2021/09/07

サイクリングで食べる肉まんが旨い季節になってきた

始める前は目的地までの道程がとても長く感じてやる気を失うくらいだが、少しずつ地道に進んでいればいつかはたどり着くことばかりだな、何事も。ということで、バラ完からの組み立てを始めていたオールロードの自転車も完成が近くなった。

あとは、チェーンが暴れた時のためのフレームプロテクター、それと小さなバッグやスペアタイヤなどの取り付けを残すのみ。外気が涼しくなってくると年末が見えてきて、サイクリングの最中に食べる肉まんが旨い季節になってきた。


今を生きている中で自分なりに最も気をつけていることがある。それは、SNSで拡散されるデマだけでなく、メディアの報道についても鵜呑みにせず、一喜一憂しないこと。

特に新聞やテレビ、ネットニュースが迷走していて、多くの人たちの精神に負荷をかけている。

マスコミが害悪だ、ゴミだと言っているわけではなくて、彼らはもはや立ち位置を見いだせなくなってきているのではないか。

個々の社員はまともであっても、その組織が総じてどのような方向に進むのか、あるいは社会において何をなすべきか、さらには営利企業としてどのように立ち振る舞うのかといった様々な要素を抱えて混乱しているように感じる。

流行病をめぐる黒い霧は、実戦投入された最新の技術によって間違いなく脅威が消えようとしている。しかし、黒い霧に乗じて利益を得ようとしていた人たち、あるいは状況を真正面から受け入れようとしない人たちが、自分たちで同じようなものを作り出して周りに広げているように感じる。

コロナの感染者数が増えると気分が良くない。それは誰だって同じだろう。しかし、現状としては、各医療機関の病床の占有率の方が重視される事態だと思う。それについては報じることなく、とにかく感染者数を報じて、一体、何の意味があるのだろうか。

もはや、そのようなステージはとっくに終わっている。

かといって、ワクチンの接種が行き渡っていない現在では、可能な限り感染の拡大を抑制する必要もある。そういった煮え切らない状況が続いているわけだが、近い将来、かつてのように元町に行って旨い料理や酒を堪能する日が確実に近づいてきていると思う。

ただの風邪ではないウイルスが広がってきたのなら、それをただの風邪にしてしまえばいい。

それにしても、昨今のネットニュース、とりわけヤフーニュースにアクセスすると、気が滅入るような情報ばかりだな。人々が必要としている情報を伝えないことも報道の自由なのか。

ヤフーはニュースを選別してまとめているだけだ。オリジナルの報道において心を沈ませる内容が氾濫しているので仕方がないのだろうか。

このようなニュースを閲覧していて心が穏やかになるはずがない。

日本ではマスコミ業界の人たちは高給取りのイメージがある。しかし、米国や欧州では所得が低くて不安定かつ過酷な仕事という位置付けになっている。大規模なリストラも多々生じている。

日本においてもいずれは同じような状況になることだろう。今のメディアは、朝食時に父親が新聞を広げ、家族が集まってテレビを見るという昭和のスタイルに慣れた団塊世代を中心としたシニアに支えられている。

働き盛りの人々たちからの信頼を得るという大切な機会だったにも関わらず、逆に日本のメディアは自分たちの行動によって信頼を失う時期を早めてしまったのではないか。すでに信頼がなくなっていて、人々からの批判が激しくなり、相手にされなくなってきたとも言えるが。

マスコミはともかく、世界に押し寄せた新興感染症の脅威が落ち着いてくれば、数年前のような日常がやってくる。

空を見上げれば秋の訪れを感じるし、マスコミが何を報じようと、人々は平時に向かって歩を進めている。

ワクチンの接種が始まれば多くの人たちが真面目に予約を取って接種し、子供たちはきちんと感染症対策を学び、最近では老人たちが穏やかな表情で散歩を楽しんでいる姿を見かけることも多くなった。

医療機関の負担は大きく、ようやくピークアウトの兆しが見えてきても、たくさんの患者が入院している。

世の中には様々な人がいて、平時に戻すための取り組みについて逆に動くような理解不能な輩もいる。そういった人たちの存在については決して忘れないことが大切だが、現時点ではその人たちの自己責任として無視するしかないだろう。

社会が混乱して人々の心の闇が見えたような気になるが、ストレスがかかれば誰だって苛立ち、気分が落ち込む。

明らかにおかしな人たちをネット上や現実の世界で見かけたりもするけれど、社会全体のストレスがきっかけとなって元々の性質が発露したと考えた方が分かりやすい。そういった人たちが社会にたくさんいるという理解だ。

そして、再び社会が落ち着けば、人々の心も穏やかになる。

よくよく考えてみると、大人がワクチンを接種することで免疫を獲得すれば、子供にとっては他の風邪コロナと同じような状態なわけだ。

マスコミとしては政治や体制に対する批判と絡めて必死に社会を煽っているようだが、ワクチンの接種によってコロナがただの風邪になったのであれば、うろたえる必要はない。

彼らは重箱の隅をつつくように様々なことを報じているのだが、とりわけコロナ関連では自分たちの思惑と恥を隠さないようになってきたな。

その情報が本当に正しいのかどうか、何らかの意図によって切り取られたり偏っていないかを人々が判別する必要がある。

行政としては社会を平時に戻すための計画の立案が始まっている。このまま社会が混乱し続けていると、感染症によるダメージよりも経済のダメージが大きくなりすぎるからだ。

また、旅行を楽しんだり、旨い料理や酒を楽しむことは、生きる上でとても大切なことだ。

この時期だけは我慢してほしいというタイミングで羽目を外すパリピたちには辟易するが、そのようなモチベーションは誰にでもあるはずだろう。

さて、組み上がってきたオールロードバイクを眺めながら、これからどのようにサイクリングを楽しもうかと、ぼんやりとした考えをめぐらせてみる。

医療機関の病床の占有率についてはリアルタイムで公開されていないようだが、行政としては可能な限りの情報を集めて分析していることだろう。

本来ならばマスコミが報じるべき内容だが、彼らにそこまでの情報の収集や分析の能力があるとも思えない。馬鹿にしているわけではなくて、記者会見などの情報を自分たちなりにまとめて、それを発信するくらいの力しか残っていないのだと思う。

とても分かりやすいマーカーとしては、緊急事態宣言の解除だろう。医療の逼迫や感染の拡大が解消されてくれば、いつかは宣言が解除されるはずだ。

そして、宣言が解除されると人々の活動が活発になって感染が拡大し、再び社会のテンションが張るという繰り返し。

しかし、その繰り返しの中で多くの人たちのワクチンの接種が完了し、感染しても重篤化しないような状態になり、おそらくコロナについての法的な位置付けも下がり、いつかはインフルくらいの扱いになるのだろう。

ただの風邪のコロナはいくつかあるが、それらについては子供の頃に感染しているので、今の大人たちがかかっても発症しなかったり、発症しても軽い症状で治る。

新型コロナについても、そのような状態になる日が近づいているはずなのだが、最初に刻まれた印象はなかなか消えない。

現在ではコロナが空気感染することが分かってきているにも関わらず、ほとんど意味がないウレタンマスクを付けて電車に乗っている若者や中年たちがたくさんいる。

ウレタンマスクで十分だと頭に刻まれると、情報がアップデートされても取り入れようとしない。それも人の思考のひとつなのだろうな。

スパコンのシミュレーションがいかにお粗末だったのかについても実感した。スパコンが高性能であっても、それを操作する研究者が感染症の素人であれば、間違った結果を出すことになる。ウレタンマスクの効果についての計算は大間違いだった。

まあとにかく、医療機関に押し寄せている重篤患者の数が減ってくれば、やっとサイクリングに出かけることができる。

冬前に再び大きな感染拡大の波がやってくるかもしれないが、タイミングを逃すことなく走りに行きたいものだ。

久しぶりに千葉県北西部の谷津道を走り、途中のコンビニで肉まんを買い、それを頬張りながら空を眺めてみたいな。いつものアメリカンドッグも食べたい。

その後、刈り取られて寂しい稲田を眺めるかもしれないが、我慢を続けた後でのサイクリンリグが爽快でないはずがない。

10月になれば気温がさらに下がり、11月や12月のサイクリングは寒さをこらえることになる。その寒さが楽しみだ。

そういえば、谷津道を走っている時に何軒かのラーメン屋を見かけたな。気兼ねせずに立ち寄って空腹を満たす機会がやっと訪れるのか。なかなか味わい深い。

先日、この街に住んでいるサイクリストから「夏と言えば梨でしょ」と、市川市の名産の梨をもらった。皆でサイクリングに出かけることができないけれど、気分だけでも夏という感じにしたかったのだろうか。とてもありがたいことだ。

「以前のように、サイクリングがてら、松戸市内の農家までネギを買いに行きたいですね」と彼は私に言った。

農家の人たちが当日の朝に収穫したネギを鍋に入れると、鶏肉や豚肉に負けないくらいの旨さとインパクトがある。

しかし、昨年の冬は、そのようなことを口に出すことさえためらわれた。

やっと、長いトンネルの向こう側に小さな光が見えてきたように感じる。

浦安市内が液状化で崩壊した時は、1年くらいの期間はサイクリングに出かけることが難しかったように記憶している。いや、半年だっただろうか。

その当時に我慢していた期間がどれくらいだったのかについても、10年くらい経つと分からなくなっているし、辛かったという記憶もほとんど残っていない。まるで夢の中の話のようだ。

今、サイクリングに出かけられなくて辛く感じていることだって、しばらくすると夢のような記憶になり、生きている時点での感覚や思考が主体となってしまうことだろう。

サイクリングに限った話ではないが。