2020/01/29

タクシー乗り場で相合い傘

平日の深夜。仕事帰りの私は東京メトロ東西線に乗り、浦安駅で下車してタクシー乗り場で並んでいた。


夜遅くまで仕事を続けたこともあって、春節でさらに多くのディズニー客が押し寄せているJR新浦安駅を通りたくない気分だ。

しかも、昼間から激しい雨が降り、夜になっても雨足が強い。このような日には新浦安駅にタクシーがほとんど止まらない。

ということで、浦安駅からタクシーに乗って、自宅がある新町エリアの日の出地区に帰ることにした。

元町エリアにある浦安駅の前には多くの飲食店が立ち並び、終電近くの時間帯でも寂しさがない。

駅の周辺にはアパートや戸建ての住宅が広がっている。

このエリアはディズニーの喧騒から離れて、地に足の着いた雰囲気がある。新浦安とは別の自治体なのではないかと見紛うくらいに違う。

しかし、いつも思うのだが浦安駅から新町エリアまでのバスでのアクセスが良くない。

とりわけ深夜帯はバスが運行を終了し、タクシーに乗るか、覚悟を決めて歩くしかない。自転車で新町から浦安駅に通っている市民もいるのだろうか。

雨の日の浦安駅前のタクシー乗り場では、屋根があるスペースから行列がはみ出して、近くの交番の前まで人が並んでいる。

長蛇の列という表現が簡素に思えるくらいだ。この時間、浦安行政の関係者は布団の中で休んでいることだろう。

彼らの給料にもなる税金を納めている市民はまだ働いている。終電に合わせてバスを用意するくらいの配慮はないのか。

まあ浦安市の行政はこの程度だ。あまり期待はしていない。

それにしてもタクシーが次々にやってくる気配がない。ドライバーたちにとっては、浦安駅よりもJR舞浜駅に向かった方が長距離の客が見つかるだろうし、車両が回ってきてくれるだけでもありがたい話なのかもしれない。

これはタクシーに乗るまで長丁場になるぞと思い、ヘッドホンを付けて音楽を流す。今夜は懐かしのバービーボーイズのアルバムを聴こう。このバンドの曲を初めて聞いたのは子供の頃だった。

男女のツインボーカルとギタリストのインパクトがとても強くて、今でも色褪せない魅力がある。

しかし、この歳になると、男女関係の心情が多いバービーボーイズの世界観が遠くに去ってしまったな。

今はただ、秋から冬に向かう人生のステージでレールの上を進むのみ。

この日の私は大きめの傘を広げていたので雨に濡れることはないが、いつになったらタクシーに乗ることができるのか。行列が進まない。

あまりに暇なので、この行列に何人が並んでいるのかを数える。先頭から私自身まで数えて背後を振り返った。

すると、真後ろに傘を持っていない女性が、上着のフードを頭に被って雨に打たれていた。

タクシー待ちの行列に並び始めて5分くらいだろうか。もっと早く気付くべきだった。ここまで冷える夜に雨に濡れたら大変だ。

同じような状況はたまにあって、私は気兼ねなく近くの人に声をかけて一緒の傘で雨をしのぐことが多い。「袖振り合うも多生の縁」だな。

さすがに辛いことだろうと思ったので、私の傘の下に入ってはどうかと彼女に提案した。

すると、その女性はとても喜んでくださった。

彼女の上着はすでに雨に濡れてしまっているが、ハンカチが見当たらないようだ。

私のバッグからハンドタオルを取り出して、「よろしかったら、お使いください。まだ使っていませんので」と、彼女に手渡す。

とりわけ私に下心があるわけでもないが、彼女は私よりもひと回りくらい若いようだ。

私の想像としては、フードを頭から外して、手渡したタオルで肩やバッグを拭くのかと思った。

しかし、その女性はフードを頭から外して、ゴシゴシと髪の毛を拭き始めた。電車に乗る前から雨に打たれていたようだ。

そして、タオルを裏返して折らずに、そのままの状態で私に返してくれた。何かの漫才でこのパターンを見たことがある。

その光景を見て吹き出しそうになった。

すると、彼女のバッグのポケットから小さなハンカチが出てきた。この雨には小さすぎる。

とても純朴な人なのだろうなと気持ちが穏やかになった。

何より驚いたのは、フードを外した後の彼女の美しさだった。普段の生活ではお見かけしないレベルの神々しい美しさを放っている。

強さと弱さが織り合って、どこまでも淵が続くような魅力がある。

日本全国のオッサンたちに共通した思い出かもしれないが、例えば学校に一人か二人くらい飛びぬけて綺麗で優しい高嶺の花がいたはずだ。

私の人生の軌跡では出会う機会さえほとんどなかったが、機会があっても話しかけることをためらったりもする。

そして、チャレンジングな男性がアタックを仕掛けて、往々にして美女と野獣のようなカップルが成立したりもする。

しかし、この後の展開を推測して私は凍った。相合い傘の状態では会話を拒否することは難しい。ヘッドホンを外してみたところ、やはり彼女から話しかけてくる。

それにしてもその女性は会話が上手だなと思った。

やはり、接客業なのだそうだ。私から尋ねたわけではないが、アパレル業界で働いておられるとのこと。

私は最近、管理職向けのセクシャルハラスメント講習を受けたばかりなので、女性のプライバシーについて尋ねることはいけないことだと学んだばかりだ。

そのため、聞き役に徹しているわけだが、彼女の職場は土日が仕事で平日に休みがあって、明日は休みなので友達と酒を飲んできたそうだ。

ルックスはモデルのような美しさなのに、飾り気のない性格がさらに魅力を高めている。

私は通勤中の酔っ払い親父が苦手なのだが、すぐ近くに立っている美しい女性の呼気から漂うアルコールの匂いは、逆に艶やかさを高めるのだなと思った。

「ご職業は?」と尋ねられて、私はどう考えてもサラリーマンには見えないはずなのだが、予想外の答えを聞いてその女性が驚いていた。

私は「普通のおじさんのふりをして地味に生きていますが、実は...」と話を切り出す。

彼女の目が真剣になる。

「...普通のおじさんなのです」と続ける。

二人で笑う。

彼女は接客業ということで実に会話が上手い。この歳になって女性と相合い傘になるという機会もなくて、そもそも妻以外の女性と会話を重ねる機会もない。実に新鮮だな。

SFの映画や小説で「パラレルワールド」という世界観があったりする。もし仮に自分が生きている世界と併行していくつかの時空間があったとして、その世界で彼女のような女性と夫婦になっていたとする。

すると、私の人生はどのように展開していたのだろうか。

残業なんてさっさと切り上げて家に帰って来るのだろうか。近所の買い物でも夫婦で手を繋いで歩いたりするのだろうか。

五十路まで生きて人生の幸福度は学歴や職歴ではないことを知った。人生の幸福度は往々にして配偶者との関係で決まる。

同時に、人生にはパラレルワールドは存在していなくて、むしろ一瞬先から無限大に広がる選択肢があることも悟った気がする。

人の生き方は少しの風向きだけで方向が変わり、流れた時間は二度とは戻らない。そのように不安定な状況の中で喜んだり悲しんだりするわけだ。

しかし、私は夫であり父親なので邪な感情を持つことは正しくない。想像はあくまで想像で留めることが大切だ。これを専門用語でムッツリと呼ぶのだろう。

タクシー乗り場の屋根があるスペースにたどり着いた。傘を畳んで会話が終了...

...するはずだったのだが、その女性からたまに会話が飛んでくる。とても気を遣ってくださっているのだろう。彼女は私よりも明らかに年下だが、保護者としては先輩だということも分かった。

新町エリアでは珍しいかもしれないが、元町エリアではよくある話なのであまり驚かない。

会話の中でご主人の話が全く登場しなかったので少し気になったが、プライベートについて尋ねてはならないとe-ラーニングで勉強したので尋ねないことにした。

その女性に挨拶をしてから、もちろんだが一人でタクシーに乗って日の出地区のマイホームに帰宅する。

とても楽しい時間をありがとう。久しぶりに胸がときめいた。まさに一期一会だな。

さて、タクシーの中で妻と交際していた時期を思い出す。

私は若い頃に本当に命を落としそうな状況になった。その時に励まし連れ添ってくれたのが現在の妻だ。

自由に歩くことさえできない厳しいリハビリの時にも、妻は助けてくれた。

たぶん妻がいなかったら本当に死んでいたかもしれない。

ということで妻にはとても大きな恩がある。共働きの子育てで妻がキレたり、私にハードヒットが襲い掛かってきても耐えている。

ただ、現在と比べると、当時の妻はとても優しくて控えめで穏やかだった。

そういえば、私が好んで見ている漫画やアニメの「GANTZ」において、球体の画面に表示されるフレーズがある。

妻的にはこの路線なのだろう。

妻に出会っていなかったら私は死んでいたかもしれないので、その状態の私を保護したという感情が妻の中にあるのかもしれない。

まさにGANTZだ。

「夫の残りの命をどう使おうと私の勝手です。という理屈なわけだす」というロジックだな。

そうか、だから私がどれだけ苛烈な仕事に向かう時も、まるでGANTZみたいに「それでは、がんばってくだちい」的な言葉が妻からやってくるのか。

これは新しい発見だ。

自宅に帰ると日付が変わっている。冷えた夕食をレンジで温めて、一人で食べる。

寝室のドアを開けると、スリーパーを着た子供たちが布団の上で転がって天使の寝顔を見せている。

すると、布団をかぶった妻の頭の付近でスマートフォンが光を放っている。どうやら何かを察して起きていたようだ。このような時は勘が鋭い。

勘違いされると厄介なので、私のバッグからハンドタオルを取り出して洗濯機へ。

よし、これで大丈夫だ。