競輪だけではなくて中学受験にも捲り屋がいるらしい
とはいえ、大学の体育会で例えれば入れ替え戦で一部リーグに昇格した程度。油断すればすぐに下位クラスに落とされることだろう。だが、子供の成績が安定してくるにつれて、一時期は狂ったように怒り暴れて大変だった妻のメンタルも安定してきた。子供よりも先に母親の精神がクライシスを起こすという中学受験の噂は本当だな。
我が子の得意科目は国語なのだが、この能力がどこから来たのか分からない。
幼少期からハイパーレクシアっぽい性質があった私からの遺伝なのか、子供が幼少期だった頃から妻が熱心に本を読ませていたことが今の国語力に繋がったのか、あるいは私と妻の遺伝子が混ざった結果として何かが起きたのか。
現時点では他の科目が平凡もしくはミスがあっても、国語の成績で全体の偏差値を引っ張り上げている。
私は中学受験を経験したことがないので知らなかったのだが、中学受験の偏差値は、高校受験の偏差値から10くらいを引いた値という感覚がある。
妻は以前から中学受験と高校受験の偏差値ギャップについて熱く語っていたのだが、正直なところ私にはあまり関心がなかった。本当なのだろうかと。
しかしながら、中高一貫の私立中学に進んだ場合には、そこから高校に進んで大学に進むことが多いわけで、その進学実績を眺めてみると、確かにその通りだなと思った。
市内の公立中学校に進んで、そこから千葉県内の公立あるいは私立高校を受験したとする。ここでは分かりやすく県立高校について考えてみる。
上を見たらキリがないので真ん中を見るが、県立高校の受験において偏差値60というと、それなりに勉強ができる子供たちという感覚がある。
それらの県立高校の大学進学実績を見てみると、早慶やGMARCHといった名の知れた私立大学の合格者は認められるが、地方国公立大学の合格者が10名いるかどうか。
千葉県内で入試の偏差値が60もある県立高校ならば、千葉大学に数十名が合格するのかというと、全くそうではない。1年で数名が合格する程度。
それでは、中学入試の偏差値が50という中高一貫校に入学した生徒が、そのまま高校に進んで大学の入試を受験した場合、どれくらいの大学が射程圏内に入ってくるのかというと、大学進学実績だけを見ると大きな違いがある。
大学入試で駿台と河合塾の偏差値が違うように中学受験でも大手塾によって相違があるし、学校によっても進学実績が異なるけれど、一般的に中学入試で偏差値50というラインの中高一貫校の卒業生たちは、1学年で数十名が国公立大学に合格することが珍しくない。
その中には東京大学や京都大学、旧帝国大学を始めとした有名国公立が並び、大学を問わず医学部医学科への合格者も認められる。
GMARCHや日東駒専に至っては1学年で200名以上が合格することがよくあり、もはや大学入試における試し斬りのような存在になっている。
中学入試は親の受験とも呼ばれていて、受験する子供たちは親からも塾の講師からも目標意識を植え付けられ、叱咤激励を受けながら勉強することになる。
大手の塾で真ん中くらいの成績の子供が公立小学校の学級で担任の教師から出題された普通のテストを受けると、100点満点を連発するくらいの学力があると思う。
高校入試の場合には生徒たちの学力が幅広く分布しているので、学力の偏差値50というと正規分布の中でちょうど真ん中になるはずだ。
しかし、中学受験の場合、公立小学校において学力が上位に入るような児童が多く集まってくるわけで、母集団の学力分布が異なる。
その集団の中で真ん中くらいの成績、つまり偏差値50という数値は、普通の小学生の中で真ん中の学力ということを意味していないということだな。
では、高校受験で偏差値60の県立高校に進んだ生徒と、中学受験で偏差値50の中高一貫校に進んだ生徒において、地頭がどれくらい違うのかというと、私にはよく分からない。
しかし、後者の場合には、子供たちの学習に大人からのサポートが入り、その分の金がかかるが環境も整っている。
中学受験で実感したが、受験産業が用意してくるカリキュラムは、大人が見ても面白い。授業も面白い。
面白いと表現するのは語弊があるかもしれないが、実際に面白いのだから仕方がない。笑いを取ってくるのではなくて、知的好奇心や達成感を刺激する内容になっている。
ほら、大人でも何か仕事で難しいテーマに直面したり、プライベートで悩みごとがあって、それらが解決するとスカッと気持ちが軽くなり、爽快な気分になる。また、積み上げてきたことが形になれば、大きな満足感がある。
それらの感覚を重視している気がする。受験塾に通ったことがないから細かくは分からないけれど。
今まで私立の中高一貫校という存在は私にとって謎な存在だったのだが、妻が私に渡してくる学校案内を眺めてみても、子供たちの学力を上げるだけでなく、様々なことを経験させようと教員たちが努力していることが分かる。
魅力的な学校にしないと子供たちが集まってこないわけだから、当然といえば当然だが、その努力が親にも伝わってくる。むしろ、中学受験では親の意向が大きいので、大学進学実績については隠すことなく堂々と提示している。
他方、千葉県内の公立高校の場合、公式サイトを何度もクリックしないと大学進学実績のページにたどり着かないことが多い。やっとページを見つけたと思ったら、年度別の合格者をPDFで貼り付けているだけだったりする。教員たちのやる気が認められない。
すると、我が子たちが県立高校に通っても、この程度の指導しかないのだろうと親は思ってしまう。
もちろんだが、千葉県内の県立高校でも凄まじい大学進学実績を叩きだしている学校はいくつかある。
中高一貫の千葉高校はともかく、高校からの受験であれば船橋高校、千葉東高校、佐倉高校といった偏差値70台の学校は、私立の中高一貫の上位校に匹敵するくらいの大学進学実績を有している。
この点については妻と同意見なのだが、公立中学校から難関の県立高校に進む子供たちはスーパーマンだと思う。
そういえば、佐倉高校から一浪で早稲田大学に着地した父親を知っているが、色々な意味でスーパーマンだった。二度と会いたくない。
もとい、私にとって経験のない中学受験という存在は、今までの価値観が通用しない世界だということを実感したので、妻や子供が考える学校の選択や学習スケジュールについて私はとやかく言わないことにした。
子供が塾のテストを受けた時には偏差値に10を足して考えるようにしてみたが、志望校として中学の名前が出た時には全く想像することが難しい。
首都圏出身でもないので学校のレベルは知らないし、何とか中学校はどうかと言われてパンフレットを渡されても、最初に見るのは大学進学実績、その次に入学金と授業料。制服とか高校の部活とか修学旅行の内容なんて全く見ない。
むしろ、中学入試の偏差値があまり高くないはずなのに、大学進学実績がとても良い学校の方が気になる。そのような学校では、子供たちの学力を引き上げるためにカリキュラムの質や教員のパフォーマンスを高めているはずなんだ。
妻は中学入試がゴールだと考えているような感覚があって、もちろんその先も考えてはいるが、目の前のハードルをクリアせねばならんだろうという方針なのだろう。
私はどうなのだろうか。
結婚して子育てに入って嫌な街に住んでバーンアウトしていなければ、子供たちの大学入試を当面のゴールとして設定し、その地点から中学入試を考えていたかもしれないな。
孤独で深い思考の井戸に落ちて、そこから地面まで這い出して周りを見渡している現在、学歴社会の意味について何だか達観してしまった感覚があったりもする。
ほとんどの感情を失い、モチベーションがなくなり、頭で考えても身体が動かない恐怖と諦めの中で見えた世界は、とても静かだった。
学生時代に授けられた銀杏の紋章なんて、この世界では何も意味がなかった。
受験業界が偏差値という数値を使って人間を横並びにしているが、その偏差値の対象は机上のテストの成績。それらは人の能力の一部でしかない。
しかも、子供たちの受験においてそれらを商売にしている大人たちが介入している。実家に金があるかどうかでも環境が変わる。試験は公平に行われても、子供たちのスタートラインが公平だとは言えない。そんな数値で人間の能力なんて比べられるはずがない。
だが、それが現実なんだ。
偏差値に従って人々が学校を選び、卒業してレッテルを貼られ、就職や学閥といったビジネスシーン、さらには自分の結婚どころか、親戚の結婚式の披露宴の親族席でさえ引き合いに出される。これって何なんだ。
学歴のメリットを享受した自分が何を言うかと叱られそうだが、確かに受験の競争を勝ち上がると利がある。
就職試験を受ける時にはその職場にOBが働いていたりもするわけで、教官や同窓生を含めて縦の繋がりがある。銀杏の紋章は非常に強力だ。面接試験が終わった段階で採用を確信することができるくらいに。
横の繋がりも重要だ。職場の外で活躍している同期や先輩、後輩たちとの人脈は大きな力になる。
他方、妻としては学歴にコンプレックスがあるわけではないけれど、就職の際には氷河期でとても苦しんだ経験がある。あの苦しみを我が子たちに味わわせてなるものかという深層心理があるのかもしれないな。
それは妻に限った話ではなくて、中学受験でヒートアップして子供よりも熱量が高い親の中には、自身の経験が背景にある場合があるのだろう。
そう考えると、学歴とは生きるための道具のひとつに該当するのかもしれないな。より優れた道具を手に入れようと人々が努力するのは間違ってはいない。
しかし、道具は道具に過ぎない。本人にとって豊かな生き方は道具だけで決まらないし、それまでに積み上げた価値観が崩壊した時には、まるで役に立たない道具だと思った時もあった。
「そんなことはない!」と思う人たちは、一度、価値観を崩壊させてみるとよく分かると思うよ。凄いから。
さて、上の子供の現時点での学力においては、国語という大太刀が出来上がってきた。
大太刀は背負い刀とも呼ばれ、中国では同様の刀が斬馬刀と呼ばれていたらしい。
それを中学受験に例えると、偏差値70という騎馬武者が目の前に立ちはだかっても、乗っている武士どころか馬まで真っ二つにするくらいの威力がある。
他の科目が平凡な成績あるいはミスをしても、国語の成績で全体を引っ張り上げるというのは、そのような意味だ。
翻って、国語という大太刀が空振りすると、全体の成績が落ちる。その場合であっても形勢を立て直すことができる第二、第三の武器がほしいところだ。
中学受験までに間に合うかどうかは分からないが、学習が面白いと熱中することができるようになれば、自然と成績が上がってくるはずだ。
また、上の子供と私とを比べて、劣っていると感じる部分もあるし、優れていると感じる部分もある。
とりわけ優れている点としては、これだけ妻や塾の講師たちがプレッシャーをかけているのに真正面から響かないメンタルの強さだな。
定期テストの直前に教室に駆け込んだりもするわけで、試験が始まると逆にリラックスすることがあるそうだ。陸上選手がスタートラインに着いた時に鼓動が静まって落ち着く感じなのだろうか。
上の子供の成績が芳しくなくて妻が怒り暴れていた頃、「この子はまだ頭の中が十分に育っていない。今、怒って叱るのは逆効果だ」と何度も説得した。
しかし、妻がその説得を聞くはずもなく、怒って叱り続けた。結果として、上の子供には強靱なメンタルが育ってしまったらしい。
塾の講師たちが上の子供に付けた評価が「未知数」と聞いて妻が愕然としていたこともあった。
せっかく用意した子供部屋のデスクの前で勉強している姿を見かける方が少なかったので、これでこれだけの成績が出るのだから、まさに未知数だなと私も思った。
最近では、さすがにヤバいと思ったのだろうか、上の子供がきちんと座って学習している時間が増えてきた。
「うーん、確かに、この子は『捲り屋』かもしれないわね...」と妻がつぶやいた。
「捲り屋」というのは競輪用語で、残り数百メートルから猛烈なスプリントをかけてゴールラインの先着争いに入ってくるタイプのこと。
まだ、勉強という活動自体に意味を感じていない状態のわが子に対して、妻が怒り狂ったように暴れていたので、「この子は捲り屋なんだよ」と私が説得しようとした時のことを覚えていたらしい。
捲りのイメージについては、YouTubeで中野浩一さんのスプリントを見るとよく分かる。最初から後方に位置していたのに、最後の鐘が鳴った後、タイヤのスリップ痕が残りそうなくらいの強烈な脚力によって先頭まで躍り出て、そこからゴールラインに雪崩れ込む感じ。
実際のところ、大学受験では捲り屋よりも先行逃げ切りのタイプの方が多いはずだ。すでに脳が出来上がっていて地頭も固まってきていると思う。また、受験に必要な情報量が圧倒的に多い。
しかし、中学受験の場合には小学生が受験するわけで、まだ頭の中が十分に発達していない。脳が発達しながら時間が進み、そこに受験というゴールラインがあるわけで、どの時点でスプリントがかかるのかは子供によって違う。
当然だが、受験塾の講師たちは数え切れないくらいの子供たちの学習や受験を目にしてきたはずだから、「このタイプは、このような結果になるな」という経験則が成り立つはずだ。
その経験則が成り立たない子供たちが「未知数」と呼ばれるのかもしれないな。平凡な結果で終わるのかも知れないし、「ジャイアントキリング」と呼ばれるように想像以上の結果を出すかも知れないという意味で。
模試の時には落ち着いていても、本番でガチガチに緊張して結果が出なくなるというパターンもあるだろうし、わが子が勝負強さを発揮すれば何かが変わるかもしれない。
残り少ない時間で、どれくらい捲って行けるのか。最後の鐘が鳴った時では遅いかもしれないし、私が何か焚き付けたところで響くような相手でもない。あの妻のプレッシャーに慣れているくらいだから。
まあとにかく、ようやく妻が落ち着いてきたので良しとするかと思っていた矢先、今度は下の子供の学習について妻が怒鳴り声を上げることが増えてきた。
そうか、子供の数だけ、中学受験が続くわけか。次はどんなタイプの子供なのだろう。
公園遊びに連れて行った頃が懐かしい。戻りたくはないけれど。