五十路前の再起動
水が枯れた暗い井戸の底から光が見える方向に這い上がっている感じがある。この感じがとても興味深く、自分が人生を振り返った時には大きなマイルストーンになることだろう。
これはログを取っておかねばなるまいと始めたことがこのサイトのきっかけでもある。
同じような苦しみを抱えている人たちを助けようという気持ちは私にはない。
以前は子育て関連のブログを続けたこともあったが、結局は要領良くネット検索で情報を得たいという人たちばかりが寄ってきて面倒になってサイト自体を閉じた。
五十路近くまで生きると、公私ともに色々なことを背負うことになり、身体だけでなく心も重くなる。そろそろ職業人生のリタイアや人生の終焉さえ見えてきた。
背中に乗った「公」の部分は生活の糧なので軽くすることは容易ではないが、出世欲とか狭いギルドの中での見栄を捨てれば軽くなる。
一方、「私」の部分にも様々な欲が心を重くする。それらは希望にも似て、むしろ同じベクトルなのではないかと感じることさえある。
子育て中の家庭では夫婦の間で、また親子の間で様々な葛藤が蓄積する。共働きならば夫婦共に職場で働きたいという希望、同じベクトルには世帯収入を増やしたという欲。
受験戦争とも言われる競争社会は今でも形を変えて続く。子供により良い教育を与えて理想の職に就かせてあげたいという希望、同じベクトルには我が子を鏡としてより輝かしい学歴とステータスを得たいという欲。
心という存在を抽象的な表現ではなくて具体的に考えてみれば、脳内のニューロンの細胞体や軸索を介して行われる情報の伝達ということになる。
大脳皮質を見たり触ったことがある人なら分かることだが、薄くて柔らかく、肉眼で見た限りには人を模して近付こうとしているコンピューターの電子回路と似てはいない。
神経回路も顕微鏡レベルで眺めれば電子回路のようだが、心の本質を一言で定義すれば神経を伝う「情報」という解釈になる。まさに我思う故に何とかだ。
感覚過敏を抱え、夫婦共働きで複数の子供たちを育て、慌ただしくストレスフルな街に住み、近くの妻の実家からの干渉や非協力に苦しみ、さらに長時間の電車通勤。
とりわけ長時間の電車通勤は苦痛でしかない。どうして苦痛なのか。一つは自宅から職場に移動するためだけのことに貴重な時間を消費されること。
電車通勤のもう一つの苦痛。それはストレス下で押し寄せてくる人間の本性を感じ取ってしまうこと。
首都圏では、これだけ多くの人たちが駅にやってくるにも関わらず、知り合いとすれ違うことがほとんどない。
緑色の棟髪刈りやピンク色のアフロヘアの人がいても、頭にネズミの耳を付けてディズニーの大きな買い物袋とキャリーバッグを持った人がいても、大して注目もせず。電車で隣にどんな人がいたかなんて、駅を出ればすぐに忘れる。
この不思議な匿名性のある不定形の集団についてよくよく考えてみると、そこにいる自分さえあまりに小さく、他者から見れば存在しているかどうかも分からないくらいだ。
電車の中ではマナーのない人たちが多く、とりわけこの環境を長年にわたって耐え、半ば順応したかのような50代以降の人たちは強い。あまり深く物事を考えない若者たちの方が可愛らしく見える。
相手のことを全く知らないストレス下の状況は、人の内面を露出させ、行動だけでなく表情や声にもそれが映る。酒やタバコ、香水といった臭いにも。リアルなツイッターのようなものだ。自分が満足できれば他者の感覚なんて気にしない。
ただ、電車の中やツイッターで人の内面が見えると感じても、実際にはどのような場所でもその内面は確かに存在している。感覚が過敏な人たちの中には、目の動きや声のトーン、さらにメールの文体からそれらを読みとる人がいる。
それが何を意味するか? あえて隠しているはずの心の中が透けて見えるということだ。まあ、人は歳をとると性格や生き様が顔に出るし、私もこの10年間の地獄で険しい顔になった。
多忙で責任の重い仕事、夫婦共働き、落ち着きのない子供たち、毎日不機嫌で怒っている妻、さらに感覚過敏での長時間通勤。帰宅してからの妻や子供たちの大きな怒り声で鼓膜や頭が痛んだりもする。
脳内に入ってくる情報量があまりに多く、皮質どころか脳幹、さらには末梢神経系にまで負荷がかかったのだろう。うつ病やパニック障害ではなくて、バーンアウトの兆候があったのが数年前。
他者をあざ笑う人が「あいつは病んだ」といったフレーズを使うことがあるが、会社の管理職のレベルでもそういった不適切な言葉が出る時があって、その適正を疑う。
結局のところ、人として優れているから必ずしも出世するというわけではなくて、幹部にとって都合が良くて使いやすい人たちが出世するという側面もあって、プライベートなSNSでは罵詈雑言を飛ばしたりもするわけだ。
そもそも、一生を通じて健康な人なんてありえない。人はいつか倒れて死を迎える。自らが倒れた時に自らが発した言葉を思い出すことだろう。
具体的に言えば、同世代の父親が不調になって「あいつは病んだ」と自らの健康をもって安堵と優越感に浸っているさえない中年親父がいたとする。
しかし、翌春の人事異動でクラッシャー上司がやってきて潰されるリスクだってなくはない。次の瞬間にも脳梗塞や心臓発作、もしくは地味だが痛い尿管結石がやってきたり、自動車を運転していて人をはねて職業人生が詰むリスクもある。
経験から学ぶよりも歴史から学んだ方が情報量は多い。他者を蔑むよりも、どのような経過を経て乗り越えたのかを学んだ方が役に立つ。
私の場合には、メンタルチェックはパスしていたので、一切の投薬やカウンセリングを行わず、ロードバイクに乗りまくって末梢から中枢に働きかけた。その時期はストレスがかかる電車通勤を中止し、ロードバイクで職場に通った。走行距離は2年間で2万km近く。
その姿を「アホ」だと言ってきたブロガーがいたが、私の怒りはまだ収まってはいない。
そのブロガーは大人になってから発達障害の診断がなされたことをネットで公開していて、感情が高まると乱暴な言葉でネットに書き込んでしまうようだ。
それで何か気が晴れるのだろうか。個人ブログはその存在が職場にバレても問題にならない程度で続けた方がいい。
ネット上がいくら匿名性がある世界だと言っても、他者が苦労している姿をアホと表現することは適切ではない。
すでに自身が特定されていることに気付いていないのだろうか。世の中には調べることを仕事にしている人もいる。
これ以上酷いようなら、自宅に内容証明付の郵便が届くかもしれない。その他にもネットで絡んでくる輩がいるようだ。特定は完了した。顔写真のオマケ付きだ。
昨今では弁護士業も昔より稼げなくて大変なようで、70万円もあれば裁判まで行えるらしい。同級生に頼めばもっと安く仕上がることだろう。
ネットで絡んできた人が誰なのか分かっているのだから、その経費もかからない。自分で公開してくれるのだから手間はない。
最近ではツイッターどころか、はてなや5chの投稿であってもネット専門の弁護士が特定して裁判を行ってくれるパックがあるそうだ。便利な世の中だな。
訴えるぞ的なブラフではなくて、実際にその分の費用を用意したら、他者の人生はどのように変わっていくのかということに関心がある。
私としては法的に勝てば訴訟費用まで戻ってくるのなら一時的な出費という考えになる。負けたとしても、相手には公私ともにダメージが残る。スラップを目的としたわけではないが、どのような状態になるのだろう。
お互いに他者の生き方についてとやかく言えるほどには偉くない。嫉妬なのか侮蔑なのか知らないが、気に入らなければ無視しておいてくれ。私はあなたたちに関心がない。
もとい、バーンアウトの表現は人それぞれかもしれないが、私の場合には様々なことを我慢し続けているうちに、気がつくと水の枯れた深い井戸の底に落とされていた。本当に突然だった。
ストレスに加えて加齢に伴っているであろう男性ホルモンの減少。つまりは男性の更年期、あるいはミドルエイジクライシスと呼ばれる状況が背景にあったようだ。
上を見上げると井戸の出口に空が見える。周りを見渡すと井戸の中で足場になりそうな箇所も見える。
しかし、ボルダリングのように道筋がはっきりと分かるのに、どうしたことか足場に手が伸びない。何かが手の動きを止めているような感じ。手が足場に届きさえすれば、そこから身体を持ち上げることはできる。
懸命に足場に引っかかり次の足場を見つけると、そこから先のルートが分かるのに次の足場に手が伸びない。手を伸ばそうと思っても手が動かないような感覚。
足場に手が届きさえすれば、そこから登ることができるはずなのに、登れないのではないかと最初から諦めたり、なかなかアクションに移れない。そもそもどうして登らなくてはならないのかと思考がループしたり。
おそらくこれが感情やモチベーションの枯渇なのだろう。
このような人生の苦難では、よく「家族の支えがあって立ち直りました!」という美談を聞く。
しかし私の場合にはようやく3分の1くらいまで井戸を這い上がったところで、家庭のストレスで再び底まで落ちるようなことが何度もあった。
私が疲れ切っていることを何度説明しても気遣いがなく、一人で少しずつ登った井戸の中で、再び底まで落ちて上を見上げて立ち尽くすようなイメージだった。
当時の私は、子育てにはストレスがあって当然で、父親になった以上は全て受け入れて我慢することが良き父親だと信じていた。確かに正しい姿だと思う。
しかし、父親が倒れたら家庭が傾く。父親の大切さや有り難さを理解しない妻や子供たちに我慢し続ける必要があるのだろうかと。
そういった弱音を吐くと、母親たちから激しい指摘があるのが現在の社会なのだろう。母親の方が大変だと、論点が全く違う角度から矢が飛んでくる。
母親の方が大変だから父親は我慢して潰れるまで生きろという意味ではないとは思うが、家庭の生活を維持する上で、父親の健康が損なわれた場合には家庭全体の経済的なダメージにも繋がるということを私は言っている。
その重要性に気付かずに父親が倒れることがどれだけ多いことだろう。それでも心療内科で薬を処方され、効いた効かないと悩み苦しみながら生きている父親だっていることだろう。職場はともかく自らの家庭のストレスだと言い出せず。
苦悩の闇の中では良からぬ煩悩も生まれる。家庭のストレスでうつ病になって離婚する父親が珍しくないし、見切りを付けて他の女性と欲求を充たそうとする父親もいる。
不倫や浮気を調査する興信所がこれだけ多いのだからインシデントも多いのだろう。また、職に困って離婚問題で生計を立てている弁護士がどれだけ多いことか。他人の不幸で食う飯は旨いかとは言わないが、大変な仕事だな。
その仕事の向こうには、DVからの回避という側面があるかもしれないが、それが全てとは言えない。
離婚の原因は往々にして夫婦の人間関係におけるトラブルだろう。どちらにしても子供たちが悲しみ、経済的にも困窮する。
では、現在の私のステージはどのような状態なのか。先の井戸のイメージからすれば、ようやく出口まで這い上がってきて、再びストレスがあれば半分くらいの位置まで落ちるくらいの感じだと思う。
以前のように足場に手が伸びないというイメージはなくて、手を動かすんだと思えば手が伸びる。以前のように自由自在な感じではないが、それでも随分と楽になった。
家庭が慌ただしくなると再びパフォーマンスが落ちてしまうが、さすがに妻や子供たちも気づいてくれたようで、以前よりは大騒ぎしなくなった。
父親の生き方には様々な捉え方があると思うが、私の場合には人生という長いドラマやロールプレイングゲームの中で「父親」という役がまわってきて、その役を演じるという気持ちになったことが大きいかもしれない。
それは父親像として正しいのかどうか分からない。仮面を被っているわけではないが、妻との関係や子供たちとの関係で真正面から受け取ると疲れてしまう。
この状況は私が父親という役柄になったと仮想して、それを演じているくらいの気持ちで生活する。
その方が妻や子供たちから見れば良き父親なのかもしれないと思ったし、私自身のストレスも少ない。
あまり深く考え込んでいたら夫婦なんて続けていられない。お互いにある程度のところで大目に見てやり過ごすことも夫婦の形だろう。
生き辛さを抱えて人生を送っている人たちはたくさんいるだろうけれど、五十路まで生きれば残りは20年も残っていない。
経済的に苦しんでいるわけでもないし、重大な疾患を抱えているわけでもない。家族も元気だ。
私としては、その程度の時間くらい我慢して生きて、道中で稀に訪れる幸せとか楽しみを受け取っていれば、いつか死んでこの地獄からも解放されると開き直ることにした。
同時に、数年間だったはずだが無限に続くような暗い井戸のイメージの中で感じたことが二つある。
それは、人は一人で生きて一人で死ぬ。期待するから失望が生まれる。職場だけではなくて、家族や実家、親戚であっても期待しない。それによって失望することもなくなる。
悲観というよりも諦観に近い考えなのだろう。結局のところ人は一人なのだということ。最高学歴の銀杏の紋章を持っているのに、そんな単純なことに気付いていなかったわけだ。自分自身を笑う。
もう一つは、外の世界からたまに届いた他者からの励ましや心遣いへの感謝の気持ち。
苦しんでいる時の施しは涙が出る程に嬉しく、有り難いという言葉の本当の意味を知った。
若い頃、私は自分の力を信じていたし、それらを信じるためのモチベーションもあった。共働きの子育てでも何とかなると過信していたわけだ。自分の生き方において何が大切なのかどうかも分からず、とにかく背中に乗せて生きていた感じがある。
しかし、最低限のパフォーマンスしかできない状態になると、背負うことができるものが限られてくる。
家庭の経済状態を維持し続けること、夫婦の不和やストレスを減らすこと、職場で地道に働いて迷惑をかけないこと、酒を飲み過ぎたり、不貞や風俗、賭け事といった飲む打つ買うに関わらないこと、通勤時のトラブルの原因となりうる自宅の外での飲酒をしないこと。
趣味のロードバイクでの出費やライドの距離と頻度は程々に。プライベートではネットのニュースやブログやSNSを見ない。テレビは元々見ない。ラジオを聴いたり読書をする。
ストレスの原因となっていたロードバイクサークルも閉じる。それまで仲が良かった人たちとはこれからも機会があればグループライドに出かける程度にして、基本的には同じルートを黙々と一人で走る。
サークルに関係なく、職場であっても他のプライベートにおいても、人生が上り調子の時に愛想よく近づいてくる人たちは大して意味がないことにも気づいた。
そういった人たちは人生が下り調子になると蜘蛛の子を散らしたように離れていく。それまでに力を貸した人であっても、人は自己を優先するようにプログラムされているのだろう。デメリットがあれば離れていくことが多い。
一方で、人生が下り調子の時に手を差し伸べてくれた人たちは人生の財産になる。
常に誰かを恨み続ける生き方は不幸だが、常に誰かに感謝し続ける生き方は有意義だ。
先のロードバイクサークルのメンバーの数人からもお気遣いのメッセージが届いた。とても有難いことだ。もう少し考えを整理してから返信を送ろう。
この一連の気持ちや考え方の変化が、よくある中年の思秋期なのかもしれない。そこから転職したり独立して経済的に苦しんだり、離婚して新たなパートナーを探すとか、メンタルを痛めすぎて休職するとか様々なミドルライフクライシスがあるのかもしれない。
男の頭の中にそのようなプログラムがあると仮定して、どうしてそれがあるのか私には分からない。本来の生物として備わっていた寿命を社会や技術によって人為的に伸ばしていった結果なのだろうか。
深く考えても仕方がない。このステージがあったからこそ、私は老いや人生の終焉を怖れずに生きて行くことができそうだ。