しばらくの間、サイクリングは自粛だな、こりゃ。
ウイルスは核酸に保存された遺伝情報と、それによってコードされるタンパク質によって構成されているだけの存在であり、感情も本能もない。新型コロナウイルスが他の種の動物からヒトに感染したと仮定すると、物理化学的な原則に従ってウイルスがヒトに馴化している過程に差し掛かったのだろう。
米国CDCの資料では、新型コロナウイルスが変異したデルタ株は、麻疹ウイルスや水痘・帯状疱疹ウイルスに匹敵する感染力を有しているそうだ。
中二的な表現ではなく、まさに最強クラスの感染力と言える。
しかも、ウイルスの変異がここで留まるのか、さらに進むのかは分からない。さらに変異して感染力が高まる可能性もある。
中二的な表現ではなく、ラスボスに対してワクチンで一撃を加えたと思ったら、実は中ボスの下っ端で、人類の反撃を見切った別の中ボスが登場するという雰囲気だな。しかもラスボスの姿が見えない。
これはマズい状況だ。人類が真っ向勝負をかければ消耗戦になる上に、同じ人類が感染の拡大に加勢しているケースも認められる。
「馴化」と表現すると、いかにも宿主であるヒトに対する病原性が低下して、穏やかなウイルスに変異するようなニュアンスがあるが、実際にはそうではない。
確率論的に生じうるウイルスの変異体が宿主の中でより高い増殖性を示し、それが他の個体に伝播するだけのことだ。
病原体が変化してヒトに馴化することで、他の動物に対して弱い病原性を示すというパターンはあるかもしれないが、病原体がヒトと仲良くなる方向で変化するというパターンはほとんどない。
では、歴史的に考えて、人類が病原体とどのように付き合ってきたのかというと、病原体が変わるというよりも、人類が変わることで対処してきたという解釈になる。
膨大な数の病原体に対して、人類は高度な免疫系によって応戦し、体内から排除している。
それは個々の防御に留まらず、集団免疫によって感染の拡大が抑止される場合もある。
マスクや手洗いといった感染症対策も、古くからの経験則に基づいて生活を変化させた結果だな。
免疫系だけでは対処できない場合には、ワクチンを作ったり、治療薬を作って対処することもある。
今では大して見向きもされない感染症だって、昔は大騒ぎになってたくさんの人たちが亡くなった。
病原体が出現した後、ヒトの社会の中に浸透するという現象もある。現在では単なる風邪のウイルスと見なされている他のコロナウイルスは、多くの人たちが子供の頃に感染して免疫を付けるので深刻視されることはない。
しかし、それらの風邪のウイルスであっても、最初に人類に感染し始めた頃には大変な状況になったことだろう。
しかも、分子生物学的な見地からは、このような風邪コロナが大昔に人類にかかり始めてから現在までの間に、ウイルスが自らの病原性を低下させる方向に変異したという証拠が見つからないらしい。
つまり、人類はずっと前からウィズコロナの中で生活してきたわけだ。それに気づいていなかったというだけの話。
世の中はどうなのかというと、私なりに社会を眺めてみれば、国内のマスコミの現状を強く実感せざるをえない。以前から問題視されていたことではあるし、彼らにも都合があるのは分かっているのだが。
歴史的に見て、日本の窮地をマスコミが煽るのは相変わらずのことで、彼らとしては商売の方が優先される。そこにジャーナリズムの本質があるのかどうかは分からないが、彼らとしてもビジネスで利益を挙げて生きていかなくてはならないので仕方がないこともある。
先の大戦でもメディアが世論を煽っていたが、その背景には軍部からの圧力というよりも、売り上げによる利益という都合があった。煽った方が新聞が売れて儲かるという図式だな。
日本に限った話ではないが、人々は自分に対して直接的に関係することには関心を示し、自分に関係しないことには関心を示さないという傾向がある。その原理に基づくと、人々が関心を持つ内容を報じた方が売り上げに繋がる。
そして、様々な人たちがマスコミに登場して独自の意見を発し、政府や自治体の対応が悪いと批判し、それらの主張に多くの一般の人たちの思考が影響を受けている。
翻って、この状況において一般の人たちに全く非がないとは言えない。
身近なところで言えば、東京メトロの浦安駅で下車して、夜の繁華街を歩いてみればすぐに分かる。
飲み屋でマスクもせずに多くの人たちが酒を飲み、大声を上げている。路上で缶の酒を飲んで大騒ぎしている若者や中年たちも見かける。これで感染が広がらないはずがない。
全ての人々のせいではなかったとしても、自分の我欲を優先してしまった人々が感染を広げている形になっているわけで、行政のアナウンスを真正面から聞いているようには思えない。
行政の要請に従っていたら生活を維持することができないという人たちがいるだろうし、そもそも行政が信頼に足る存在ではないと反発していたり、自分は大丈夫だと信じている人たちもいる。
これは国内の政治についても言えることで、今の日本は駄目だ、ろくなもんじゃないと言っている人たちに限って、選挙で投票しなかったりもする。
行政を動かすのは政治の力で、政治を動かすのは人々の力で、人々の生活を行政が下支えするというサイクルが上手く動かなくなった時、その社会は傾く。国であっても市町村であっても同じことだ。
流行病という突発的な事象によって知ることになった社会の課題や歪みを嘆くだけではなくて、それらを真剣に受け止める必要があると思う。
日本国内の報道を俯瞰してみると、メディアにおける調査報道の能力の拙さを感じざるえない。自分たちの能力で調査するだけの人員が予算が間に合っていないのかもしれないな。
他国の報道では、この感染症を人類が征圧するというステージは破綻しており、人類が免疫を獲得することで生き残るというステージに入っている。
とりわけ先進国においては、何人が感染したという話ではなくて、何人が死亡したのかという点、あるいは人口のどれくらいの割合がワクチンを接種したのかという点に焦点が当てられている。
日本はワンテンポ遅れていると非難することは容易いが、行政のアナウンスに従ってマスクを装着し、社会全体で感染症対策に励んできたからこそ、ステージの進行が遅かったとも言える。
市内にはたくさんの外国人が住んでいるのだが、とりわけ欧米系のような人たちは街中でマスクを付けていないことが多い。
彼らがマスクの違和感を嫌うのか、マスクを付けることに抵抗感があるのかは知らないが、「When in Rome do as the Romans do. 」という諺が全く通用していないのだなと思う。
これが罪の文化と恥の文化の違いなのかと唖然とすることがあるし、欧米で流行病が爆発的に広がった理由も理解しうる。
さらに、自分たちは感染しても大丈夫だと開き直っている日本の若者たちは、実際には全く大丈夫ではないことに早く気づいた方がいい。
このまま社会が混乱し続けると日本の経済が落ち込むことが間違いないわけで、そうなった時にダメージが直撃するのは今の若い人たちだ。
私の世代はバブル崩壊後の世界を知っているが、彼らには実体験がない。その時になって嘆くのだろう。
では、日本のメディアは感染者数ではなくて死亡者数に重点を置いて報道すべきなのだろうか。
潔癖な人には耐えられないかもしれないが、すでに人々は10種類どころかそれ以上のウイルスが体内に感染したまま生活している。
健康な人でも皮膚を擦ればPCRで何らかのウイルスが検出されるし、DNAの中にはウイルスに由来する配列が入り込んでいたりもする。それらを排除することはできないし、その必要もない。
その他にも集団で生活していれば様々なウイルスに暴露されているわけだ。ウイルスに感染するということは珍しくもなくて、日常的なことだ。
しかし、感染というイメージをメディアが煽り、その恐怖心を人々に広げ、政治や行政が混乱している気がしてならない。
新型コロナウイルスに対するワクチンが接種され始めた現在においては、感染者数だけではなくて死亡者数に注視した方が意味がある。
とはいえ、ワクチンの供給が間に合っていない現状では、感染者数をアナウンスして、個人に注意を喚起することも大切なので、一概にマスコミを批判することは適切ではない。
まあとにかく、これが今の状況ということだな。
では、諸外国と比較して、日本がワンテンポ遅れたままステージが進むのかというと、途中から形勢が逆転するような気がしてならない。
流行病によって欧米等の他国が大きな打撃を受けていた頃、この国の被害は非常に少なかった。行政の優秀さというよりも、人々の対応の速さや丁寧さが関係したのだろう。
これが罪の文化と恥の文化の違いだな。
他国では、感染症対策による生活の制限に反発して大規模なデモや暴動が起きていたりもする。
しかも、ワクチンの供給が整っているにも関わらず、接種率が途中から伸び悩んでいる国が認められる。
接種することでお金がもらえるとか、アイスクリームがもらえるとか、様々なインセンティブを用意してもなお接種率が伸び悩んでいたりもする。
他方、日本人はやはり我慢強くて真面目だなと思う。
ツイッターやヤフコメで不満を投げつけている人はたくさんいるが、暴動が起きたなんて話を聞いたことがない。
たまにデモというか、何だか不思議な集まりを開催し、マスクを外して大声で叫んでいる人たちがいたりもするが、一部の変わった人たちという扱いになっている。
現状のRNAワクチンには高熱や倦怠感、頭痛といった副反応が生じる頻度が高いけれど、おそらく日本では多くの人たちが積極的に接種して、他国の人たちを驚かせる事態になることだろう。
また、日本は世界で最もワクチンの副反応についてマスコミが厳しく突っ込む国でもある。
その結果として、国産ワクチンの実用化や供給が遅れているにも関わらず、マスコミが自分たちの非を報道することはない。
しかし、そのように批判が多い国だからこそ、現時点で開発されているメイドインジャパンのワクチンは副反応が少ないようにデザインされているし、それらが普及した頃には、とても平凡な感染症になっているかもしれないな。
再びマスクを外して生活する日がすぐに訪れるとは言えないが、とにかく重篤化や死亡例を減らすことは大切だし、その効果は明確に現れている。その大切さをマスコミが以下略。
ただ、現時点では医療機関が逼迫していることは間違いないし、街中で酔っ払っている若者や中年を見かけて腹が立ったりもするし、電車の中でマスクを外している人を異常な思考の持ち主だと感じざるをえない。
医療機関の対応がなっていないと批判している人たちもいるが、高度な救命措置を施すことができる施設は限られている。
予算を用意すれば機器を揃えることはできるが、訓練されたスタッフを増やすことは容易ではない。
加えて、日本に限った話ではないけれど、反ワクチンの思想をもった人たちが気になる。
彼ら彼女らの意見を完全に理解することは難しい。なぜかと言えば、ロジックが途中でおかしくなって、国家の陰謀とか、そういった話に繋がってしまうからだ。
綿密なプランに基づく陰謀を実行することができたなら、ここまで全世界が混乱することはないだろう。
それ以上に困惑するのは、学問的に考えてありえない話を展開する人たち。もはや超常現象に近いオカルトを妄信している人たちまで見かけたりもするわけで、人類の多様性はかくも豊かなのかと感嘆する。
さて、この状況下で、私は趣味のサイクリングに出かけることができるのだろうか。
市内の医療機関の様子を眺めただけでも、コロナによる重症者のための病床が不足していることが分かる。おそらく、これからは一般病床を縮小することで対応するはずだ。
それなのに、多くの人たちが異常事態に慣れてしまっている。何なんだこの現象は?
その判断基準は自分に関係するかどうかという点、あるいは自分は大丈夫だという根拠のない自信。
「ウイルスに対する集団免疫よりも先に、緊急事態宣言に対する集団免疫ができてしまった」とツイートした有名人がいたが、確かにそうかもしれない。
とはいえ、私が他者についてとやかく言える立場でもない。このように危機的な状況で趣味のサイクリングに出かけて、転んで入院したら大迷惑だな。
鎖骨や大腿骨を骨折して日帰り手術なんてありえない。包茎や痔の手術でもあるまいし。
炎天下でサイクリングに出かけて熱中症になって死にかけて入院とか、そういった事態も避けたい。
現時点のオーバーシュートがいつになってピークアウトするのかも分からないし、自分や家族のワクチンの接種も完了していない。しばらくは様子を見るしかなさそうだな。
次にサイクリングに出かけるのは、ワクチン接種が終わり、シクロクロスフレームを素材にしたオールロードバイクが出来上がった頃かもしれない。
今はサイクリングに出かけるべきではないと、本能にも似た違和感を覚える。そのような予感がする時には出かけない方がいい。
幸いなことに自室にスピンバイクを設置しているので、家から一歩も出ずにペダルを回して汗を流すことができる。
座禅ではなくスピンバイク禅で心身を整えよう。
古の頃から、社会に脅威が訪れた時には動き回らないことが大切だと伝えられてきた。気にせずに動き回った人たちが被害を受けることが多かったからだろう。
しかしながら、社会のシステムが便利になり、医療や保健衛生が当たり前のような存在になり、昔の人たちが残してくれた知恵が忘れ去られ、現在、こうして脅威が拡大している。
自分が良ければそれでいいと、社会ではなくて個を優先し、我欲に突き進んだ結果ではないか。
だが、これも人の性質なのだろう。
そう思いながら通勤のために街中をミニベロで移動していたら、ピチパンを履いて車道をカーボンロードバイクで疾走する中年男性を見かけた。
必死にペダルを回しながら、自動車の脇を駆け抜けていく。おそらく、彼はオーバーシュートについて深く考えていないのだろう。
彼のように生きることができれば、人生はもっと幸せなのかもしれないな。