2021/08/01

俺の心は決して折れない、なぜなら、すでに砕け散っているからだ!

....というフレーズをドヤ顔で叫んでいる自分のイメージを頭の中に浮かべたまま起床して、なんだそれはと自分で笑ってしまった。眠っている時に何を考えていたのだろう。実際には、心が砕け散っているというよりも、バーンアウトで燃え尽きて灰になり、ようやく砂粒程度にまとまってきたと表現した方がいい。

しかし、「砂になった...」という寂しげな表現ではなくて、「砕け散った!」と言い放った方が明るくてインパクトがある。なんて中二病的な思考なんだ。さて、私には昨今の個人ブログの世界について、とても気になっていることがある。


朝の電車通勤の途中、中学受験が近づいてきて緊張感を増す家庭の空気に疲れてしまい、自室で膝を抱えて過ごす時間が増えてきた私は、スマホのブラウザに保存してあるブックマークを開き、かつては定期的に訪れていた数々の面白い個人ブログを巡回することにした。

そして、それらの変わり果てた姿に言葉を失った。

芥川龍之介の遺作となった「歯車」という作品をリスペクトして、普段から重く苦しいブログを続けている私が、他者のブログについてとやかく言える立場でもない。

だが、ブログブームの終焉から緩やかに続いてきた変化が、コロナ禍をきっかけとして急激にその度合いを増したように感じる。

変化の多くは今年の春先、あるいは梅雨時期を境に生じているようだ。その前から変化があったブログも散見される。

長らく更新され続けたブログが突然更新されなくなるという現象は以前からよくあった。しかし、最近では、何の前触れもない更新の停止がとても多いように感じる。ツイッターまでが鍵アカウントになってしまっていたり、何が起きたのだと思うこともある。

更新が止まっているわけではないが、そのブログの内容が急激に変わってしまったというブログも目にする。

それまで特定の趣味について連投していたブログが、途中から別の趣味のブログになっていたり。

文章がなくなって鳥の写真だけが投稿されるブログになっていたり。

ネットを介して洗脳されてしまい、国家の陰謀について糾弾するようになったブログまで見受けられる。

別のブロガーは最近、40代の独身で脱サラしたらしい。泳げたいやきくんシンドロームだな。この先、どうするのだろう。婚活で将来への夢を持っていたのに。

おい、どうしたんだ。

一体、何が起きているんだ。

みんな、どうしてしまったんだ。

そういえば、ご主人と一緒に小さな子供たちを育てているお母さんが、4コマ漫画でほっこり系の日記を綴っていたブログがあったな。

子育てに疲れた時、そのブログを拝読して気分転換していたのだが、アクセスしてみると、最近、リニューアルしたことが分かった。

そのブログのトップページには、ご主人のイラストが見当たらない。お母さんと子供たちだけだ。

なぜだ、なぜなんだ?

最近、そのブロガーは離婚して、子供たちと一緒に実家がある地方に帰ったそうで、元夫についての記事を削除しているらしい。あれほどまでに仲が良かった夫婦でも離婚するのか。

とても大変な生活で頑張っておられるが、自分の気持ちがほっこりしなくなった。

その他にも以前は楽しそうにしているブログが見受けられたのだが、最近ではトーンダウンしていることが多い。

趣味もしくはプロボノとして千葉県内のコロナ感染者数のマップを作成して公開しているような人がいたりもするが、本業でもない人がそれを続けていると精神に負荷がかかるので、やめた方がいいと思う。

本業はそれらのデータを生命現象のひとつとして興味を持って解析しているが、素人がそれをやると襲いかかってくる恐怖が脳に刻まれて、いつか病むことになる。その証左に、最近ではそのブログは暗い内容が多い。

ツイッター等のSNSでは、ユーザーの内面が吐き出されるわけだが、短文の投稿の場合にはペルソナを被ることもできると思う。

しかし、ブログの場合には、ある程度の文章を用意して投稿するスタイルなので、内面の変化を隠すことは難しい。

このコロナ禍で、多くの人たちの心に負荷がかかっていることは間違いない。その影響がブログという趣味にまで及んでいると考えて矛盾しないだろう。

私の場合、バーンアウトという心の井戸に落ちて、ようやく井戸から出て這いずり回っている時にコロナ禍がやってきたので、一体、どの時点で気分が落ち込んだのか分からない。

しかし、他の多くの人たちは、普通に生活していてコロナ禍がやってきたわけで、その落差が大きいはずだ。

この状況で深刻だと思うことがある。それは、社会全体が受けているストレスを自分自身に取り込んでしまい、どこまでが社会の問題で、どこまでが自分の当面の問題なのかが分からなくなること。

個人は大なり小なり社会の中で生きるわけだが、流行病による混乱で自分の立ち位置が分からず、ストレスに飲み込まれるような感覚があるかもしれない。

バーンアウトの原因のひとつとなった子育て中の妻の荒く激しい言動に苦しんでいた頃、学生時代に一般教養科目だかで学んだ古典心理学の内容を思い返したことがある。

その中で、Personal boundaries、つまり「個人の境界」と呼ばれる概念をとても面白く感じた。現在の日本では「自他境界」と呼ばれる概念がネット上に散見されるが、それによく似ている。

両者の概念について比較してみると、実際には細かな部分が違うこともある。個人の境界という概念は、心理学や社会学といった幅広い分野で使われている。

一方、自他境界という概念は、昨今の子供たち、あるいは大人の発達障害についての内的な世界を解釈する上で使われることが多いようだ。

うちの妻は、どうしてこんなに些細なことで激高して暴れるのだろうかと、悩み苦しみながらも彼女の内的世界に興味を持った。

個人の頭の中、とりわけ感情や思考を司るエリアでは、「自分」と「他者」が共在しているという理解になる。

存在している他者とは何かというと、もちろんだが他者の霊魂といったオカルトではなく、視覚や聴覚などから脳に入力された「情報」という電気信号だ。

そのような他者の情報は、自分の頭の中にいるけれど、その情報自体は他者から生じており、他者の一部と考えて矛盾しない。

そして、個人の頭の中では自分と他者が存在している状態において、時には他者を否定し、時には他者を肯定することで、自分と他者の考え方の違いを感じ取ったり、人間関係における位置を決めるという私なりの解釈になる。

ASDの発達障害の傾向がある人は、自他境界が曖昧になっており、自分と他者の情報が頭の中に共在した時に、どこまでが自分で、どこまでが他者なのかという区別が付かずに混乱することがあるそうだ。

診断を受けたことはないけれどガイドライン上は自分自身がASDに該当してしまうし、職場にも変わった人たちが多いので、そうかこれが普通ではなかったのかと思ったりもする。

私が電車で通勤していて、どこかで人身事故が起こる度に嘔吐しかけるのは、自分が飛び込んだイメージがループするからだ。しかし、周りを見渡すと、我関せずでスマホを眺めていたり、平然と笑っていたり、目を閉じて眠っている人たちばかりだ。

ツイッターを眺めれば、死にたいならひとりで死ねと罵倒する人たちばかりだ。このようなSNSの世界が楽しいのだろうか。地獄にしか見えないが。

この人たちの頭は大丈夫なのか、いや、社会がすでにおかしいのかと愕然としていたのだが、どうやら自他境界が明確な人には、人身事故は単なる他人事であり、さらには迷惑な存在として認識されるらしい。群れで生き残る上での本能のひとつとも言えそうだ。

確かに電車が止まると予定が滞って大変だが、人間が電車に飛び込んだのに何も感じないなんて...脳って凄いなと思う。

自他境界が曖昧な人たちにおいて、他者の怒りや喜びといった情報が自分の中に雪崩れ込んできて、まるで自分自身と混ざって混乱する感じはよく分かる。

満員電車に乗ると、まるで悪霊に取り憑かれたかのように疲れたりするのも、他者が感じているストレスという情報が、自分の精神の深くまで入り込んでしまうからなのだろう。

では、私に対してあまり気を遣わない妻の自他境界がどうなっているのかというと、「自分は自分」「他者は他者」という境界が強固に出来上がっていることが分かる。

この精神構造が、今夜の夕食はカレーだと言い始めたら何があってもカレーになるといった妻の鋼のような自己肯定や、私が自宅で死にそうになっていても虫ケラを見下すような表情のままという鋼のようなメンタルに関係するのだろう。

うちの妻は、知人に不幸があったとしても、真正面から捉えずに他人事のような顔をする時があるし、小さな子供が虐待で亡くなったというニュースの話をしている時に笑っていたことがあって、その時には背筋が寒くなった。

そのサイコパス指数高めな自他境界に気づかなかったのは私自身なのだから、文句を言っても仕方がない。

私の人生をかけた心理学的な研究の対象として観察し続けることにした。

ところが、鋼のような妻の精神構造において、自他境界が存在していないと思われる部分もある。それは、血の繋がった家族との間での自他境界。

私が妻を理解する上で苦しんだ理由は、本来ならば親と子の間にあるべきはずの自他境界がないことに気づかなかったからだ。

妻と義実家との関係は共依存のようだと私は思っているのだが、妻は義父母や義妹のことについては他者としてあまり認識しておらず、自分と融合させてしまう。

義実家の意見の通りに妻が動いたり、私に黙って妻と義実家が私の家庭のことを決めたりもする。

それがなぜかというと、妻の自他境界では私が他者として認識され、義実家が自己に近い、あるいは自己そのもののような存在として認識されるからだろう。

義実家の意見に反論することがほとんどないのはどうしてだろうかと思っていたのだが、義実家のアイデアは自分自身のアイデアの一部という認識になっているはずだ。

おそらく、実家依存という傾向には、このような機序が背景にあると思われる。

夫である私が何を言っても、妻が義実家の味方になってしまうようなところがあるが、これは意図的に行っているというよりも、感覚や思考の初期設定において自他境界を無効にしていると考えれば、なるほどそうかと納得しうる。

では、妻が子供たちに対して厳しく接したり、すぐに怒るのはなぜかというと、妻としては子供たちが完全なる他の個体として認識していないからだ。子供たちが自分の一部であり、自分が考えていることは子供たちが理解して動いて当然だと考えてしまうのだろう。

実際はどうなのかというと、妻は妻、子供は子供、それぞれの感覚と思考があり、互いに融合することはない。しかし、命懸けで産んだ子供たちなのだから、自分の一部だと考えるのは当然かもしれない。

では、妻の自他境界において夫である私はどのような存在なのかというと、明らかに自分ではなくて他者として認識されており、かなり剛強な境界がそびえている。

彼女の脳に入力される私の情報は、明らかに他者であり、しかも自他境界において存在が否定されている。だから、意見が合わないわけだ。

交際から新婚までは、そこまで堅固な境界がなかった気がしたが、子育てに入ると妻が夫を他者どころか「異物」として認識するのはよくあることだ。

おそらく、この境界は余程のことがない限りゲートが開かないだろうし、そのことについて夫が不満をもって対立しても仕方がない。

この境界を無理に開けようとして夫婦喧嘩に発展すると、子供が小さい時期に離婚するというクライシスに陥るのだろう。

夫はどうして自分のことを理解してくれないのか、妻はどうして自分のことを理解してくれないのか、そのような軋轢はどの夫婦にもあるかもしれないが、自分は自分、他者は他者だ。夫婦であっても分かり合うことができない境界線は必ず存在するのだろう。

結婚とは恋愛の発展というよりも、あくまで社会的な制度だと私は思っているし、本当にフィーリングが合う夫婦なんて珍しいと思う。多分に僻みが入っている私感ではあるが。

だが、そのように妻の頭の中の自他境界を分析することで、妻との人間関係が楽になった感がある。

妻の頭の中を完全に理解することは難しいのだが、自他境界がどのような形になっているのかを把握すれば、大まかに理解することはできるだろうという皮算用だ。

つまり、妻の感情を突沸させないためには、自他境界上に存在する怒りのスイッチを押さないように注意すればいいというわけだ。

他方、私としては妻に対して自他境界を最初から閉じてしまっており、それは妻に限ったことではないことを理解してもらうことにした。妻が怒るとダメージが直撃するので疲れるのだと。

加えて、上の子供の成長を見ていると、妻との間で感じ方や考え方が以心伝心になっているような点も見受けられる。同時に、妻が上の子供に対して激高することが少なくなってきた。

母子の繋がりとは、こうやって深まっていくのかもしれないな。

では、冒頭のブログの話に戻るとどうなるのかというと、コロナ禍がやってきて初めて分かったことだが、自他境界を上手くコントロールする上では、自分を取り巻く環境というものがとても大切なのだなと実感する。

自分がいて、他者がいて、それらだけで自分の位置を感じ取っているというわけではなくて、自分と他者を大外から包んでいる環境が安定している必要があるのではないかということだ。

この国には様々な軍事的緊張があるが、それらを知らない大多数の人々にとっては平和な時代が続いてきた。

そこに、世界規模での感染症の脅威がやってきた。それまでは気楽に眺めていたテレビ番組が興奮し、安定していたはずの行政が混乱し、社会全体が苛立ち、浮き足立っている。

環境が大きく変化すると、自分を守ろうとしたり、ストレスという負荷がかかって、自他境界が乱れるのかもしれないな。

平時ならば他者に気遣いができた人が切れやすくなったり、普通に生活していた人がメンタルを壊して落ち込んでしまったり。

心を落ち着けるためにはネットやテレビを見ずに、地方の役所から届く情報を受け取り、その他は普通に生活していればいいのだが、どうしても周りの情報が気になってチェックしてしまい、結果として疲れる。

あるいは、もうどうでもいいやと開き直ってしまい、社会的なコンセンサスを無視してさらに混乱を増大させてしまったりもする。

自他境界が乱れて曖昧になっている時には、心を落ち着けて頭の中での自分の存在を確かめ、どこまでが自分、どこまでが他者という境界を引くことが大切だな。

私の場合には、初期設定として自他境界が曖昧なので、ひとりで閉じこもることが大好きだったりもする。

どうせ他者は自分のことを理解してくれない。ならば、他者に対して心を閉じ、口をつぐみ、耳を塞ごうと。

結果、HYPSENTのような薄暗い井戸の奥のようなブログが出来上がるというわけだ。

しかし、必要以上に他者からのストレスを受け入れてしまい、自分のストレスと他者のストレスが固着して一緒に沈んでしまうことに比べれば、ずっと気分が楽だ。

おそらくだが、私のように変わった人ではなくて普通の人たちは、自分の脳で処理する必要のない、膨大な数の他者の情報までを取り込んでしまい、結果として疲れているのではないか。

そのような時は、自己を起点として考えたほうがいいだろう。

高齢者のワクチン接種が進み、高齢の重篤者や死亡者数は非常に分かりやすく減少してきた。このワクチンは感染自体を抑止することが難しいが、重症化を防ぐことはできることが分かっている。

また、パンデミックが生じた際には、感染したということで社会的なプレッシャーを受けたりもしたが、現在ではたくさんの人たちが感染している。

可能な限り対策を執っていたとしても、感染する時には感染する。感染症対策のプロであったとしても、熟年期で会話や触れ合いがなくなった妻はともかく、子供たちが感染すれば家庭内での伝播を防ぐことは難しいはずだ。

ワクチンの供給が遅れてはいるが、中止になったわけでもないし、この街でもより若い人たちの接種予約が始まっている。

行政が混乱したり、マスコミがヒステリックになっていたりもするが、その背景には色々な都合が絡んでいる。

しかし、個人として考えた場合、2回目の接種が終わるまで耐えることができれば、いざ感染したとしても重篤化する危険性は低い。

重症化せずに軽い熱が出たりする病気のことを、世間では何と呼んでいるのか。ワクチン接種が完了した個人のレベルでは風邪に過ぎない。

風邪にかかることを必要以上に恐れる必要はないし、周りの人たちに広げないようにすればいいだけ。自分自身は安全なので怯える必要はない。

つまり、この場合の自他境界においては、頭の中で「自分」の位置をきちんと決めることが大切なんだな。

一方で、かねてから問題となり、現在になって深刻化しているのは、「もういいじゃないか!気にするのはやめようぜ!」という若い人たちを中心とした開き直りの気持ちだと思う。このような思考においては、自他境界が崩壊してしまっているように感じる。

「自分はもうどうでもいいと考えている。悪いのは自分ではなくて行政だ。他者も同じことを考えているはずだ」という思考パターンは、本来ならば正しくない。

「自分はもうどうでもいいと考えている。悪いのは自分ではなくて行政だ。しかし、他者にまで迷惑をかけるのは忍びない」という思考パターンを期待したいのだが、なかなか上手く戻らない。

なぜなら、同様に自他境界が崩壊している個人同士が連結してひとつの集団を形成し始めているからだろう。

その場合、自他境界が曖昧になって、自分が考えていることは他者も考えていて当然だという気持ちになり、そこに思った通りの他者が登場すると、やはりそうだと思い込む。

その両者は互いの考えを共有して小さな集団を形成し、さらに別の集団との間でリンクしてより大きな集団を形成していく。

結果として何が生じるのかというと、もうどうでもいいと考えている人たちが多くなり、大きなうねりとともに社会に広がっていくというわけだな。

自他境界を崩壊させて、集団として価値観を共有させるというやり方は、洗脳による思想の操作や、カルトでも見受けられる。見方によっては非常に危険な現象だ。

どう考えても感染のリスクがあるパーティーを開いてしまったり、反マスクや反ワクチンの思想に向かってしまう人たちが、自分自身の考えよりも集団の考えに飲み込まれているように見えるのは、おそらくそのような機序なのだろう。

人は誰だって強くない。心が耐えられなくなってしまうのかもしれないな。

とにかく、この情報化が進んだ社会では、人ひとりの脳が処理しきれないくらいの情報が頭の中に入ってくる。

社会全体を眺めて自分の立ち位置を考えるのではなくて、自分の立ち位置を見極めた後で社会を眺めた方がいいのかもしれない。

コロナ関連の情報は、テレビやネットニュースではなくて、市役所からのアナウンスだけで十分だと思う。

どこまでが自分の考えで、どこまでが他者の考えなのか、多くの人たちにおいてその境界が壊れかけているのは、社会を煽ってきたメディアにも非がある。

以前から危険性が指摘されてきたメディアによる思考の操作ではないかと思う時さえある。マスコミュニケーションではなくて、マスコントロールではないかと。

まあしかし、自他境界が最初から曖昧な人たちの中で、私のように最初から他者に対して自分を閉じている人においては、今回の流行病による精神的な負荷が少ない気がする。最初から疲れているとも言えるが。

他方、一過的に自他境界が乱れてしまっている人たちは、環境の変化によってストレスを感じ、とても疲れていることだろう。

昨今の個人ブログの世界の落ち込みは、そのような疲れを示している気がしてならない。全くもって気のせいかもしれないが。