ボールを打ち返したら会話のキャッチボールにならない
妻との間で会話のキャッチボールが出来なくなった、正確には妻がキャッチボールをしなくなったのは、子育てに入ってからのことだ。交際時や新婚の頃は会話が楽しかったのだが、猫を被っていたのだろう。今では私から妻に向かって取りやすいような言葉のボールを投げても、妻がグローブで受け止めずに素通りさせたり、バットで打ち返してくる。
遠くに転がったボールを悲しい気持ちで拾って、再び投げると、それを受け取りもせずにノック打ちのように別の方向へボールを打ち込んでくる。
私が受け取りやすいボールを送ろうなんて、妻は少しも考えてはいない。自分の気が済むかどうかだ。
野球ならばトレーニングになるが、これでは会話のキャッチボールとは呼べないし、話をすればするほど苛立ち、そして私は沈黙し、その空間から立ち去る。
わが家に限れば、子育てにおける夫婦間のコミュニケーションなんて意味がないと思う時さえある。
最初に話し合って決めておいたことを妻が無視して突き進んだり、最初から私の意見なんて聞かずに話を進めてしまうからだ。
その方向が常に正しければ文句は言わないが、往々にして余裕がなくなって精神的にも時間的にも一杯になる。
さらに、妻は夫に対して平気で嘘をついたり、子供と口裏を合わせて話を誤魔化すことさえある。
一時期、もちろんだが妻との会話について私は真剣に悩んだのだが、会話を最小限に留めることで自分の精神を守ることにした。この生活は夫の「役」を演じているだけなんだと。
それにしても、妻の多動性と衝動性は非常に強い。義実家も同じく。少しでも暇になると何かをしていないと気が済まない。
ADHD傾向がある人は片付けが苦手という話は本当で、私が片付けないと家の中が大変なことになってしまう。
行動だけではなくて会話の中でもその傾向を実感する。会話に落ち着きがない。
加えて、これについても義父母や義妹と同じなのだが、自己肯定が非常に強い。自他境界が自分方向で固定されていて、他者を否定してから自分の意見を言う。
相手を肯定してから話せばいいのに、自分の優位性を強調したいがために他者を否定するのだろう。
落ち着きがない上に自己肯定が強いので、この一族は家庭の中でもそれぞれが言いたいことを銃撃戦のように撃ち合う性質がある。
とりわけ、自分が知性と教養のある存在だということを示したくて仕方がないらしい。自己愛が強い人に共通して認められる傾向だ。
しかし、そのような人の多くは中身が伴っていない。秀でた教養も頭の回転もないのに、どうしてこの人たちは家庭という小さな場所でマウントを取ろうとするのだろう。
自分の頭が良くて優れた人物だということをアピールしたい気持ちがあるようだが、歳を重ねればアピールしなくても学歴や職歴という形で残る。それらは大したことがないのに威張っても仕方がない。
私が義実家を訪問した時には、できる限り口数を減らして会話を避け、ひたすら時間が過ぎることだけを念じて呼吸の数を数えるようにしている。会話をすると不快になるし、我慢を続けて耳鳴りがした時が何度もある。それくらいに辛い。
それにしても、子育てに入ってから妻が癇癪持ちで多動性と衝動性が強い人物だということに気付くという事態は、タイミングとして絶望的と言わざるをえない。
最初から癇癪持ちで多動性と衝動性が強い女性だということが分かっていて結婚したのであれば諦めがつく。しかし、私はそのようなことを全く想像していなかった。
静かで思いやりがあって、心落ち着く女性と結婚したと喜んでいたのに、何か悪い夢でも見ているかのように妻が別人になってしまい、その状況のまま人生が進んでいく。
一時期はバーンアウトして感情を失うくらいのショックがあったのだが、下の子供のために家に踏みとどまった。この子がいなかったなら離婚していたことだろう。
では、どうして妻が猫を被っていることに気付かなかったのかと、今さらながら考えてみると、その時点での判断力がおかしくなっていたということだろうか。
だとすれば、その時点での感情に何らかのボトルネックが存在していたという解釈になる。
おそらく、当時の私には、「この人を幸せにしたい」という気持ちが強すぎた。
妻と結婚しようと思って義実家に挨拶に行ったが自宅に入れてもらえず、なぜか舞浜のホテルの料理店で義父母や義妹と面会した時、正直なところ合わないと思った。
私が結婚したいと言い出そうとする直前、義父が条件を出してきた。義母と話をつけていたことは確かだ。
なんと、初対面の場で、妻の実家には男性の跡継ぎがいないから、私が養子に入って墓の世話をせよと要求してきた。
私は愕然とした。
自宅で迎えようとしない一族に、どうして私が婿入りせねばならんのだ。私は憤慨したが我慢した。
そして、結婚したいという言葉を言い出さずに帰ることにした。
この人たちの交渉はいつもこうだ。ウィンウィンの関係ではなく、自分たちの主張ばかり。
けれど、私は妻と結婚するわけだから、義実家が合わなくても我慢すればいいと思って、再び結婚に向かって進むことにした。養子については拒否することにした。
これから幸せな生活が待っているんだと私は信じた。
だが、このような義実家の中で妻だけが違うという蓋然性の方が低いことに気がつかなかった。
ここが、私にとってのポイントオブノーリターンだった。
男性が女性と結婚する際、「この人を幸せにしたい」と思うことは間違っていない。非常に教科書的で素晴らしい心掛けだと思う。
だが、それによって男性が幸せになるかどうかは分からない。
妻にとっては、それなりのステータスとそれなりの収入がある男と結婚したわけだが、今ではそれが当然だと思っている。
どうして結婚することができたのかというと、私が「この人を幸せにしたい」と思ったからだな。
このように奇特な男が現れなければ、妻はずっと独身だったことだろうし、本人もそう言っている。市内の義実家には子供部屋おばさんが二人という状態になっていただろう。
この人たちにとっての夫という存在は、世帯の主というよりも、マンションや戸建てのような物件そのものに近い考えなのかもしれない。
間取りがどれくらいで、設備がどれくらいで、築年数がどれくらいで、立地がどれくらいとか。そういった判断基準で男を考えているように思えてならない。だから、一度入居した後はあまり気を遣わない。
義父が義実家において非常に軽い扱いを受けているのは、そのような背景があるのかもしれないな。
これは船橋育ちの父親に聞いた話だが、「この人を幸せにしたい」という気持ちではなくて、「自分が幸せになりたい」という気持ちで結婚した方が、男の人生が幸せになるそうだ。
美女と野獣のような構図で、ヤンキー風のワイルドな夫が美しくて気立ての良い妻と一緒にいるという組み合わせが生じる背景には、そのような感情があるのではないかという話だったな。
余計なことを考えず、とにかく自分が幸せになりたいから猪突猛進でアプローチするのだと。
地元のマイルドヤンキーである彼の人脈を考えると、その話には同級生100人に聞きました的なエビデンスがあると思うわけで、強ち間違ってもいないのだろう。
なるほど、幸せになる主体がどこにあるのかという点を考えると分かりやすい。自分が幸せになりたいから結婚し、自分が幸せになるというベクトルは、希望と結果が一直線に並んでいる。
他方、この人を幸せにしたいから結婚するというベクトルは、相手を幸せにすることで自分も幸せになるだろうというスキームなので、希望と結果が同じ直線上にあるとは限らない。
だが、今になってそのようなことを考えても仕方がないな。
妻が家の中で狂ったように暴れて、あと少しで離婚するという状況になった時、私は妻に「子供たちが独り立ちするまで、私は夫という役を演じながら生きる」と伝えた。
子供たちの存在は当然ながらリアルな存在で役ではない。生物学的に考えて私が父親であることも間違いない。
だが、夫や妻という存在は法的に定められた制度でしかなくて、役所に紙を出して受理されれば夫婦になるし、紙を出して受理されれば夫婦ではなくなる。それくらいの脆い関係だ。結婚式の誓いの言葉は詭弁に過ぎない。
夫という役を演じている同居人という男性と、法的な立場だけではなくて心の底まで夫に徹している男性は違う。私は後者ではない。
前者のような同居人に対しては、会話をする際にも生活を送る上でも気遣いが必要だと思うし、マウンティングどころか、会話のキャッチボールすら成り立たないような状態は望ましくない。
夫の言葉尻をとらえて、子供たちの前で偉そうに誇示する妻の態度には、夫を立てようという姿勢が全く感じられない。
ガチのフェミニストと結婚するとこうなるという典型なのか、あるいはこれが熟年期に入る夫婦の自然な姿なのか。
夫婦の仲が良くないことは子供たちもすでに理解しているし、子供たちが独り立ちするまで夫の役を演じきることにする。
さて、日付が変わって妻子が寝静まった。自室から抜け出して歯を磨いて、さっさと寝よう。
目覚めたところで、心躍ることも希望を持つこともない朝がやってくるだけだが。