2021/08/20

その頃はワクチンがなかったけど、陰陽師がいたじゃない

現状としては、コロナの感染爆発が都市部を中心に生じ、全国に拡大している。身近な人たちも次々に感染し、自分が感染する時期が近づいてきた。しかし、2回目のワクチン接種を受けた人たちには重篤化や死亡例があまりみられないということで、社会を覆う黒い雲の隙間から一筋の光が差し込んだ感覚がある。

仕事が仕事だけにコロナワクチンについてはすでに接種を済ませてあるのだが、2回目の注射の後には高熱や頭痛、関節痛といった厳しい副反応に苦しんで数日にわたって寝込んだ。しかし、現時点の私自身の体内というレベルで考えれば、この感染症はただの風邪に成り下がった。まだ油断は禁物だが。


ネットユーザーを中心として、日本のマスコミはゴミと揶揄されることが多いわけだが、その傾向は日本に限ったわけではない。

紳士の国というイメージがある英国のメディアの品のなさはよく知られているし、自由の国というイメージがある米国のメディアの偏向ぶりは半端ない。

日本に限って言うと、流行病が広がってからはテレビが社会を煽り、大手新聞がさらに尖って人々から相手にされなくなり、一部のスポーツ新聞が偏りの少ない情報と正論を社会に発信し、一部の週刊誌が社会の闇を斬ってジャーナリズムの本質を魅せるという不可思議な状態になっている気がしてならない。

私が子供の頃から、大手メディアはすでに政治や経済の分野において取り込まれてしまい、ジャーナリズムとかけ離れた存在になっていたのかもしれないな。先の大戦でこれまでの基盤を破壊されてしまったという経緯も関係するのだろう。

だが、大手メディアが発信している現在の情報、例えば、すでに八方塞がりで手の施しようがないとか、感染拡大が制御不能だとか、災害レベルの負荷が医療にかかっているといった衝撃的なフレーズは間違っているわけでも、煽っているわけでもないと思う。

現時点で自分が住んでいる千葉県における病院の病床占有率は8割程度。これは千葉県庁が発表している「確認された範囲」での情報であって、私個人としてはあまり信用していない。

そもそも、リアルタイムで病床の占有率をモニターするシステムが千葉県内の医療機関と千葉県庁を結んでいるとは思えない。実際には満床になってしまっているケースがあることだろう。

この県のリーダーは盛んにツイッターで情報を発信しているが、スマホやパソコンでツイッターにしがみつくよりも、他にやるべきことがあるのではないか。

人ひとりの能力には限界がある。ツイートなんて部下の職員に任せて、そのような余裕があるのなら、他に考えるべきことを考えろと言いたい。

リーダーの仕事は判断することであって、ツイートすることではない。その役割を部下に託すことができないということは、すなわち自分の足元が見えていないということだ。

このままだとたくさんの千葉県民が死ぬことになる。

しかも、東京都内の病床はすでにオーバーフローして、埼玉県に患者を運ぶことさえあるらしい。救急車を呼んでも搬送先が見つからないという危機的な状況と判断して差し支えない。

千葉県内の場合には楽観的に考えても病床の占有率が8割ということは、残りの2割で耐える必要があるというわけだ。

たった1日で陽性者が千人レベルで増えるような感染爆発が生じているので、病床の空きがなくなるのは時間の問題だろう。

その日がやってきた時、周辺の自治体が助けてくれるという展開は期待することができない。それぞれの自治体がスタンドアローンで対応せざるをえないということだ。

とても恐ろしいことだが、千葉県庁がそのクライシスを想定して動いているようには私は思えない。

かつてのリーダーの下、ぬるま湯のような環境で仕事を続けていたからだとは言わないが、おそらく千葉県庁はこれから始まる修羅場についての明確なビジョンを持っていないと思う。これはかなり深刻な状況だ。

まさに大規模災害が生じた状態に似ている。医療スタッフの疲労も蓄積し続けている。

国民皆保険でいつでも適切な医療を受けられるという状況ではなく、高度先進医療を備えた病院の機能は限界に達しつつある。

それなのに、あまり気にせずに自ら感染に向かって動く人たちが多すぎる。

自身がきちんと対応していたとしても、他者によって感染に巻き込まれる蓋然性が高くなってきた。

感染爆発は人々の「気の緩み」が原因だと言っている報道が多いが、実際には気の緩みというよりも「開き直り」が原因なのだろう。

人間の心理として、自分について直接的に関係のないことは気にしないという性質がある。しかし、自分に関係すること、とりわけ「自分だけが損をしているのではないか」という不公平感については過敏に反応する。

一方、自分が得をして他者が損をすることについてはあまり気にしないという性質も人間にはあるわけで、その特徴が現時点の感染爆発においてよく反映されていると感じる。

このウイルスは、家族がひとりでも感染すれば、家庭内でウイルスが広がる。自分が住んでいる街のようにファミリー向けの物件が多い地域では、世帯において1人が感染するだけで4~5人が感染するという二段階の広がりがあるのだろう。

千葉県内に限ったことではないが、自粛に疲れたと居酒屋や路上でマスクを外して酒を飲んで騒ぐ人たち。

昨年も我慢したのだからと旅行や帰省に出かける人たち。

わが子たちが通う小学校でさえ、最近では感染症対策が緩んでいた。一斉休校の頃には悲壮感が漂っていた教員たちが、まだ事態が収まっていないのに平時に戻そうとした。

感染爆発が起きた今、その小学校でオンラインのリモート授業への移行が可能なのだろうか。おそらく困難だな。

公立小学校の教員たちは平時の対面授業をこなすだけで精一杯の状態だと思う。しかも、流行病の影響で学習において様々な制限が生じている。それに加えてオンライン授業の準備をするなんて余裕があるはずがない。

マスコミの報道を受けて生活様式を再び締め直す人はあまり多くないと思う。一度、開き直ってしまうと、その先にどれだけ大きなリスクがあっても気にしないという人間の性質がよく分かる。

悪いのは政府や自治体の対応だ、自分は何も悪くないと、街に出て人混みに入っていく人たちが多数。彼ら彼女らの言動は矛盾に充ちているが、それにも気付かない。もはや思考停止になっているのだろう。

未だにマスクを付けず、顔の下半分に透明のカバーを付けて電車に乗っている若者や中年を見かけると、驚きや怒りを通り越して興味の対象になってしまう。

このような人たちは、私が普通だと考えている思考や感性が全く通用しない。長時間の電車通勤という私の人生の最大の過ちさえなければ、絶対に同じ空間にいたくないと感じるような人たちだ。

しかし、これが人間の多様性のひとつでもあるし、この社会には個人的に考えておかしな人たちがたくさん含まれているということを視覚的に実感することができる。

昨年の今頃はどうだったのか。もっと多くの人たちが感染症に対して危機感をもって対処していたと思う。現在では医療が崩壊しかけているのに、それを助長するという方向に進んでいる。

人間の心が、かくも脆く、利己的だったとは。文明が発展しても中身は何ら変わっていなかったということか。

宿主であるヒトが感染の機会を増やしているのだから、ウイルスが広がらないはずがない。家族の誰かが感染すれば、その世帯は全員が感染する。

しかも、多くの人たちは、この展開の先に何があるのかを予想することもなく、現時点の状況についてさえ気づいていないようだ。

海外のように政府の対応について暴動や大規模なデモを起こさないことは日本の穏やかさのひとつだが、静かで大きなうねりを起こすという傾向は日本の恐さだな。そして、実際に医療の崩壊に向かっている。

これはこれで非常にシュールだ。

とある医療従事者は、この状況が「デビルマン」という作品の終盤で描かれたカタストロフィのようだと感じたそうだ。アニメ版ではなく原作のコミック版のエンディングのことだな。

主人公の不動明は人々を守ろうとデビルマンになってボロボロになりながら必死に戦った。

しかし、最終的に社会を破壊したのは悪魔たちではなく、煽動によって正気を失って暴徒化した大多数の人間たちだった。

そのような人たちによる殺戮行為によって、彼は大切な身内さえ失った。

デビルマンの状態の不動明は、絶望と憤慨に取り巻かれながら叫ぶ。

「これが!これが!俺が身を捨てて守ろうとした人間の正体か!」

そして、怒った彼が地球上から人類を消滅させるという悲劇に至った。

確かに、社会を維持するために必要な方向と真逆に進んでしまう人間の脆さを感じるし、人々を守ろうとしている存在のことなんて考えない人間の愚かさを感じはする。

開き直って感染を広げる人たちの行為によって、一体、どれくらいの他者が苦しむのか想像もつかない。

医療従事者たちの場合には、当然だが自らカタストロフィを起こすことはないだろう。

しかし、人々が我欲に任せて好き勝手に行動している姿を、彼ら彼女らは冷ややかな眼差しで眺めているはずだ。

病床が全て埋まり、これ以上の対応ができなくなった時、彼らはどのように感じるのだろう。

そこに慈悲の心を用意する余裕もなく、救命の受け入れ要請があっても断るだけだ。

ドラマや漫画では、スタッフや病床に余裕がなくても無理を承知で患者を受け入れる熱血医師が登場したりもするが、あれは往々にしてフィクションだ。

実際にそんなことをすれば上層部から叱られるし、看護部の管理職からクレームを受け、医局でも揉める。

しかしながら、自分も含めて多くの人たちが感じている不条理がある。

それは、我欲をむき出しにして行動して感染を広げ、結果として医療を崩壊させる開き直った人たちが、必ずしも入院するわけではないということだ。

自分は重篤化しなくても、周りに感染を広げ、その人たちが重篤化して病院が見つからないという事例は多数認められることだろう。

医療機関はコロナだけにあらずなので、他の疾患や怪我で入院する人たちにまで影響が及んでいる。

この状況は高度医療という最後の砦が崩壊していることを意味しており、非常に深刻だ。

気にせずにサイクリングに行くことができないといった話を超えて、突発的な病気にかかることさえ懸念されるというレベルになってきた。

しかも、開き直って行動しておきながら、最後は医療に助けを求めるというパターンもある。ネット上で先鋭化した人たちの中には、マスクを外して酒を飲んで感染したような人たちを助ける必要はないという主張が散見される。

だが、それも社会の不条理のひとつだと思って受け入れざるをえない。

人々はモラルとマナーを養い、文化的な生活を送っているはずだが、そこに我欲が絡んでくると道を踏み外す人たちが増える。

いくら文明が発達したとしても、人間の心の中身は何も変わらないということを学んだ。

日本の大昔に記された書物には、社会に混乱が生じた際に最も恐い存在は脅威そのものではなく、危険に向かって突き進む集団の心理だと記されていたりもするが、今、まさにその現象を眺めているということか。

だが、可能な限り思考を整えて考えてみると、2回目のワクチンを終えた私としては、このウイルスはただの風邪ウイルスになったと考えて矛盾しない。感染しても風邪の症状に留まるのなら、すなわちそれは風邪という解釈になる。

医学的なエビデンスが蓄積しているので、おそらく3回目のワクチン接種を完了すれば、特異的な免疫の低下についても何とかなるはずだ。その時には長期に効果が維持しうるワクチンが実用化されているかもしれない。

ワクチンについては賛否があり、特に日本の場合にはマスコミを含めてワクチンに対する抵抗感が大きかったりもする。マスコミを含めてと表現するよりも、マスコミが人々の思考に影響を与えていると私なりには理解しうる。

一方で、国家や世界レベルの陰謀論を唱える不可思議な人たちも出現していて、日本国内において反ワクチン的な思想を煽っているケースも認められる。

ワクチンの接種は法的な義務ではないので、個人の自由に任されている。

現時点ではワクチンの供給が滞っているが、大規模会場でワクチンの接種が可能だし、自分が住む街のように幾分と余裕があるケースもある。

ワクチンを希望する人たちが接種を終えるまでは耐えてほしいと思っていたのだが、多くの人たちが我慢できずに開き直って行動した挙げ句、この有様になってしまった。

それにしても、高齢者における重篤化や死亡例が明らかに減り、現在では40代や50代、つまり私のような団塊ジュニア世代においてコロナによるダメージが増えてきた。

まさか自分たちの世代がハイリスクだと言われるとは思っていなかったが、現実的にそうなのだから仕方がない。将来を担う子供たちや若い世代がハイリスクになるよりも気持ちは穏やかだ。

しかしながら、同世代の人たちの中には、ワクチンによって将来的に何らかの影響があるぞと唱える人もいるし、海外の情報を知ろうとせずに様子見を構えている人たちもいる。

私の場合にはあと10年と少しで還暦だし、将来的な影響よりも、近いうちにやってくる危機に備えた方がいいだろう。

バスに乗るかどうかは個人の判断だが、バスに乗らなかったことを後悔しても遅い。

海外では、反ワクチンの思想を広めていた人たちがコロナに感染し、病院のベッドの上で自分の考えや行動を後悔しながら亡くなっているそうだ。

自分で判断したわけだから、後悔しても仕方がない。

また、反ワクチンというレベルではなくても、ここまで行政がワクチンの接種を呼びかけているのに様子見を続けていて、実際に感染して呼吸ができなくなり、入院した段階で「ワクチンを打ってください!」と要求し、そのまま亡くなるケースも珍しくない。

そのような時点でワクチンを打っても遅いことは本人も分かっているだろうけれど、死を目前にすれば、どんな助けでも求めようとするのだろう。

体質あるいは基礎疾患によってワクチンを接種することが難しい人たちには気の毒だが、より副反応が少ないワクチンが実用化される。もう少しの我慢だ。

現在の状況は人類とウイルスとの戦争だと表現している人をよく見かけるが、確かに戦争だな。

このような時、社会全体について考えるから気持ちが重くなるわけで、社会→家庭→自分という流れを逆に考えると分かりやすい。つまり、自分→家庭→社会という流れで考える。

自分のワクチン接種は完了しているし、妻もワクチンも1回目は済ませてある。1ヶ月後には2回目。子供たちはコロナに感染しても重篤化しないだろうし、自宅療養は仕方がないな。食品や日用品のストックを増やしておこう。

社会全体については、希望者のワクチンの接種が年内には完了することだろう。実際にはもっと早いかもしれない。

大手マスコミとしては相変わらず感染者の増加とかワクチンの副反応について熱くなって報道するだろうけれど、過度に心配する必要はない。

コロナワクチンは感染自体を抑止するタイプのワクチンではない。発症や重篤化を抑止するタイプのワクチンだ。

呼吸器から侵入するウイルスの感染をワクチンで完全に防御するためには粘膜の免疫が必要になる。

注射するタイプのワクチンでは粘膜免疫を誘導することは難しい。しかし、身体の中に入ってきた段階でウイルスを迎撃する。そのためのワクチンを接種しているわけだ。

長いスパンで考えてみると、このウイルスの場合には感染者がゼロになることはありえない。最終的には新型コロナではなくて、ただの風邪コロナになって社会全体に溶けていくことだろう。

現在ではただの風邪という扱いになっているコロナウイルスについても、人類に最初に広がった時には凄まじい猛威を振るったことだろう。

そういえば、ウイルスゲノムの塩基配列による推測に基づいて、現在の風邪コロナのウイルスが人類に感染し始めた時期を計算した研究グループがある。

すると、いくつかあるただの風邪のコロナの中で、最も遅いタイミング、つまり現在に近い時間軸で人類に感染したと考えられているウイルスは、平安時代もしくは鎌倉時代に出現したと考えられている。

現在では子供たちが小さな時に感染し、大人になると気にもしない風邪コロナだが、当時はまさに新型コロナウイルスだったわけだな。

「当時はワクチンどころかまともな医療がなかったのに、大変だったろうな」と私がつぶやいた。

すると、妻が「その当時は、陰陽師がいたでしょ。陰陽師が退散させたのよ」と冗談で答えた。

当時の陰陽師は、現在であれば技術系の国家公務員に相当する真面目な仕事だったのだが、江戸時代辺りから人々によってオカルト系のイメージが付加された。

今では、呪術で結界を張ったり、式神を操って鬼や魔物と戦うという陰陽師の姿が定着している。妻も確実に誤解している。

「そうだな、どこかに凄い陰陽師がいないものかな」と、私は苦笑いした。

久しぶりに妻と意見が合ったことを幸せに感じた。次に意見が合うのは数年後かもしれない。

しかし、その後で、ふと真顔になって考えてみた。医療が発達した現在においても、現時点では疫病に対して人類が劣勢に立たされている。

その理由は何なのかといえば、自然という相手に対して人類の英知があまりに小さな存在だということ。

だが、それだけなのだろうか。

思ったように流行病がなくならないことに対する人々の苛立ちであったり、社会ではなく自分のことばかり考える人々の開き直りであったり、個人的には理解しがたい反マスクや反ワクチンの思想が生じたり。

つまり、人々の心の中については、科学技術や文明が発達したところで対処のしようがない場合が多い。

あまり効果が認められないロックダウンという対応で行動を制限しようとした各国の取り組みは、人々の心を整えることがいかに難しいのかということを示したように思える。

むしろ、平安時代や鎌倉時代に陰陽師が人々の心に働きかけた時の方が、科学的な根拠が足りなくても効果があったかもしれないな。

もの凄く有名な陰陽師が登場して「この星の流れは危険だ。目に見えない魔物が人を狙っている。外に出るな!」と告げれば、多くの人たちが従ったことだろうし、見方によっては社会心理学的なエビデンスがあったのかもしれない。

今さら陰陽師に頼っても仕方がないので、社会が混乱しているのなら、自己防衛に徹するしかないだろうな。

いつになったらサイクリングに出かけることができるのやら。