親ガチャと子ガチャ
最近では、「親ガチャ」というワードが話題になり、「それならば、子ガチャもある」という意見を堂々と発信する脳科学者まで現れている。彼は科学者という触れ込みだが、学術誌等において十分な業績があるとは思えない。そういえば、メディアでよく登場する社会学者や感染症学者についても同じような印象がある。まあ、テレビなんてこんなものだ。
「ガチャ」とは、私が知る限りはコインを入れてハンドルを回して出てくるカプセルトイのことだろう。子供の頃はガチャガチャと呼んでいた。
ネットのソーシャルゲームが流行してからは、同じようにアイテムが得られるシステムが「ガチャ」と呼ばれているらしい。
それらに由来して、子供がどのような親を選んで生まれることは不可能であり、本人の実力や努力以上に親の能力や財力によって人生が左右されるという意味で、「親ガチャ」というフレーズが生まれたようだ。
「親ガチャだけではなくて、子ガチャもある」とか、「結婚自体は自分で選んだのだから、夫ガチャや妻ガチャという表現は間違っている」とか、まあ様々な意見がネット上に氾濫しているようだ。それらの議論を遡っていくと哲学に行き着くと私は思うわけで、その答えは人それぞれだと思う。
親ガチャとは、まさにその通りだなと感じる。私の両親は大学に入ったこともなく、私が物心ついた時には大きな借金を抱えて自営業で生計を立てていた。
両親は祖父が立ち上げた小さな会社を引き継いで経営していたのだが、その時点で赤字が膨らむばかり。私が中学生くらいの頃に会社を畳んで自営になり、両親としては借金を返すことが生きることの目的になっていたように思えた。
当然だが、私が大学を受験しようとしても塾に通うだけの金はなかったし、大学に入学した後も金に苦しんだ。学生時代に借りた奨学金の返済の目処が立ったのは、四十路に入ってからだ。奨学金については親に全く頼っていない。
大学に進学すると、金持ちの子息が派手な生活をしていて羨ましく感じたことはあったし、親が大学教授とか医者とか大企業の幹部とか、まあそういった人たちは凄いなと思った。
一方、子ガチャという表現についても分からなくはない。「えっと、学力の偏差値が65くらいで、身長は平均よりプラス10cm、スポーツ万能、性格は穏やかで明るく...」といった感じでオーダーメイドで子供が産まれるはずはなく、育ってくると親に似てくる。
我が家の場合、経済的な環境という点では、子供たちは親ガチャでそれなりのカプセルが落ちてきたという解釈になる。生来の地頭という点では、あまり優秀な親ガチャに当たったようには思えないかもしれない。
私は銀杏の紋章を持っているが、おそらくこれはASDのような発達障害がこじれて記憶能力や言語能力などに影響を与えていただけの話で、世間一般の頭の良さではなかったのではないかとオッサンになってから気付いた。
家のどこかで埋まっている学位記は、学歴社会のバグのようなものなのだ。
では、我が子たちの勉強の成績が際立っていないからといって、私が「子ガチャに外れた」と思っているのかというと、そんなことはない。どんな子供が生まれたとしても、親は子供を育てる責任がある。
勉強が得意な子供が欲しければ、勉強が得意な夫もしくは妻と連れ添うことが手っ取り早い気がしてならない。つまり、子供が生まれる前の段階でカプセルトイの自販機の中身がある程度は決まっていて、そこからは遺伝の法則によって確率の高低が生じるという話になる。
しかしながら、親としては鳶が鷹を生むという展開を期待してしまうわけで、子供に過度な期待をかけてしまったりもする。また、子供に発達障害の徴候があったとしても、その性質はギフテッドであり、特定の分野において類い希な才能を発揮して、将来はクリエイティブな世界で活躍することを望むことだってあるのだろう。
だが、私なりの考えとしては、親ガチャとか子ガチャという議論そのものがあまり意味をなさない気がしてならない。それは単なる個人的な考えでしかないけれど、生きる中で経験することの多くが確率論的な要素に左右されていると思う。
努力次第で何かが変わることもあるけれど、その当時は気付いていなかったこと、あるいは途中から変化することもあるわけで、往々にして自分が頑張ったところで仕方がなかったという話もある。
夫ガチャや妻ガチャを否定する人たちは、自分の意思で結婚を決めたのだからガチャではないというけれど、交際時に隠していた性格や素行などが結婚後に浮上することだってある。
エリートサラリーマンの男性と結婚したと思ったら、四十路で脱サラして無職になって生活に苦しむとか。優しい女性と結婚したと思ったら、子育てに入って気性が荒くなって家庭内暴力を繰り返すとか。
幸せな夫婦と不幸せな夫婦、離婚した元夫婦。そのような男女の組み合わせだってガチャだと解釈してもおかしくない。
夫婦仲が冷え切って離婚し、別の妻ガチャを引き直す男性がいたりもするが、もの凄い馬力だと思う。
そう考えると、義実家ガチャ、上司ガチャ、部下ガチャ、住宅ガチャ、自治体ガチャ、通勤帰りのコンビニで買ったハイボールガチャ、トイレットペーパーガチャなど、数え切れないくらいのガチャを回しながら生きているのだな。
しかも、ガチャのハンドルを回した瞬間は人生の岐路としては遅いのではないか。どのカプセル自販機の前に立つのかという時点で確率が大きく変動する気がしてならない。
とはいえ、「どんなガチャが出てきても、前向きに生きることが大切なのさ!」なんて崇高なことを私は考えない。良い運命や偶然を良いガチャと表現するなら、良いガチャが出た方が幸せだと思う。
かといって、自分が望むガチャばかりが出てきたら、それはそれで人生が楽しくない。最初から最後まで幸せなストーリーの映画なんて、途中から眠くなるだけだ。
それと、親としては、子供に対して「子ガチャに外れた」と言ってはいけないと私は思う。なぜなら、その子ガチャを引いたのは、子供ではなくて親自身だから。親の都合で子供をつくっておいて、その状況に対して不満を投げかけても仕方がない。
他方、子供たちが「親ガチャに外れた」と感じることがあったとしても、その感覚は人生が進むと変わってくるような気がする。
たとえ親に華々しい経歴がなくても、子供たちが満足するような環境ではなかったとしても、親が子供たちを地道に育てていれば、そのうち子供たちが親の有りがたさに気付いてくれるはずだ。それを知るのは、子供たちが親になった時だと思うけれど。