年末の自分へのプレゼントが
ロードバイクという趣味を10年以上続けて、この趣味に飽きてしまったわけではない。しかし自分から見たロードバイク観というか、自転車生活についての考え方が今年を起点に大きく変わった感じがある。
その前兆には以前から気付いていた。ピチピチの服にメロンパンのようなヘルメットを被って派手な自転車で走るロードバイク乗りの姿を眺めて、それが格好悪く感じるようになった。
他者についてどうこう言うつもりはなくて、そのスタイルが気に入っているのなら素敵なことだ。論点はそこではなくて、自分自身がそのスタイルを続けることが嫌になった。
50歳近いオッサンが体の線が見えるようなピチピチのウェアを着て、白髪頭の上にヘルメットを被って。「俺はまだまだ若い!」と頑張ってペダルを漕ぐ。そのような自分の姿がダサい。
30代の頃、白髪頭のローディに憧れてロードバイクに乗り始めたはずなのに、いざ自分にその時期が訪れると何だか違う。当時に憧れた彼らの格好良さというのは、白髪頭になるまで生き、休日に自然体で楽しんでいる姿や、年相応に深みのある雰囲気であって、ロードバイクは一つのスタイルでしかなかったのかもしれない。
趣味なのだから、他者を意識せず、自分が良しとするスタイルで気ままに走ろうと決めた。
今では使い古した地味なウェアを着て、バックパックを背負い、愛用のクロモリロードバイクに乗って黙々と心地良い速度で走る。
バックパックの中には背骨や脊髄を保護するための専用のEVAシート。ジャージの下にはオートバイ用の肩パッド。レーパンの上に7分丈のニッカーを履き、その間には腰用のパッド。
ロードバイクで落車して鎖骨や大腿骨を骨折する人が珍しくないが、そりゃ布一枚で転べば骨も折れることだろう。それで痛い思いをして、仕事や家庭で迷惑をかけて満足か? 趣味ごときでそこまで自分を追い込む意味はあるのか?何だかおかしくないかと感じ始めた。
とはいえ、そこからロードバイクを降りてしまったりミニベロに移行することもなく、ツアラーのような形に落ち着いた。速く走りたければ速く走り、のんびり走りたければのんびり走る。季節を感じ、リラックスし、心地良く疲れる。ただそれだけでいい。
サイコンと目の前の視界だけを見て懸命にペダルを回すことはなくなった。私はレーサーではないし、レーサーがとりわけ素晴らしいとも感じない。ロードバイクであっても楽しみ方は人それぞれだ。
今のような海外プロやレーサーをモデルにしたようなサイクル業界の戦略では、いつかロードバイクブームは終焉を迎え、ロードバイクが売れなくなって、たくさんのプロショップが潰れることだろう。
この国の自転車文化はママチャリがベースになっている。ロードバイクで爽快に走るような環境は首都圏にほとんどないのだから。
その延長線上でロードバイク関連の出費も減ってきた。10年も乗れば一通りのサイクル用品に手を出してきたし、かつて続けていたロードバイク通勤において使いにくいものや耐久性のないものは淘汰された。
自分なりに良いと感じたサイクルパーツや用品はリピートで購入するが、試しに買ってみようという無駄金を使わなくなった。まあ、長く続く趣味としては良いペースなのだろう。
落ち着きがなくて言うことを聞いてくれない子供たち。共働きや子育てで熱くなって大声で怒って毎日苛ついている妻。そして家庭と長時間通勤で疲れ果てている自分。趣味があって本当に助かった。なかったら死んでいたかもしれない。
最近ではこれも運命だと受け入れているが、将来このような状態になることが分かっていたら、果たして結婚して子供を作り育てたかどうか。
この子育てのイメージ、というか現実が先に適齢期の人たちに広まったことが少子化の理由の一つではないかと思う。コスパなんて考えていたら子供を育てることはできない。
中年の独身男性の中には、結婚願望のない女性と交際を続けて寄り添う人がいたりする。あえて籍を入れないことで互いを気遣うことができるそうだ。
いわゆるDINKSの場合には籍を入れて生活を続けるわけだが、寂しい家庭なのかと思っていたら実際はそうでもなくて、共働きの子育て世帯によくある妻からのハードヒットがないという話をご主人から聞いた。新婚時代とあまり変わらないと。
とはいえ、私は父親になった。子供たちを守り育てる責任がある。今さら何を言っても始まらない。
生きることに疲れたら日々のルーティンを大切にして、生きることに飽きたら些細な変化を大切にする。20年後に生きているかどうかも分からない人生だ。悩み続けるのはもったいない。
話を振り出しに戻すと、年末が近付くこの時期にロードバイク用品の大物を買う気持ちが全くない。
私は大きな借金を抱えた実家で育ったためか、プライベートであまり華やかなことを求める性質がない。ロードバイクという趣味では金を使ってきたが、その狂った金銭感覚もそろそろ正常値に戻ってきている気がする。
ベンツだBMWだレクサスだとマイカーにこだわるつもりもない。移動できれば軽自動車どころか路線バスやタクシーで十分。
着るものは大型量販店のセール品で満足するし、食べるものはスーパーの見限り品で十分。値下がりしたパック寿司でもご馳走に感じる。学生時代や独身時代の夕食は菓子パンやファミチキだった。
妻の趣味の一つが料理をつくったり食べることなので、結婚してからは随分と食生活が改善されたが、今でも妻がいない時にはファミチキに戻る。
酒も発泡酒や缶チューハイで十分。地酒やプレミアムグレードの洋酒は確かに旨いのだが、酔ってしまうと味が分からなくなるので、特にこだわりがない。
アッパーミドル層が多い浦安の新町に住んでいるのは、市内に保育園の空きがなくて新町の保育園に決まってしまい、送迎が面倒なので引っ越しただけのこと。別に住みたくて高い住居費を払っているわけではない。
引っ越した当時は美浜地区の古い団地に住んでいて、とても静かでのんびりしていて住みやすかった。あの団地の方が私は気に入っていた。
新町の海沿いの戸建てや高層マンションにも全く興味がない。実際はローンでカツカツになって貯金が少なく、小遣いを絞られて困っているお父さんたちが多かったりもする。
新興住宅地によくある父親同士の学歴や職歴での見栄の張り合いにも関心がない。そういったことで勝った負けたと思ったところで、子供たちはすぐに大きくなり、張り合っていたこと自体が無意味になる。
となると、大なり小なり父親たちが表立って言えないが関心を持っていることであろう高級な風俗にでも行ってみるという気分転換もありそうだが、あいにく私は潔癖性の気があって、風俗どころか銭湯や温泉で他者が近くにいるだけで気分がよろしくない。
昨今では他国から持ち込まれたであろう性感染症が増えているそうで、私はそういった病原体がとても嫌いだ。働く側としても大変な不安だと思う。
そもそも男性が女性に求める欲求というものは心の繋がりと体の繋がりの両方であって、その一方を金で解決するのは個人的に違う。しかし、両者を家庭外で充たそうとすれば不貞になる。
わが...いや、一般論として夫婦の営みがなくなって、妻にとっての愛情が生殖のための手段でしかなかったのかと気づいたとしても、煩悩の向こう側の悟りを開くしかない。それが中年親父の自己制御なのだろう。
キャバクラに通って女性とLINEアドレスを交換して喜んでいる市内の父親たちは元気だなと感じる。それどころか家庭の外に彼女をつくっている父親さえいる。驚愕すべき性欲だ。その取り組みに費やす時間と金と家庭のリスクで消耗しないのだろうか。
すでに男の更年期というミドルエイジクライシスらしき時期を過ぎ、地道に取り組んでいるのは仕事と子育てとペダリング。まるで修行僧のようだ。
とどのつまり、現時点の私の人生では、ロードバイクという趣味を除くと、年末に自分へのプレゼントすら思い浮かばないほどの状況なのだろう。
それが無味乾燥なものなのか、あるいは概ね充たされたものなのかは分からず、それを続け、数十年経てば人生も終わる。
結局、生きることに疲れているだけではなく、生きることに飽きているのかもしれない。
オートバイクの免許を取って、一人でキャンプにでも行けば人生に何か変化が生まれるのだろうか。
まあ、もう少し我慢すれば温泉宿に一泊二日でロードバイクのライドに行くくらいならできることだろう。一生は短いというが、老いのスピードを考えると丁度いい長さだと思う。ここからあと100年もあったら耐えられそうにない。