にたどり着くことが多い。
大きなアクシデントを経験したことがない人から見れば、このような自己啓発的な話は馬耳東風だと思う。「そんなこと、分かってるよ。でもさ、やる気になるまでが大変なんだよ」と、話が戻ってしまうはずだ。
バーンアウトによってモチベーションが枯渇するという事態を経験したからこそ、モチベーションを節約しながら生きる癖が身に付いたのだろうか。何事も勉強だな。
そういえば、妻のスマートフォンが古くなり、バージョンアップができない状態なのだそうだ。「新しい機種を注文することが面倒だ」と妻が言うので、平日の夜に私が適当に注文しておいた。
案の定、配達された新しいスマホが休日になっても玄関先に放置されている。今度は、「新しい機種のセットアップが面倒だ」と妻が言うことだろう。
家の中の掃除が終わった後、大切な休日に妻のスマホをセットアップするかしないかを判断する前に、私はスマホの画面のフィルムを貼ることにした。気がつくとWifiの接続を進めていて、何だ大したことがないじゃないかとSIMの交換までが済んだ。
かつての私であれば、「ああ、面倒だ」とまでは言わないが、「よし、今から君のスマホをセットアップするよ」と妻に言ったことだろう。
妻が面倒だと感じていることを何の前触れもなしに私が実行すると、妻としては「おお、夫が私の気持ちを察したのか」と満足するらしい。
本日の我が家はいつもより穏やかだった。