叱り続ける子育ては子供の自主性の芽を摘む
学生時代に銀杏の紋章を授けられ、父親同士のマウンティングでも負けることがない仕事に就いてはいるが、子育てや受験については無様なほどに無力な父親になってしまっている。
決して暇とは言えない責任ある仕事に加えて、往復3時間を超える電車通勤。これで子供たちの勉強まで世話をすることができる父親がいたとすれば、かなりの超人だと思う。
しかも、緊急事態宣言が解除されて、ワクチンの接種率も高まり、電車や駅が平時のような状態に戻っている。それはより良い方向に社会が進んでいるわけだが、通勤についての個人的なストレスとしては再び増悪している。
コロナ禍で様々な制約があったけれど、電車の通勤地獄については苦しみが緩和されていた。その苦しみが再び戻ってきた。
自宅がある街にディズニーがあることを誇っている住民がいたりもするが、ディズニーの入場者を制限していた時期はとても平和だった。
キャリーバッグを引きずりながら駅や街中に押し寄せる様々な方言を話す人たちが明らかに減っていたので、その街で住む自分としてはとても楽だった。
リモートワークあるいはテレワークが推奨されて、電車の通勤客も驚くほどに減った時期はとても快適だった。
往復3時間を超える浦安から都内への通勤において、自分は通勤時間というよりも人混みに苦しんでいたことを実感する。
そして、休日がやってきて目を覚ますと、すでに正午を過ぎていた。明らかに心身ともに疲れ切っていることが分かる。
さすがに昼まで寝ているのは人としてどうかと思ったので、すぐに目を覚ますことにした。その方法は簡単だ。眠るときに装着しているハイスペックな耳栓を取り外すだけ。
すると、鼓膜を劈くような甲高い咆哮が響いてきて、瞬く間に私の意識が覚醒し、心拍数が急上昇する。
妻が子供たちに怒って大声を上げることが標準仕様という家庭は異常だと思うのだが、我が家ではこれが日常の姿だ。
数え切れないくらいの夫婦喧嘩を繰り広げ、離婚するかどうかという瀬戸際で私はそのまま夫婦として連れ添うことを選択した。
その選択は、妻のためではなくて子供たちのためだ。
妻が激高して子供たちに暴力を振るうことがあれば、夫として私が止めなくてはならないし、あまりに度が過ぎるようであれば逮捕されても仕方がないと思っている。
休日に目を覚ました後に私が行うことは決まっている。自宅の掃除や片付け。
夫婦共働きで子供たちが中学入試を受験する場合、ただでさえタイトな生活はさらに厳しさを増す。
平日の家の中は散らかり放題になるし、掃除も十分に行えない。それは全ての世帯に当てはまるわけではなくて、そもそも妻は掃除が苦手で、私は掃除をするだけの余裕がない。
ということで、家の中の埃をダスターで拭き取り、水回りを掃除し、トイレを掃除し、子供たちの上履きを洗い、段ボールゴミをまとめ、とにかく様々な箇所を片付ける。
それだけで夕方になるくらいだ。平日に十分な掃除をやっていないのだから、結果として休日に負荷がかかる。休日というのは名前だけで、実際には休養になっていない。
だが、掃除に励んでいると気持ちが整理されるので、疲れてはいるが大切なことだなと思う。禅宗では掃除が大切な取り組みとして位置付けられているし、あまり苦にはならない。
黙々と家の掃除を続けていると、様々な思考が浮かび上がってくる。
自分をバーンアウトにまで追い込んだ理由のひとつである妻の荒々しい家庭内での言動について、私は寛大に受け止めるつもりはない。だが、このような状態になった責任は私にあると思うようになった。
私と結婚していなければ、ずっと独身だったと妻は言う。私に出会えたことが貴重な機会だったと妻が感謝しているのではなくて、結婚して子育てをするようなタイプではないということ。
現に、妻の妹は独身のまま義実家にずっと住み続けて、いわゆる子供部屋おばさんになってしまっている。義妹は四十路が見えてきているのに結婚する気配がないし、このような女性と結婚した男性は大変だろうなと思う。
結婚については社会で生きる上での制度、子育ては社会における不文律、夫婦の夜の営みは生殖のための手段。妻が考える結婚生活と私が考える結婚生活の概念において、大きな解離があったことは否めない。
すでに小学生になった子供たちに対して、妻は火山が噴火するかのように感情を爆裂させて怒鳴り声を上げ続ける。
普段から怒り続けているので、顔の表情が怒り顔のまま固定されてしまって戻らなくなってきた。人の生き様は顔に刻まれる。
では、どうして妻が子供たちに対して怒るのかというと、子供たちに自主性がないと指摘しているわけだ。
私は何度も言ったはずだ。子供を叱るだけで褒めない子育ては、子供の自主性をスポイルしてしまうと。
子供の自主性を伸ばすためには、早い話がモチベーションを上げることだ。何についてモチベーションを上げるのかというと、「自分自身が成長していることを喜ぶ」という感情を育てることだ。
その感情は子供に限った話ではなくて、以前は「モチベーション3.0」と呼ばれたことがあったが、インセンティブを越えたところにある「やる気」を引き出すことが重要になる。
すでに社会的な問題になっている「ブラック職場」においては、モチベーション3.0どころか、報酬や昇格といったインセンティブによる動機付けであるモチベーション2.0すら用意されていないことがある。
そこにあるのは、組織としての目標という枠に個人を填め込み、圧力と罰と苦痛によって従わせるという前時代的かつ動物的なシステムだ。
怒鳴り声で矢継ぎ早に延々と対象を批判し続け、「これから、どうするんだ!?」と答えを用意せずに詰問し、対象が涙を堪えながら必死に絞り出した返答に対して、さらに矢継ぎ早に大声で批判する。
そのようなやり方で人のモチベーションが上がるはずがない。戦時下で捕虜の人格を崩壊させて洗脳する方法と酷似している。
大戦後のシベリア抑留では、捕虜の政治的思想を変えるために同様の精神的な拷問が実際に行われていた。かつての警察による違法な自白の強要においても同じようなことが行われて問題になった。
職場における部下の管理においても、家庭における子育てにおいても、そのように威圧的な詰めによる人格への干渉、および洗脳に近い矯正は明らかにおかしい。
歪なプレッシャーは、立場が上にある人の感情の放出であったり、自己満足に過ぎない。
激しいプレッシャーを受け続けた子供は、自分で考えて行動することを嫌がるようになる。なぜなら、自分の行動が常に否定され、成果を挙げたとしても褒められることがないからだ。
仕事であれば辛うじて転職することができるかもしれないし、その職場で心身を崩壊させて倒れて働くことができない状態になるかもしれない。
他方、子育てにおいてブラックな躾を続けていると、親から言われるまで動けない子供になってしまう。私はそれを恐れたし、何度も妻に対して忠告した。
夫がバーンアウトで倒れても気にせずに自分の怒りが収まるまで追い込んできたり、会話のキャッチボールが成立しなかったり、一部のことに異様なまでに執着するといった点から考えてみると、妻の自他境界そのものが他者から干渉や矯正を受けている可能性がある。
妻の人格形成に介入したのは誰なのかなんて考えなくてもすぐに分かる。未だに親離れができず、夫よりも実家を優先するような配偶者なのだから。
妻が幼かった頃、義母はこのように甲高い怒鳴り声で子供を叱り、詰問し、追い込み、洗脳に近いやり方で妻の思考に鎖を付けてしまったのだろう。
しかし、この多忙な仕事と通勤時間の長さでは、私が家庭にコミットするだけの余裕がなかった。
その状況を計算した上で妻や義実家が私の世帯を浦安に引っ張り込んだとは思えない。そこまで頭の回転が速い人たちではない。
しかも、家庭に私がいてもいなくても、感情的になった妻は暴れ放題だ。心にブレーキがかからず、激昂し、子供たちや夫に対して鬼の形相で怒鳴る。
結果、この有様。
上の子供については、自主性を完全にスポイルされてしまった。
妻としては、どうして子供たちに自主性や自己管理が足りないのかと怒り続けているが、その状態を引き起こした理由が自分にあるなんてことに気付くはずがないだろうし、気付いたところで認めないことだろう。
何をやっても母親から褒めてもらえず、ミスをすると大声で怒鳴られるような家庭において、子供が自分で考えて動くと妻が思っているようなら、それは大間違いだ。
そのように頻繁に子供たちを叱り続けていたから、子供たちは母親の指示を受けないと不安になる。
それは我が家に限った話ではない。未だに親離れができない妻と子離れができない義母の関係を見てもよく分かる。
この二人はすでに中年と老年に差し掛かっているにも関わらず、共依存の関係になってしまっている。そして二人とも声が必要以上に大きくて喧しい。
やはり義実家がある浦安に引っ越したことは大間違いだった。
だが、家庭から視野を広げ、さらに時間軸までを取り去って俯瞰してみると分かることがある。
夫婦の生活、あるいは子育てについて適性がない女性に対して求婚し、結婚や子育てのステージに連れて行ってしまったのは私自身なんだ。
今になって自分の判断を悔やんでも仕方がないが、私が求婚せずに妻が独身のまま過ごしていれば、義父母と二人の子供部屋おばさんの状態のまま、穏やかに時間が流れ、全員が老い、新しい世代が生まれないまま、家全体が朽ちたことだろう。
しかし、私の判断によって、その後の展開が大きく変わり、子供たちの生き方にまで影響する事態になった。それは深刻なことだと思う。
上の子供は家庭での家事も親の手伝いもできないし、自分の身の回りのことさえ十分にこなすことができない。決まった時間に起きて、決まった時間に眠ることさえ難しい。
家庭における親の手伝いと言えば、風呂の湯張りのスイッチを押すことくらいか。風呂掃除なんて一度もやったことがないし、そんな暇があるのなら受験のための勉強をやれと妻が主張する。
しかし、これから中学生になるというのに、身の回りの家事がほとんどできないという育ち方は、勉強ができたとしても立派だとは言えないし、そもそもの華々しい学力がないだけに父親として不安になる。
このような生活の価値観を妻に刷り込んだのは誰だ?
どう考えても義母だな。この人は成長段階でおかしな家庭内矯正を受けたのではないだろうか。妻と同様に会話のキャッチボールが成り立たない。
本音と建前を使い分けて、外面を取り繕っている時にはよく喋るけれど。
この連鎖を断ち切る必要があったのだが、私が対応しうるテーマではなかった。妻のこだわりの強さは、発達障害や洗脳あるいは信仰のレベルだ。話し合って軌道を修正しうる程度ではない。
結婚生活にあまり向いていなかった妻の生き方が、そのまま子供に引き継がれてしまっているような懸念がある。私のように間違って結婚する人が現れる可能性があるかどうかも不安でしかない。
中学受験で熱くなるのは我が家に限った話ではないと思うのだが、中学生になった後でどうやって子育ての軌道を修正していくのか、父親としては悩みが絶えない。
しかし、その原因は妻の内面に気付くことができなかった私の判断の甘さによるものだ。その過ちを自分の人生をかけて背負うだけのこと。
妻が子供たちを批判し叱り続けるのであれば、私は子供たちを認め褒め続けることにする。
子供たちを叱ることは時に必要だが、度を超えた叱責は子供たちを潰してしまう。このままでは子供だけでなく孫の世代にまで影響が生じかねない。