2021/08/08

正味の話、いつまでサイクリングを自粛するのか

「こんな時にロードバイクで車道を突っ走るって、何を考えているのでしょうかね。医療機関は大変な状態になってるんですが」という私のつぶやきに、普段からお世話になっている理髪店のマスターが「たぶん、知らないからだと思いますよ」と答えた。

理髪店には様々な客が訪れて、様々な日常の散髪トークが繰り広げられる。リラックスした状態の中での客のつぶやきは、情報量としては凄まじいものがあることだろう。理髪店のマスターとしては、昨今のコロナの感染爆発について「ああ、このような社会の状態ならば、いつかそうなるだろう」と思っていて、特に驚きを感じなかったそうだ。


彼が言う「このような社会の状態」が何を意味するのかというと、感染症に対する八方塞がりな行政のアクション、それらに不満を溜めて自分のことばかり優先する人々の気の緩み。

「どっちもどっちだと思いますよ」と、理髪店のマスターは諦めたようにつぶやいた。

最近のHYPSENTには奇妙な傾向があって、谷津道を舞台にしてサイクリングルートを探すというテーマの録ばかりにアクセスするネットユーザーが増えてきた。

彼らが何を考えているのか分からないが、要は暇つぶしなのだろう。私が撮影した写真を見ながらサイクリングを疑似体験して、楽しそうならば自分も走ってみようとか。

おそらく、そのような人たちとの間では、政治や行政、社会についての真面目な話なんて通じない。

存在しているけれど、考えたところでどうにもならない。そのような世界の話なのかもしれない。

多くの人たちは、もっと露骨で単純なインセンティブやモチベーションで生きている。

理髪店のマスターの方が社会について俯瞰した考えがあるのは、いわゆる床屋談義で膨大な数の人たちの内面に接し、それらを理解して記憶するからだろう。

理容師に限らず、客と接する仕事ではよくあることだ。

彼らの情報量は半端ないので、マスターと話をすることで多くを学ぶことができる。

現実問題としては、経済を回さないと社会が傾き、流行病どころではない数の人たちが苦しみ、時に自死するかもしれない。

徹底した感染症対策によって社会が傾くことを懸念し、ワクチンの接種を加速させながらも平時の状態に戻そうとしている海外の国々が認められる。

これらの国においては、感染者数よりもワクチンの接種率や死者数という数字が注視され、もはやPCR検査は必要ないのではないかという議論さえ生じている。

ワクチンを接種することで風邪程度の症状になるのであれば、それは風邪だと考えて差し支えないかもしれない。

現時点で用いられているRNAワクチンには高熱などの副反応が生じることが多いわけだが、不活化ウイルスをベースにした国産のワクチンが普及するようになれば、副反応を恐れる必要もなくなる。

毎年接種するインフルエンザワクチンは不活化ワクチンだ。接種した翌日に寝込むということはほとんどない。

社会全体の流れはある程度分かってきたが、自分の家庭という小さなスケールでは、相も変わらず細かな影響を受けている。

下の子供が通っている児童育成クラブ、いわゆる学童保育が一時的に閉鎖されることになった。そこに通っている小学生にコロナ感染者が認められたからだ。

夏休みの時期なので、この事態はとても痛い。

我が子は濃厚接触者に該当しないという判断だったが、夏休みに学童で預かってもらえないので親が家庭で面倒を見ることになる。

市内の義実家は孫育てを拒否しているので、最初から当てにしていない。それならば、近い将来の義父母の介護を拒否する。助けてくれないウトメを助ける必要はない。

もしも子供が濃厚接触者になってしまったら、その親も濃厚接触者という扱いになり、職場にもよるが出勤停止になる。私の場合にもしばらくは自宅で様子を見ろという指示が降ってくることだろう。

名指しで批判したくはないが、うちの子供たちが通っている小学校の校長や教頭は、コロナ感染者が認められたという話を聞いて肝を冷やしていることだろう。

この小学校は、最近、親である私から見ても「大丈夫なのか?」と感じるほどに感染症対策が緩んでいた。

「保護者が希望するから」という理由でオンラインではなく現地での学習参観を実施したり、「昨年は実施できなかったから」という理由でプールでの水泳の授業が始まった。

保護者にも様々な意見があって当然で、私としてはリスクがあると思った。現地での学習参観を希望する保護者がいるという理由でそれを実施するのは適切ではない。

また、昨年は実施できなかったというけれど、状況としては昨年よりも今年の方が厳しいわけで、そもそもの理由になっていない。

社会全体の気の緩みが、教育現場にも反映されているのだろう。このような対応を執っていたら、千葉県にも感染爆発がやってきて、さらに深刻な制限が生じるリスクがある。

下の子供は休日になると外で友達と遊ぶ習慣があるのだが、学童保育が閉鎖されている期間は外遊びを控えることになった。それは私の方針だ。

リスクの先にある展開について、妻が見通しているようには思えない。現時点での行政の対応としては、症状がなくても陽性になっただけで社会的な制限が生まれる。

しかも、妻が様々な予定を詰め込んで余裕がないピーキーな我が家では、学童が一時閉鎖されるだけでも夫婦間あるいは家庭全体にテンションが張る。

「それならば、休日に下の子供と遊べ」という意見が妻から私に飛んできた。私には休日でも在宅の仕事もあるし、健康維持のための趣味もあるのだが、反論しても喧嘩になるだけだ。

我が家にはゲーム機がないので、パソコンでパズル系のブラウザゲームを適当に見繕って、下の子供を遊ばせることにした。

私の仕事では難解なパズルを解くようなシチュエーションがよくある。他の仕事でも論理性を鍛えることは大切だろう。

アクションゲームやロールプレイングゲームも娯楽としては楽しいが、子供だけではなくて大人でさえ依存性があるので、我が子たちには与えない。

これまでの1年半近くは、人々の対策や社会の自粛によって耐えてきたが、実際には流行病に対する本当の戦いがこれから始まる。

現時点での大波が大波だと思っている人が多いけれど、海外ではその何倍どころか何十倍もの大波が生じている。

毎日のように速いペースで感染者が増え続けると、重篤な状態の患者も増える。日本の病床数は世界トップレベルだというけれど、感染症での救命に耐えうるだけの設備や人員には限りがある。

一般病床を縮小して対応するような事態で、サイクリングで転びました、熱中症にかかりましたと入院するリスクは回避したい。そのようなことがあれば、医療機関にも私自身にもダメージがあり、職場においても「こんな時期に何やってんだ?」と呆れられることだろう。

サイクリング中の事故は確率論だと言う人がいるが、確かに一理ある。緊急事態宣言下であっても、その期間において確率論的に落車しなければ、医療現場の逼迫や崩壊について個人レベルでは関係しない。

この状況でもロードバイクに乗って道路を疾走する人たちは、自分が落車するという可能性を考えていないと思う。

気をつけないと落車するかもしれないという考えはあるだろうけれど、「ただちに落車する危険性はなく、必ずしも入院するという論拠には当たらない」という役所文学にも似た解釈になる。

サイクリングが心身の健康維持のために必要な私としては、感染の拡大がピークアウトした時点で谷津道に出かけたいのだが、本当にピークアウトするのかどうかも分からない。

ピークを過ぎた後でも、波が完全に引かずに推移して、そこからさらに大きな波がやってくるように思えてならない。

だとすれば、ずっとサイクリングに行くことができないではないかという気持ちにもなる。

人は少しであっても希望を持って生きることが大切で、何も希望がないという状態が続くと気分が落ち込む。

では、どのような段階になれば、気兼ねなくサイクリングに出かけることができるのだろうか。自分の中での判断基準がほしい。

最も明確な基準としては、医療現場の逼迫がなくなること。そのような時期がやってくるのかどうか分からないが、ワクチンの接種率が対象年齢層の80%近くになれば状況が変わってくる気がする。

もうひとつとしては、社会におけるコロナの位置付けが変わること。ワクチンが普及して、コロナがインフルエンザ程度の認識になれば、感染症法上の扱いも5類になることだろう。

その場合、コロナ患者に対応することができる医療機関が増え、高度な医療を提供する病院の負荷が減る。

これらについては、私自身がどのように足掻いたところで全体を変えることはできないわけで、個人や家庭での感染症対策を執りながら、行政や世論の変化および時間の経過を待つということになる。

これでは、いつになったら気兼ねなくサイクリングに出かけることができるか予想もつかない。

なるほど...「人々の気の緩み」と一言で表現しても、それが「緩み」に該当するかどうか分からないということか。

先の見えない黒い霧のようなフラストレーションに耐えかねて、「もういいじゃないか!」と箍が外れる背景には、気持ちが緩むのではなく、開き直ってしまうという感情があるのだな。

では、サイクリングに出かけたとして事故に遭って入院する確率を減らすとすれば、どのような考えになるだろうか。

緊急事態宣言下においてサイクリングが禁止されているわけではない。コロナによる感染のリスクが高いわけでもない。

事故による入院を過度に懸念し過ぎて、結果として心身の健康を損なうのであれば本末転倒だな。

サンデーライダーの走行速度としては平均時速が25km~35km程度。一般道もしくは河川敷の遊歩道を走ることが多い。

路面や前方の障害物に気がつかずに接触する、予期せぬ事態でバランスを崩す、もしくは不意に飛び出てきた車等と衝突するといった確率をゼロにすることは難しい。

しかし、落車して転倒した場合でも怪我を最小限に抑えることができれば、入院するリスクを減らすことができると。

そうなると、速度を落とし、安定性を高め、咄嗟のブレーキが利くようなスポーツ自転車のカスタムを優先したい。フレームの納品を待っているシクロクロスベースのオールロードは、この方針によるものだな。

次に、ヘルメットは当然のこととして、肩や大腿骨のプロテクターについては常に装備しているが、アームプロテクターがあればさらに良いのだろうか。

ただのサイクリングでアームプロテクターまで取り付けるなんて、どこまで神経質なんだと思ってしまうわけだが、絶対に入院することができないと覚悟するのであれば、見た目なんてどうでもいい気がする。

むしろ、このご時世にも関わらず、布一枚で車道をマッチョに疾走する方が無謀で思慮が足りないと思う。

「私は、いい年をこいて何も考えていません!何も考えていないから、こんな格好で走り回ってます!」とアピールしているようなものだ。

本人はストイックにトレーニングを積み重ねていると自惚れしているのかもしれないが、周りから見れば常識が欠落したオッサンだな。

イメージとしてはママチャリに乗って散策する感じがいい。ママチャリで走っていて落車して重症を負う人もいるが、スポーツバイクよりもその頻度は少ないはずだ。

また、落車や事故が確率論であるとするならば、それらの確率を減らす上で非常に大きな変数がある。

それは走行時間だな。2時間走る場合と、6時間走る場合では、単純に時間が短い方がリスクが減る。その分、重い自転車に乗れば、身体を心地良く疲れさせることができるだろう。

自分の頭の中の考えをまとめると、以下のようになる。

 ① 歩道や路面の起伏に乗り上げても安定している自転車を組み上げる

 ② 走行時間は短めに、速度は抑えめに、混み合った道路を走らない

 ③ 怪我を最小限に留めるためにプロテクターを着用する

 ④ 現在の感染者の波がピークアウトするまで待つ

これらの条件が整った段階にて、サイクリングに出かけることにしよう。

④がどうなるのか最も先が見通せないが、今すぐサイクリングに出かけるのは危険だと私は思う。臨床現場が戦場と化している施設も増えてきた。

日本のマスコミは、どうしてもっと現実を人々に伝えようとしないのだろう。

テレビや新聞が「医療が逼迫しています」という言葉だけを流すのではなくて、実際に人が倒れて病床が並んだ姿や、疲弊したドクターやナースのリアルな姿を報じれば、開き直って箍が外れた人たちも少しは正気に戻ると思うのだが。

①にてオールロードを組み上げるだけでも時間がかかるので、あまり焦らずに過ごそう。

そろそろ谷津道では稲が豊かに実ってきたことだろう。9月になるとどのような光景なのか、楽しみにして待つのもいい。