人のB面が映る部位
その正体が何かと言えば、おそらく他種の動物からヒトに伝播したであろう感染症の脅威とそれによる社会の混乱。加えて、人々のB面を知ってしまったことへの失望なのかもしれないな。このような時に前向きなエントリーを続けることができるブロガーこそが、本当に強い人なのだろう。
ブログに限らず、SNSやニュースに対するコメント欄に投稿されるネットユーザーの意見や感想についても、以前より尖鋭化した感じがある。それらを眺めていると疲れるので見ないことにしている。
だが、以前から暗いトーンでエントリーを並べている私においては、他のブログの多くが沈んでしまっているとか、SNSが荒れていると指摘することさえおこがましい。
日本国内のユーザーが利用するネット上では情報の取得が難しいかもしれないが、米国や欧州のネットを眺めてみると、これからの世界の展開はあまりぼやけているようには見えない。
私なりの理解として、世界はこれからどうなるのかというと、新型コロナが風邪コロナへと変わる過程を人類が受け入れるステージになってきたということだな。
正確には、変わるのはウイルスではなくて、人類の方だ。
具体的には、より多くの人たちがワクチンを接種することで現在の危機的な状況を回避するわけだ。
ウイルス自体は変異を繰り返してヒトで増えやすくなり、さらに感染が広がることだろう。海外の感染症の専門家の中には、もはや自分が感染することを回避しえない事態になったと公言している人たちがたくさんいる。
しかしながら、これは人類の敗北だと酷く落胆する必要はなくて、これまでの歴史を考えると、病原体を完全に制圧して世の中から駆逐したことはほとんどない。
人類はワクチンや治療薬を開発し、衛生条件を改善させ、結果として病原体によるダメージを減らす方向に自身や社会を変化させ続けてきた。
当初、様々な学術的知見を背景として、研究者たちや行政はコロナを封じ込めようとした。これだけ科学技術が発達した現在であれば、勝つのは人類だと多くの人たちが思っていたことだろう。
コロナの封じ込めは不可能だということが分かり、社会の取り組みに反発して従わない人たちも目立つようになってきた。
しかしながら、これが本当に人類の敗北なのだろうか。ノーベル賞級の大発見と言われているRNAワクチンを非常に短い期間で実用化させ、それらを投与することで重篤化や死亡数を減らすことができている。
副反応が少ないサブユニットワクチンや不活化ワクチンの開発も進んできた。数え切れないほどの病原体との戦いを経て、人類は英知を積み重ねてきたわけだ。
有名なアニメのセリフではないが、病原体との戦いでは、人類がドラマのように格好良く勝つわけではない。多くの犠牲を出しながら、それでも何とかしようと取り組み、いつかは平時が訪れる。その繰り返しだ。
コロナワクチンの接種率が高まるにつれて、感染者数が増加しても重篤化するケースが減ってくるはずだ。
今回のワクチンは感染を防御するタイプではなくて、発症や重篤化を防御するタイプなので、ワクチンを打っても感染する時は感染する。
だが、感染しても酷くならないのであれば、個人レベルで考えれば単なる風邪に過ぎない。重症化する患者が減れば、医療機関の負荷も減る。
新型コロナが出現する前の平時であっても、健常人ならば風邪どころか何の症状もない病原体によって、基礎疾患をもつ人たちが亡くなってきた。だからこそ院内の衛生状況の管理が重要なのだが、多くの人たちはそのことを知らなかっただけの話だ。
しかし、私たちが感じている気分の落ち込みは、感染症自体の脅威、あるいは社会の混乱によるものだけではないような気がしてきた。
「人々のB面を知った」と表現したのは誰なのか、私は知らない。しかし、社会が混乱する中で人々のペルソナが剥がれ、内面が露呈してきたという意味であれば、確かにその通りかもしれないな。
かつて普及していたアナログのレコードやカセットテープにてシングル曲を購入すると、メインの曲がA面に、カップリング曲がB面に収録されていた。
A面の方がインパクトがあったりもして、B面は曲調が違うことが多かった。今でもシングルのカップリングは同じ感じだろうか。
その構図を人に当てはめると、平時にペルソナとして機能していた外面がA面で、普段は見せていないはずの内面がB面ということになる。
感染症の広まりによって不便なことが増え、その脅威がずっと頭の上に被さり、人々が行政や社会に対して多くの不満を蓄積させ、苛立ちを高めている。
そのような状況では、必ずしもA面だけでやり過ごすことができなくなるのだろう。
多くの人たちが法的に処罰されない範囲でペルソナを外し、自分の好きなように行動することが増えた結果、A面ではなくてB面が外にあふれ出しているというパターンが多くなった。
このようなパターンは、匿名が多いネット上ではすでに生じていたことだ。それらが現実の社会で生じていると考えて矛盾しない。
一方で、他者のB面を知ってしまったことへの驚きや落胆もある。そのような場合、他者が意識的にB面を出していなかったというよりも、その存在に気付いていなかったというパターンもある。
例を挙げると角が立つので挙げないけれど、本来は多くの人たちに心の豊かさや安らぎを与えるはずの人が、自身のこだわりや欲に向かって進み、疲れ切った多くの人たちをさらに悲しませているケースが認められる。
その場合、多くの人たちはその人のA面ばかりを見ていて、B面の存在に気付いていなかったということだ。
他者のB面を見てしまうと、確かに気分が落ち込むことが多い。
A面とB面が逆になっている人がいたりもして、何だか取っつきにくくて苦手だなと感じていたら、実は素晴らしい人だったということもあるが、往々にして見たくもない側がB面なんだな。
しかしながら、五十路近くまで生きてくると、人の性格だけではなくて、様々な事象にA面とB面があることを学ぶようになる。
人について言えば、裏表がないと集団の中で生きることが辛くなることだろう。
そう考えると、人にA面とB面があることはごく自然なことだな。
あらかじめその存在を予想しておくことで、「B面を知ってしまった!」というショックを回避することができるというわけか。
大昔の人たちが遺した書物を読んでみると、人のB面を知ることはあまり難しくないようだ。以下のフレーズは私の思考に突き刺さった。鎌倉時代の日蓮が残した言葉。
人の生き様は「顔の表情」に映り、人の内面は「目の表情」に映る。
それらの表情は、意識的に笑顔で取り繕った状態のことではなくて、真顔になった時の状態、つまり「素の表情」を意味するらしい。
生き様が顔に映るという表現はその通りだと思う。とりわけ、中年になってくると消すに消せない人生の軌跡が顔に刻まれる。
それらが顔のどこに刻まれるのかというと、最も分かりやすいのは口元と眉毛の付近だと思う。普段の表情が固定化されやすい部位なのだろう。
内面が「目の表情」に映るという表現については、静止画では分かりづらい。そもそも、このフレーズが生まれた頃は写真の技術は普及していなかったわけだから、静止画についてのパターンではないのだろう。
むしろ、この表現は、他者と面会している時の眼球や目元の動きにおいて、その人の感情や思考が反映されるという意味なのだろう。
現在であれば動画という技術があるので、実際に他者と会わなくても他者の目の表情を観察することは可能だな。
また、顔や目の表情を他者が意識的にカモフラージュすることも可能だな。当然だが、嬉しくなくても楽しくなくても、笑えば目も口元も形を大きく変えてしまう。
よくよく考えてみると、地球上で笑みを上手く使う動物は人間だけだ。
もしかすると、笑みは喜びや楽しさを他者に伝えるだけでなく、自分の内面を隠すために進化したのかもしれない。そのような個体が生き残ったと解釈した方が分かりやすい。
たまに、非常に気性が荒くて考えが偏っているにも関わらず、他者の前では常に笑顔という人たちがいる。他者に自分の内面を把握されないためのテクニックであり、むしろ警戒した方がいい。
また、他者のB面の表情を見えにくくするのは個人の笑みだけではなくて、人間関係における損得、さらには肩書きや立場といった先入観も関係してくる。
その業界ではあまり認められていないはずの自称専門家がマスコミに登場する時には、最初に肩書きを示して多くの人たちに先入観を植え付けるというテクニックがある。多くの人たちは肩書きに騙されてしまったりもする。紹介されているのはA面であってB面ではないのだが。
しかし、真面目に考えてみると、ここまで他者のB面が露呈するような状況は平時ではありえない。これは気づきのチャンスかもしれない。
古来の人々が言い伝えたように、「人の生き様が顔の表情に映り、人の内面が目の表情に映る」のかどうかを後方視的に学ぶことができる。
他者のB面に気付かずに生きていて、その人のB面が露呈してしまったとする。自分はどうしてその人のB面に気付くことができなかったのかと後ろ向きに考えるわけだ。
多くの人たちの前ではニコニコと愛想良く振る舞っていたが、素の時には冷たい表情ではなかったか。
もしくは、明らかに生き様が顔に出てしまっているにも関わらず、他の人たちが言っていることを信じ切ってしまっていなかったか。
それらを自分の中で検証し続けていれば、他者の内面を前方視的に予測することができる気がする。
いや、顔や目の表情だけではないな。
このように世界全体に負のプレッシャーがかかっている状況では、SNSやブログにも人のB面が映っているはずだ。
なるほど、あまり幸せなことではないけれど、その学びの機会が訪れたと理解すれば、自らの生き方において得るものがあるな。
試しに、自分で鏡の前に立ってみた。苦労し続けている生き様が顔の表情に映り、物事を斜に構えて見る内面が目の表情に映っている。総じて、何とも理解しがたい表情だ。
試しに、このブログのエントリーを眺めてみた。やはり、暗い性格が文章に顕れている。しかも、コロナがやってくる前から暗い。
なるほど、これらの要領を自分ではなくて、他者に向ければ、そのB面が分かるということか。これは新しい学びの始まりだ。
私は昔から「何を考えているのか分からない」と他者から言われるのだが、おそらく、目の表情に喜怒哀楽が少ないからなのかもしれないな。
常に何かを狙っている目と言われることもあるが、その対象とは新しいことに気付くという活動なのだろう。
そして、他者は何をもって私を判断していたのかというと、自分が発する言葉ということか。
逆に考えると、自分が思っていることを口に出さなければ、他者が私の頭の中を知る術がないという理屈になる。
他者のB面を知った後、その人の顔や目の表情との関連性を分析し、B面を見せていない人のB面を予想することは非常に興味深い。
私が言葉に出さずにフムフムと考えている範囲であれば、自分が分析されていることにも気付かないだろう。
明日からの生活が少しだけ楽しくなった。