セーブポイントだった駅前の漫喫
日本全体でクリスマスを祝うという意味が分からない。なぜにチキンなのか。海外からは入ってきたものが日本風にカスタムされた事例の典型だな。
とはいえクリスマスも子供の頃はおもちゃを買ってもらえるとか、青年時代は彼女と気分が盛り上がってイチャイチャするとか、そういった楽しみがあった。五十路を控えた中年親父には、寒くて忙しい時期でしかない。出費が増える。
それでも我が子たちはクリスマスをとても楽しみにしていて、子育ての中では良きエピソードと生活の波が生まれる。
上の子はサンタの正体がネットでポチる父親やヤマトの配送の人たちだということに気付いている。
今年のプレゼントについての上の子供からのリクエストはやけに細かくて、規格からオプション、カラーリングまで指定がある。
しかも、あらかじめ上の子供はプレゼントの内容について妻と話を調整していた。まるで霞ヶ関の人たちのようだ。これならサンタの仕事も楽だ。
夜の街中には忘年会帰りの中年男性たちと若い男女があふれ、通勤地獄に加えて酒気帯びの人たちが通行を妨げたり、電車の中でフラフラになって周囲に迷惑をかける。
街中で酒を飲むと捕まる国があるが、我が国は昔から酔っ払いに寛大だな。
年末の盛り上がりなんて要らないから、フラットなペースで一年を回してもらえないだろうか。長年生きてきて、この春夏秋冬のサイクルに飽きた。
このような時期を含めて、仕事と家庭で疲れた時に私が数時間もしくは半日くらい訪れてリラックスする場があった。それは新浦安駅の北口方面にあったネットカフェ。
スマホが普及した昨今ではネットを楽しむというよりも、私にとってはたくさんの漫画本を読みながらコーヒーを飲んだり居眠りをしたり考え事に耽ったりと、隙間のない共働き子育ての毎日の中で貴重な癒しの空間だった。
睡眠時間を追加したり心を整える上で、この小箱に入る感じが何とも落ち着けて、自らを日常から切り離す感覚もいい。
生きているとHPがレッドゾーンになって前にも後ろにも進めないような気持ちになることがある。
そういった時に立ち寄って精神力を補充するような場があると助かる。その場という存在は人によって様々なのだろう。
しかし、このネットカフェは新浦安の人たちはあまり必要とされなくなったようで、次第に客が少なくなり、清掃も至らなくなり、閉店が近くなった頃にはかなり荒れた状態だった。
マナーが良くない客が個室を好き勝手に使用したり、掃除が行き渡っていなくて床やシートがベトベトしていたり。
備え付けの綺麗なガラスコップが、曇ったプラスチックコップに変わった時、この店の将来を察した。
隣の個室に他の客がいるのに、まさにスモーキーマウンテンのように煙草を吸い続ける客に店員が注意しなかったり。飲料用の製氷機が壊れたまま放置されていたり。
閉店することがアナウンスされる前からそろそろ限界なのかなと感じていた。しばらくして閉店。
閉店後のスペースは子供たちが通う学習塾の拡張のために使用されるらしい。これだけタバコ臭いと内装から空調ダクトまで総入れ替えの大工事だな。
そのネットカフェも開店当初は素晴らしい環境でサービスも良かった。仕事が忙しくて疲れていて、さらに夫婦共働きで家庭のテンションが張っている時。
出勤のために新浦安駅までたどり着いてもそこから前に足が出ず「こりゃ、無理だわ」と空を見上げて限界を感じたら、職場に電話した後、ネットカフェで休むということがよくあった。
世の中には仕事と家庭で疲れてしまう父親たちが多いと思う。メンタルを痛めて休職してしまう人、投薬を受けながらでも働いている人。辛くて苦しいことだろう。
けれど、無理して良き父親になる必要はないと思う。父親が疲れて倒れてしまったら、世帯そのものが傾いてしまう。多くの場合、共働きの妻は夫の疲れに気付かないと思う。
父親は家庭を守ることが役目だが、自分を守ることができるのは自分しかいないくらいの気持ちがあった方がいい。
仕事も頑張って、家事や育児も頑張って、それでも家庭で笑顔で居続けようとか、そういった父親像が本当に正しいのだろうか。
そういった父親のスタイルを啓蒙している人たちは、どういった人たちなのか。
自分の仕事のペースを自分で決められる事業主とか、脱サラした後で新しい父親の生き方を行政に提言しているような人たちが多くはないか。
新しい父親像をアナウンスしている行政の中の父親たちは、はたしてその父親像に近付いているか。旧態依然とした残業で仕事をこなしているのではないか。
すでに掠れつつあるイクメンという概念のオピニオンリーダーも大切だと思うけれど、仕事と家庭で雁字搦めになっている多くの父親たちが自分の意志でライフサイクルを変えられるのだろうか。
疲れた時には休めばいいのさ。あまりに家庭のことが圧し掛かったら、妻と話し合って倒れないように休めばいいのさ。
それを理解しない家庭なら、良き父親になる必要なんてないのさ。人の能力にも精神力にも限りがある。偶像のような父親像を追い求めてはいないか。
他方、色々と不満を溜めたところで、人の生き方は往々にして自由にはならない。生きることの不条理に押し潰されそうになることもある。
職業人や父親として生きる生活の中で、自分の周りが先に進んでしまい、自分自身がドラマの役を演じているような違和感が生まれることさえある。
そういった時、新浦安駅前のネットカフェは、私にとって腰を落ち着けて考えるためのセーブポイントになっていた。
かなり前からネットカフェ難民という言葉が広がっていて、長期の宿泊等は規制した方がいい気がしていたし、何ら気兼ねなく利用客が喫煙するというシステムも時代に合っていないと考えていたが、リラックスできるチェアでのんびりと漫画本を読みながら、好きなドリンクを楽しむという雰囲気が最高だった。
女性にとってはどうなのか分からないが、男性の立場で考えると、毎日の生活の中で一人になって考え事をしたり、何も気にせずに落ち着ける場所というのはとても重要だと思う。
テンションが張り続ける毎日の中で、心の負荷を軽くするような場はどうしても必要になる。そういった場が少ないからこそ、決して少なくない数の父親が仕事や家庭で追い詰まって倒れることがあるのではないか。
この店の閉店は痛い。元町のネットカフェに行く気にもなれない。
しかし悲観的になってばかりもいられない。ネットカフェが閉店したので、私はロードバイクやスピンバイクを置いている小部屋にクッション等を置いて、自宅ネットカフェを開設することにした。
家族が入ってこないような空間の中で好き勝手に映画を観たり、ブログを書いたり、居眠りをする。もちろん必要な家事は行う。
共働きの子育てでは、子供たちのことに気を遣い、妻の機嫌にも気を遣い、父親はギリギリまで追い込まれることもある。
そういった状況を嘆くのは簡単だが、父親のエゴを出してもいいんじゃないかと思う。亭主関白ではないけれど、我慢して父親が倒れるよりはその世帯のリスクヘッジにもなる。
集合住宅なので上の階にも隣の部屋にも隣人たちの気配がして疲れるが、耳栓をすれば問題ない。昭和の父親たちが書斎を求めた理由がとてもよく分かる。男は一人になりたい時がある。
妻からは、「引きこもってばかり!」と叱られたりもするが、子供たちが育ってきて夫婦の夜は簡素になったわけだから、私は自分の時間を楽しむ。
自分の居場所で酒を片手に愛車のロートバイクを眺め、適度に酔ってきたところで床に就く。翌朝のスピンバイクのトレーニングを楽しみにしながら。
生きていくことは死ぬまでの暇つぶしさと歌ったロックな人がいた。それくらいの気持ちになる時間も必要だな。