2021/08/25

物事の理由を考える人、考えない人

人には大きく分けて2種類のタイプが認められる。様々なことについて、その理由を考えるタイプと、あまり理由を考えないタイプ。前者が理系っぽくて、後者が文系っぽくもあるが、学問的には双方において理由を考えることが必要になる。

私的な解釈でいえば、前者は学究肌の人に多く、後者はパリピに多い。パリピとは「パーティーピープル」の意味だそうだ。子供が教えてくれたのでなるほどその通りだと理解して使ってみることした。その違いを感じるきっかけになったのは、昨今のコロナ禍における人々の言動だった。


首都圏の感染爆発によって医療が現実的に崩壊しているにも関わらず、相変わらずパーティーで感染したり、帰省や旅行という目的で地方に感染を広げるという行動が認められる。

外で行うバーベキューならば大丈夫だと盛り上がってクラスターが発生したり、さらには何とかロックのように大規模な音楽イベントまで開催されていたりもする。

中年や若者に限らず、またその形態は様々だが、パリピに対処することが社会の懸念事項になるなんて、真面目に考えると滑稽に感じなくもない。悲しいことにこれが現実だ。

あまつさえ、コロナやワクチンは国家の陰謀だとネットで唱えている人に至っては、もはや何も言えない。思想の偏りとオカルトが混ざってしまっている。理解することは不可能だし、その人たちがどのような社会生活を送っているのかが気になる。

とある自治体のリーダーにおいては、大きなイベントに小中学生を動員することについて賛同し、市民やマスコミからの批判について反論している。

結果として、このリーダーは市民の気持ちを察する思考がないではないか、そういえば昔からそうだった、すぐにメッキが剥がれたぞという形で炎上している。ツイッターのコメントにネガティブなリプライが少ないのは、そのような人たちをブロックしているからなのだそうだ。

ネット上の話については、正直なところよく分からない。とりあえず、スマホやパソコンの画面から目を離して、オフィスの窓から見える景色を眺めてみてはどうだろう。

それにしても...なるほど...これは勉強になる。

混沌とした社会の中で自分は何を考え、どう生きるのか。

ネットが発達し、ブログやSNSで個人が自由に意見を発信することができる時代になり、内面が他者に向かって流れ出す時代になった。

物事に理由を探す生き方と、あまり理由を探さない生き方。そのどちらが正しくて、そのどちらが幸せなのかというと、正直なところ私には分からない。

そもそも、「理由」とは何かというと、物事について結論を導き出すための根拠や論拠だ。

人は集団を形成し、社会を構成する。細かなことについて理由を探す人たちばかりだとピーキーになってしまうし、あまり理由を探さない人たちばかりだとカオスになってしまう。

論理的な思考において理由を考えることを放棄した場合、「考えるな、感じろ」的な展開になり、論理的な思考の放棄と同義になりはしないか。

コロナ禍における混乱を招いたのは、理由を考えることをやめたことの帰結だと私は思う。

様々なタイプの人たちが共存して生きることで、より複雑性と多様性がある社会が生まれる。

しかし、その理想の実現はとても難しい。マイノリティがプレッシャーを受けることはよくあるし、社会を維持する上での不文律が破綻しうる可能性があるという意見もある。

コロナ禍について言えば、あまりに意見の多様性を受け入れてしまうと、逆に社会自体を崩壊させる危険性もある。そして、その憂慮が形になってきたのが現在という私なりの解釈になる。

仕事について考えると、「理由を考える」という思考は非常に重要で、そのような思考のない人は知的労働にはあまり適していない。肉体労働においても同じだろう。

論理性のないビジョンに基づくアクションは非常に危険だ。様々なことについて深く考えないタイプが動くとろくなことがない。

だが、仕事は生きる中での一部でしかない。家庭を含めて全体として考えた場合には、あまりに分析的になってしまうと疲れる。

私がサイクリングで心身の疲れを減らしているのは、走っていて気持ちが良いからだ。気持ち良く感じることに明確な理由なんてものはない。その意味については私自身が考えて後付けして解釈しているにすぎない。

子供たちや若者たちにおいては、「理由を考えること」と「理由を考えないこと」のどちらかが正しいかについて意見が分かれることが自然であり、健全な姿だと思う。

他方、私のような中年親父になると話が変わってくる。

例えば、明らかに同世代のオッサンが投稿しているであろうと思われるヤフコメの投稿。あるいは、ツイッターやブログ。

そういったコンテンツでは、物事の理由を考えない人は愚者だと批判する人がいる。

逆に、物事の理由を考えるのはナンセンスだと主張する人もいる。

若い人たちならば、まあそうかと感じるのだが、いい年をこいたオッサンがそのテーマについて偏った意見を出す姿は、あまり徳のある姿ではないな。偏った意見ばかり発している私自身が自戒の対象になるのだが。

長く生きてきて導き出された結論としては、物事の理由を深く考える人がいて、理由を深く考えない人がいて、そのような様々な人たちが共存しているのが、今の社会だということだ。

また、個人レベルおいても、物事の理由を深く考える時があって、理由を深く考えない時があって、それらを含めてひとつの生き方という解釈になる。

「深く考えないのは愚か者だ!」とか、「深く考えることはナンセンスだ!」と言い切るオッサンは、あまり格好が良くないオッサンだと思う。

本人はどう考えようと自由だが、そのまま進めば若い人たちから老害と揶揄されるかもしれない。

大学の一般教養レベルで拙い限りだが、様々なことについて理由や意味を考えるというスタイルは、哲学に該当する。

哲学についてアリストテレスの頃まで遡ると、第一哲学に相当する形而上学、第二哲学に相当する自然哲学が大きな柱になっている。

自然哲学は現在の自然科学に繋がっているので、多くの人たちが理解しやすいことだろう。

形而上学の場合には、存在論とか宇宙論に繋がっていたりもするわけで、難しくはあるけれど現代でも重要な学術基盤になっている。

それらの哲学において欠かせないテーマは、「自分とは何か?」という命題だな。哲学というと、さも文系的な思考だと思われるかも知れないが、実際には筋道立てて考えないといけないわけで、理系的な要素が必要になる。

日本において理系を含めて「博士」と呼ばれる学位は、海外においてはPh.D.と呼ばれる。正式名称は「Doctor of Philosophy」、つまり哲学博士という意味だ。

現代の科学を遡ると、それは哲学に繋がる。

冒頭の話に戻るが、生きることの理由を探すことがナンセンスだと言っているようなオッサンには、哲学的な素養も科学的な教養もないという私なりの理解になる。

そのような人たちは、なぜかサイクリストに多かったりもして、どう考えても友達になれないと思う次第だが、そのような考えを否定するわけでもない。世の中は物事の理由を考えない人たちで満ちている。

いきなり普段の生活の話になるが、例えば、スナック菓子のポテトチップスを買ってきて食べて、それが歯と歯の間に詰まったとする。

物事の理由について深く考えないタイプの人は、「ポテチを食べて歯に詰まるなんて、よくあることだ」と受け流して、爪楊枝や歯ブラシで除去し、あまり気にしないことだろう。

他方、物事の理由について深く考えるタイプの人は、「どうしてポテチが歯に詰まったのか」ということについて考えるはずだ。

自分の歯並びが関係するのか、波形カットあるいはスティックタイプのポテト菓子だったら歯に詰まらなかったのかとか。

そこから発展して、「そもそもポテチとは何だ?」とか、「どうして人はポテチを食べたくなるのか?」という思考に発展する人がいるかもしれない。

もしもそのような夫がいたとすると、妻としてはとても付き合いづらいわけで、途中まで夫婦関係に悩み、途中から諦めて連れ添うことだろう。

職業人としての生き方としては、そのように理由を突き詰めて考えるスタイルは間違っていない。製品の開発においてもマーケティングにおいても、理由を探すことは必要な取り組みになる。

日本が世界に対して追随を許していない分野は、このように「理由を探す」という姿勢が大きな力になっていると思う。

では、理由を探すという哲学的な思考の対岸にあるのは何かというと、それは宗教ではないかと私は思う。

仏教には「空」という概念がある。それを体感することは悟りに至ると考えられているようだが、実際に理路整然と空について説明することができる人がいたとすれば、その人は偽物だという解釈になる。

なぜなら、空という脳の状態に至った際には、そもそもの分析的あるいは論理的思考も停止しているという解釈になる。その状態に至っているのに、細かく説明することができるはずがない。

一方で、その脳の状態は我欲を超えて物事を偏りなく眺めることができるかもしれないわけで、なるほど哲学と宗教との遠さと近さを感じてしまったりもする。

さらに自分なりの推論を進め、人はどうして「理由を探す」というスタイルから離れて、「理由を探さない」というスタイルを選ぶことが多いのかと考えてみる。

その方が気持ちとして楽になることができるからだな。人は楽な方向を好むように選択するし、一度でも楽なことを経験すると苦に向かって進むことを嫌がる。

それは自分に素直に生きるということにも重なるわけで、強ち否定することもできない。

自分が生きる意味を探しながら生きることと、それを探さずに生きること、どちらが楽なのかというと後者だ。生きる意味を探すことなんてナンセンスだと否定することも、人の自由だ。

私なりには、自分が生きる意味を探さずに生きることは難しい。生きる意味を探す必要がなくなった時は、潔く死を選ぶ。

そもそも、「ナンセンス」という英単語は「意味がない」という意味だ。意味を探すことがナンセンスというフレーズは、意味を探すことに意味はないという日本語になり、文法的におかしい。

それ以上に、生きる意味について考えないということは、自分が生きていることの意味を知らないまま生きているというロジックになる。半死半生の境地なのだろうか。

「社会に抗ってメッセージを発する俺ってかっこいいぜ」という感じのオッサンの中二病なのだろう。

しかし、なるほどそうかと思いもした。個々の精神の安寧を考えると、確かに理由を探さない思考の方がストレスが少ない。その傾向は個々に限った話ではないな。

日本の場合、世論がマスコミによって大きく影響を受けることが多々ある。それがなぜなのかというと、理由を探す部分について、マスコミにアウトソースしているからではないかと思う時がある。

メディアが社会を映す鏡として機能していれば問題ないが、マスコミにも色々な思惑や都合がある。結果として情報が切り取られていたとしても、多くの人々はそれに気付かず、それが事実だと信じて理由を探さない。

他方、メディアに関わらず、物事の理由を考えず、「まあいいだろう」と、自分が心地良いと感じる行動に走ることもよくある。

そのような人たちの思考においては、様々な情報の一部を自分で切り取ってしまい、自分に都合良く判断しているとしか思えない時がある。

室内と比べて野外の方がコロナの感染のリスクは少ない。だから、外で酒を飲めばいいじゃないかとか。いや、それは違うだろと思うのだが、理由を深く考えていないからこそのベクトルなのかもしれない。

しかも、今の社会は役割の細分化が進んでいる。そのことが深刻な状況を引き起こしている。

社会について問題が生じた時には、それに対処する人たちが対処せよと開き直る人がいて当然の世の中になった。

行政のことについては政治家や役人が何とかするだろう、病気になったら医師や看護師が何とかするだろうと思考停止し、その他の大勢は自分の欲求に従って動いてしまう。

その社会を構成している多くの人にも責任があるはずなのだが、問題が生じた理由について考えることはなく、自分の立場や損得に関心を持ち、法によって制限されない限りは唯我独尊。

しかし、それは平和な状況では何とかなっていただけの話だ。平和であることに慣れてしまい、そのままの生活スタイルを維持しようとして、結果、今の状況になってしまっているのではないか。

もちろんだが、社会全体のことを考え、開き直らずに自制している人たちもたくさんいる。けれど、感染症の場合には、開き直ってしまった人たちが、自制している人たちまで巻き込んでしまう。

平時であれば、社会を構成する膨大な数の人々の思考のパターンを知ることは難しい。

ネット上で垣間見る人々の内面については、それらにアクセスしなければやり過ごすことができた。

しかし、社会に対して脅威や混乱が訪れた時には、見たくもない人々の内面が、非常に分かりやすい現実の形となって目の前に映る。

物事の理由について深く考えない人たちに対して、もっと深く考えろと言ったところで無理な話だし、社会に対してデメリットがあるようであれば法で制限するしかない。

法がなぜ社会に存在するのかというと、理由を考えることができない人たちに一定の制限を加えるシステムが必要だったからなのだろう。

この程度であれば法がなくても何とかなると思ったこともあったのだが、人々の我欲は社会の不文律を大きく凌駕してしまう。ここまでさもしいものだったとは。五十路になってとても勉強になった。

大昔から現代に遺された地獄絵図は、その当時の惨状だけでなく、人々の心の中を描いたものだったのだなと、改めてそう思う。