中学受験モードと言われましても
しかも、上の子供の中学受験が済んでいないにも関わらず、下の子供の受験準備が始まったので、我が家はまるで戦時中のようなテンションが張っている。夫婦共働きはよくあるとして、子供が小学校に上がったら仕事のペースを上げると言い放った妻が、本当にペースを上げて残業までやってくるのだから唖然とする。
妻は毎日苛立っていて、間欠泉のような感じで甲高い怒鳴り声を上げて子供たちを叱る。ずっと怒り続けることもある。
加えて、以前から夫婦の会話が少ない我が家ではあるけれど、私と妻が会話する時間は平日は5分間、休日は10分間くらい。
会話が開始してから終了するという全体の時間を小刻みに計測すると、それくらいの時間になる。どちらかが発言して、どちらかが答える。その往復が1回もしくは2回くらいだろうか。
それ以上の回数の会話を続けると、すぐにテーマがずれて言葉のキャッチボールが成立しなくなるので、私は意識して会話を中断して自室に引きこもることにしている。
妻や子供が志望校について話をしていたところで、校風だとか雰囲気だとか、そういったことについて私は関心がない。
むしろ、私が何かを言えば、妻から「あんたは何もやっていないだろ」と突っ込まれるわけで、不用意に発言したくもない。何もやっていないんじゃなくて、何もできないんだよ。
1日で3時間以上も通勤で浪費されたら、体力も気力も全く残っていない。
余裕がないのは妻も同じで、家の水回りや玄関先は酷く荒れている。平日はほぼ放置なので、週末になってから、それらの掃除を私がやっている。
どこまで酷使させれば気が済むのだという憤りを飲み込んで、自室で耐えて、再び職場に通う日々。
まあこれが望んだ家庭像なのかというと、全く違う。こんな生活を望んで家庭を持ったわけではない。
だが、そんなことを不満に思ったところで時間は流れるし、離婚寸前だったところで踏み留まった以上は耐えるしかない。
妻や子供としては様々な価値観があって、様々なこだわりがあるのかもしれないが、父親である私としては、それぞれの私立中学校のパンフレットの最後の方に掲載されている入学金と年間の授業料、そして中高一貫で卒業した後の進学実績が気になる。
いくら魅力的な私立学校であっても、中学入試の偏差値の割に大学への進学実績が芳しくない学校には興味がない。
制服のデザインだとか、クラブ活動だとか、修学旅行だとか。しかし、そういった細々したアドオンには全く関心がない。修学旅行に至っては、その内容が派手になればなるほどに親が金を払うだけのことだ。
中学受験について私が妻に対して強く望むことはないけれど、あくまで大学受験が職業人生の岐路になる。
就職活動においては、早い話が学校のレッテルと資格によって採用が決まると私は考えている。
中学受験で渋幕に合格したところで、大学がマーチであればその人はマーチというレッテルが貼られる。
それがその人の能力を示すわけではない。にも関わらず、この社会は人間に張られた学歴というレッテルで対象を判断するわけだ。
学位や国家資格については職業人としての必須要素になってくることが多いので、積極的に取得したほうがいい。
高い学歴があって、他者と区別しうる学位や資格があれば、就職活動は全く難しくない。
大多数の他者と違う場所に受付窓口が用意され、いくつもある採用段階がスキップされ、最終面接が終わると葉書やメールではなくて、すぐに電話がかかってくる。複数の職場に採用が内定してしまい、どちらを断るのか苦労することもある。
それができなければ、就職活動で十把一絡げにされて並ばされて採用試験を受け、書類選考だけでお祈りの葉書やメールが連続して届き、靴を磨り減らして何度も頭を下げて、ようやく働く場所を見つけることが多い。
子供たちの中学受験も大切なのだが、入試の偏差値の高低だけではなくて、大学入試やその後のキャリア形成までを視野に入れて考えたい。
それが夫であり父親である私の気持ちなのだが、妻としては目の前の中学入試に合格することが目的のようになり、私は頼りにならない存在だと決めつけて、勝手に話を進めてしまう。
それは当然だな。中学入試をクリアしないと大学入試に進めないだろと言われればそれまでだ。今の私に子供たちの勉強まで世話をする余裕もない。
なにせ通勤だけで往復3時間以上もかかっている。その状態で十分な稼ぎを維持して、家庭のためにも尽くせというのなら、それは無理な注文だ。
現在の家庭の生活を支えているのは私であって、自分が倒れたら私立中学どころの話ではない。
そもそも、中学入試の負担が大きくて夫婦の会話すら十分ではない。これが幸せな家庭の姿なのだろうか。夫婦の生活というよりも、血が繋がった子供たちを一緒に育てる同居人という感じだ。
子供たちが志望校に合格して先に進んだとして、それまでに費やされた時間を振り返ってみると、この夫婦に何が残ったのだろうかという展開になると思う。
夫婦共働きで複数の子供たちを育て、しかも近くに住む義実家は頼りにならずに核家族状態、さらに夫は望まない長時間通勤、その上で子供たちが立て続けに私立中学を受験するわけだから、余裕がなくなるのは自然なことだ。
この状況で子供たちの受験や入学先についてまでコミットすることができる父親は凄いよなと私は思う。子供のことよりも、自分の仕事の方を優先してしまう。なぜなら、仕事によって家庭が維持されるわけだから。
この状況で私が大切にすることは何だろうか。
妻の愚痴を聞くことか。一緒に子供の偏差値について悩むことか。ただでさえ浦粕住まいで正気を失いそうなストレスを浴び続けているのに、さらにストレスを増やしたら間違いなく倒れる。
妻に対して反論することもなく、自分はひたすら職場に通い、家庭が安らぎの場でなくとも倒れないように自分のコンディションを維持し、金を稼ぎ、金を家に入れ、消耗し、老いる。
父親の心身の維持はセルフサービス。疲れようと悩もうと、父親なのだから自分で何とかせよということだ。
何とも虚しい生き方だと思いはする。中学受験には大人たちの狂気とさもしさが漂う。
けれど、この道は数え切れないくらいの父親たちが通った道で、今も数え切れないくらいの父親たちが歩んでいるのだろう。
個々の気持ちが共有されることはなく、それぞれの父親が自分の心の中に気持ちを押し込めて、それでも時間は流れ続ける。
あまり真正面から受け止めすぎず、とりあえず身体を壊さずに働き続けて金を稼ぐこと。父親としてはそれで十分だと私は思う。