子供から頼まれた曲をダウンロードしようとして淡い思い出にひたる
子供が小さい頃には子育てのエピソードが有り余るほどだったけれど、育ってくると録に残すような話が減る。子供自身の世界が広がり、父親である私はその世界に入ることができなくなるからだ。まあとにかく、音楽は気分転換に最高の存在だ。
忙しい日々の安らぎやストレス解消にも役に立つだけでなく、時に人生のマイルストーンになることさえあると思う。
通勤地獄に耐えている間、私は携帯プレーヤーからヘッドホンを通じて音楽を流さないと、もはや精神を保つことができないくらいにストレスを受けている。
その時に重宝するのが、Slipknot (スリップノット)というヘヴィメタルバンドの作品。
私がスリップノットの存在に気付いたのは、確か池袋のショッピングモールのレコードショップの試聴コーナーだったと思う。「IOWA」という2ndアルバムが平積みになっていた。そうか、あれから20年も経ったのか。
スリップノットという単語は、絞首刑で首を吊る時のロープの結び方だったりもするわけで、ヘビメタによくあるデスメタルのジャンルなのかなという印象があった。
しかし、実際に聴いてみると、確かにデスボイスが使われたりもするけれど、高く突き抜けるメロディアスなトーンがあったり、途中からラップが入ったりと、とても面白かった。オルタナ系のメタルとでも表現しようか。
歌詞の内容についても、いわゆる悪魔的な感じなのかなと思ったら、社会に対する怒りであったり、内面の苦しみであったり、非常に興味深いテーマを突いていた。
理由があって苛ついている時、あるいは何だか分からないが苛ついている時、とにかく重低音と抗いの声の中でストレスを解消したい時には、スリップノットの曲がいい。
だが、浦粕に引っ越してきてからは、たまに、ではなく、ほぼルーティンでスリップノットを聴き続けている。その事実だけでも、この街は私にとって全く適していない街なのだなと思う。
平日の朝、東京行きのJR京葉線に乗るために新浦安駅のホームに立つと、決まりきったかのうようにノイズキャンセリングのヘッドホンを装着し、スリップノットの「All Out Life」という曲をシングルリピートで流し続けている。
いつも思うのだが、新浦安駅は、どうしてこんなに大音量でアナウンスを流すのだろう。クレーマーが多い市民から突っ込みがあって、半ばヤケクソになってしまったのだろうか。
聴覚が弱い人への配慮なのかもしれないが、それならば視覚を追加するといった頭の良い対応を願う。
聴覚が過敏な人への配慮は全く感じられないし、もはや嫌がらせでしかない。スピーカーの音が割れるくらいの録音の音声を流しまくる駅員の思考が理解しえない。
この街での生活では、スリップノットでも聴いていないと精神が崩壊しそうだ。
「All Out Life」は、確かアルバムへの収録がなかったと記憶している。曲だけを聴いていても凄まじい圧を感じるが、オフィシャルビデオの内容も凄まじかった。
通勤地獄に耐えることが人生の宿命になってしまった千葉都民の父親たちの怒りと悲しみと疲労に似たものがある。
Slipknot - All Out Life
うん、私感だが、これこそ、まさに長時間の電車の通勤地獄に耐える千葉都民の苦しみと重なる。
たくさんの人たちがバスの中に詰め込まれて、怒り苦しみながら天井を叩いたり窓から必死に手を伸ばす姿は、満員電車で都内に通う千葉都民の精神世界と本当によく似ていると思う。皆がフラストレーションを蓄積して怒り狂いそうになっている。
そして、バスが止まると、もの凄い勢いでバスから飛び出ていく光景は、電車の乗り換えで他者にぶつかっても気にしないくらいに余裕がなくなった千葉都民の姿とよく似ている。
曲の後半は、仕事と通勤地獄で消耗して、ボロボロの状態で自宅にたどり着いた姿に重なる。
クラシック音楽を聴きながら優雅に電車通勤を楽しんでいる千葉都民もいるはずだが、少なくとも私の目には、千葉都民としての長時間の電車通勤がこの曲のムービーのような姿として映っている。
そりゃ、ストレスで目眩や耳鳴りが止まらないはずだな。これが普通だと信じている千葉都民たちの言葉に騙された。想像を絶するストレスだ。
そして、帰宅の際には、オムニバスでスリップノットの曲を聴きながら必死に浦粕に帰ろうとするのだが、最もストレスが溜まって自分から自我が抜けているように感じる時には、もはや生きることを諦めたくなる。その時に「The Devil In I」が流れてくると、たまらない。
Slipknot - The Devil In I
以前は年齢制限があったのだが、最近では制限がなくなったようだ。この曲は現時点のYouTubeにおいて世界で3億回も再生されている。
この曲自体も凄まじいインパクトがあるが、オフィシャルビデオを視聴すると世界観がよく分かる。
この曲は凄い。もの凄い。ここまで忠実に表現していることに驚く。
何を表現しているのかを説明するまでもない。それは死への衝動だな。
毎日がハッピーな人は理解しえないと思うのだが、それはまるで波のようにやってくる。
最初に何が起きたのか分からない混乱と苦しみの波がやってきて、気持ちが高まる。自分はどうなったのだ、何が起こったのだと、怯え、焦り、悩み、必死になって堪える。
しかし状況が変わらず、先の見えないトンネルや穴の中にいるような絶望に包まれ、気持ちの波が引き、虚しくも寂しい時間が流れる。この曲では、ギターのリフやソロが流れている部分が該当する。
落ち着いて沈思黙考しているように見えるが、実際には全てが億劫になり、思考がループするだけで何も考えられない。ただ生きることが辛いだけ。
けれど、ダウナーに向かった気持ちを我慢して平常を装っていれば、ただ静かに生きているようにも見えるようで、家族を含めた周りの人でさえ変化に気が付かなかったりする。
そこから、突然、気持ちが高まって波が最高潮になる時期がある。このタイミングが非常に危ない。
おそらく、多くの人たちがこの強烈な衝動に耐えられなくなり、別の世界に飛び込んでしまうのだろう。
この曲では、その波の高まりをドラムスやパーカッションのビートで表現していることが分かる。ムービーの後半から赤い布を被ったキャラクターが目立ってくるが、それが衝動を連れてくるデビルという表現になるのだろうか。
その結果として残るのは、儚さと虚しさ、そして静かに流れる時間だけ。
ステージで見せるド派手な格好と声から想像もつかないが、スリップノットのボーカルのコリィ・テイラーさんは、以前から重度の薬物中毒とうつ病を患っていた。
過去には、ビルから飛び降りるところを友人に引き留められた経験もある。
今でも不調な時があると言っていたりもするが、知らない人には元気な人にしか見えない。
また、親交のある有名なアーティストが亡くなった時、マスクを外したテイラーさんがインタビューに応じて、「この社会は、立ち止まった人たちに対して、あまりに冷たくないか?」という趣旨で指摘していた。
彼はヘビィメタルに対する音楽業界の扱いだけでなく、政治の歪みについてまで正論で指摘することがあり、様々なボランティア団体で人々の相談に乗っていたりもする。とても静かで正直で繊細な人だと思う。
ところが、ステージでマスクを被ったテイラーさんは人が変わったかのように荒くなり、挑発し、憤る。
その姿は、社会から彼の内面に投影された生きることの苦しみがハレーションを起こして飛び散っているように感じる。
英語だと放送禁止になるので一部を伏せるが、スリップノットのライブは、フロントマンのテイラーさんが、「やあ、ピープル、よく来たな!この○ッデムな世界で、俺たちは○ァッ○ン○ットな歌をまき散らしにやってきた!よく聞いてくれ、○ザー○ァッ○ーなピープルよ!」という感じのMCから始まって、歌詞にも罵倒語が積極的に取り入れられている。とにかく苦しみ、怒り続けている。
観客に向かって「エブリバディ!」ではなくて、「ピープル!」と呼びかけるところがスリップノットっぽくもある。
そして、ライブに来た観客たちも怒りを放出して、ステージの前で多数の人たちが激しく殴り合っていたりもする。
英語が苦手な日本人の私には、彼らの感情を完全に理解することは難しいけれど、よくよく考えると文化や人種の壁を越えて彼らのインパクトが伝わってくるのだから、非常に強い力を持っているのだろうな。
さらに考えると、スリップノットの重低音とシャウトでしか緩和することができない浦粕から都内への通勤地獄の苦しみも凄まじい。
この街が住み良い、この街に住みたいと言っている人たちは、どう考えても感性が違うのだろうな。私にとってはテイラーさんが叫ぶような言葉の方が先に頭に思い浮かぶ。まあ、それは人の自由だろう。
さて、上の子供が携帯端末にダウンロードして聴きたい曲があるそうなので、それらの曲の名前をメールで私の端末に送るように指示しておいた。
すると、もの凄いスピードで曲名のリストが私のメールボックスに届いた。さすがデジタルネイティブ世代だな。メールを打つスピードが半端ない。アルバムに相当するような曲数がリストになっていた。
翌日、仕事から帰ってきて、妻にバレないようにダウンロードする。「ツユ」というアーティストの曲だそうで、実際に聴いてみると時代が一周回って戻ってきた感があった。
ツユ - やっぱり雨は降るんだね
若干だが、上の子供の内面のジェンダーが気になる。
昭和のオッサンが昔の曲を振り返るのは無様なので紹介しないが、タテ乗りのリズムで歌う女性のボーカリストはたくさんいた。彼女たちの歌声は本当に素晴らしかった。
ほぉ、これは面白いと、YouTubeで最近流行っている曲を探してみると、よく似た感じの曲がヒットしてくる。
現在の若い人たちに受け入れられる曲たちは、EDMの味わいがある鋭いパーカッションと、ボーカロイドのように滑舌の良い歌詞が心地よく感じる。
5年くらい前まで広がっていたJ-POPでは、サビの部分が英語になることが多かったり、歌詞の語彙がありきたりだったりもして、酷く薄っぺらく感じた。
しかし、最近になって流行ってきた曲は、昭和の頃の泥臭さはないけれど、明らかに図太い芯があって、心の中に響いてくる。
歌詞の日本語も組み合わせが上手で、明らかに考え抜いていることがよく分かる。
ツユ - くらべられっ子
この曲を聴いて、父親としての私は、「ああ、そうだよな...」と正直に思った。
子供たちが横並びにされて、偏差値で格付けされて、親までが一喜一憂して、見方によっては狂った世の中だと思う。
その不条理に対して、私の上の子供は疑問を感じ、その疑問を代弁してくれる曲の存在に気付いた。それはとても大切なことだ。
最近になって若い人たちに受け入れられている曲には傾向があって、彼ら彼女らの気持ちに共鳴するような、昔の表現で言えば「パンク」な味わいもある。
昨年、「うっせぇわ」という曲が話題になったけれど、「ゆとり教育」に代表される大人の自己満足のような環境に対して、若い人たちが反感を前に出すようになったということか。
懐かしいな。昔は、学校の窓を壊してまわったという曲が流行ったりもしたし、不良たちがラグビー部で頑張るというドラマが流行ったりもした。
先が見えない暗い社会だと思っていたし、今も思っているけれど、未だに続く昭和の慣習を変える勢いが見えてきた。
おそらく、私を含めた昭和の生き残りが朽ちた頃、新しい社会がやってくる気がしてならない。
同時に、私たちの世代は延々と時代にしがみつくのではなくて、新しい世代に社会を引き継ぐべきだ。老いた昭和の思考で社会を動かすから歪みが生まれる。
それにしても時間の流れは速いものだ。つい最近まで若者だったはずなのに。
若者たちは、社会に対して精神的に従順であってはいけないと私は思う。
それは反社会的な思想を持つべきだと言っているのではなくて、世の中には完璧なシステムなんてありえず、そのシステムの課題を見つけ、考える感覚が必要だということだ。
外国では、学校の授業であえて他者を批判するプログラムが組まれたりもする。個人的な攻撃ではなくて、目の前のシステムの課題は何で、それを改善するにはどうするのかというテーマで子供同士がディスカッションしたりもするわけだ。
日本の子供たちはどうなのか。
思春期の子供たちを「和を以て貴しとなす」という思想にドブ漬けにして従わないと異端視し、その一方で学力や運動能力で競争に追いやるような矛盾した教育が行われていなかっただろうか。
その最たる例が、私のような団塊ジュニアの世代ではなかったか。
団塊世代の親たちから、社会はこのようなものだと押さえつけられ、その当時の価値観にドブ漬けにされ、同世代が多い中で競争に放り込まれ、さらには昭和のバブルが弾けて厳しい社会で家庭を持つことになった。
学校の先生に反発することは悪いことだ、政治や行政に関心を持つことは良くないことだ、目の前の試験に尽力し、できる限り高い学歴を身につけ、エリートを目指せ、そういった社会的風潮はなかったのか。
社会に対する関心は自分が見える範囲の中だけで、社会全体を考える感覚は身につかず、自分が住む自治体の行政にさえ受け身になって意見を言わず、結果としてこの状況。
立場として反論できない人たちに対しては、何だかんだと不満をぶつけてクレーマーになるが、いざ自分がどう考えているのか意見を尋ねられれば底の浅い主張のみ。考えることを放棄するのだから、意見が出るはずもない。
細かな不満は多くても、自分が動いたところで何も変わらないので誰かが動けとツイートするわけだ。
それ以上は言うまでもない。
子供たちが社会に対して疑問を持つ最初の段階は、学校であり、家庭だと思う。わが子がそれら全てを嫌うようになってしまうと困るのだが、疑問を持つことは大切だと思う。
教師たちや両親に対して嫌悪であったり、反発する気持ちを持つことは重要だと思うわけで、今回のようなエピソードを通じてわが子の成長を知ることができて、とても有意義だ。
上の子供としては、希望した曲を父親が見て何かネガティブなことを言ってくると思ったのだろう。
しかし、「気持ちが分かるよ、そう感じて当然だ。この人たちは、君が感じていることを歌ってくれた。だから感動したということだろ?」と私が子供に伝えると、思ったより分かってくれる父親だと感じたらしく、父子の距離が縮まった気がした。
社会に対して従順であることは、確かに波風立てずに順調に進むこともあるが、時に他者のエゴによって食い物にされることがある。
あまりに反発しすぎるのはよくないが、社会に疑念を感じることは間違っていないと私は思う。
この社会の裏側を知っている場合は、特に。
だが、話はここで終わらなかった。
YouTubeが提案してくるプレイリストの中に、「YOASOBI」というグループの曲があった。
何だろうかとクリックしてみると、同じようにEMDやボーカロイドのテイストがありつつも、非常に強力なボーカルと歌詞が流れた。
YOASOBI 「怪物」
視聴回数が1億回を超えている。
若者風に表現すると、これはヤバいぞと思った。ゆとり教育という見せかけの呪縛から解放され、しかもコロナ禍という世界全体のストレスが広がっている現在、このアーティストの曲は若い人たちの心に突き刺さることだろう。
...と思っていたら、五十路が近い私の心にも突き刺さった。これは大変なことだ。
紛れもない中年が、若い人たちの間で流行っている曲に感動し共鳴することは、何だか恥ずかしい気がする。
どうしたものかとYOASOBIの動画に対するコメント欄を眺めてみたら、同じような中年たちからのコメントが散見されて安心した。
彼女の歌声は、私のような団塊ジュニアが慣れ親しんだ女性ボーカルの歌に似ていたりもする。ひとつずつ紹介する必要もない。30年くらいのタームで時代が一周回って戻ってきたのかもしれないな。
ただ、時代が戻ってきたと喜ぶだけではなくて、その時間だって私は生きてきて、様々なことを経験した。
特に、この曲は心の中にざっくりと入ってきて、気がつくと深夜に画面を見つめながら涙が流れていた。
YOASOBI 「たぶん」
懐かしい。とても懐かしい。一緒に生活していた若い男女の別れの曲だな。
ずっと実家暮らしで結婚して今に至っている妻には全く理解不能で、私はその経験の薄さに苦しんでいたりもするのだが、若い頃に同棲したことがある中年の男性や女性ならば懐かしく感じる曲だと思う。
団塊世代のシニアの中には、かぐや姫というグループの「神田川」という曲を聴いて遠い目をする人がいると思う。その感情とよく似ているはずだ。
妻に出会う前、毎日ではないけれど一緒に住んでいた美しい女性がいて、結婚寸前の段階で意見が合わずに縁がなくなった。
その理由というのは、当時の彼女が結婚後に子供を望んでいないことだった。結婚前に方針の違いを話し合っておくことは大切なのだが、目の前で言われるとさすがにショックだった。そもそも結婚したくないという意思表示だったのかもしれないな。
そして、私の場合には、このムービーと逆の立場だったが、この曲の歌詞にもあるように大衆的な恋愛が終わり、最終的な答えがやってきて、部屋の合い鍵が戻された。
その瞬間は涙も出ずに、ただ呆然と時が過ぎた。しかし、後になって振り返って深い悲しみがやってきたな。思い返してみると。
不思議だなと思ってネット上のコメントを眺めると、確かにこの歌詞の部分で心にグッとくる人が多いようだ。
別れが来た時に同居人の存在した証を消そうとしたところまでが同じで、苦笑いするしかない。まさに大衆的な恋愛だったのだなぁと。
そして、YouTubeが「この曲もいかがですか?」という体で紹介してきた曲があった。この曲は、視聴回数が2億回を超えているらしい。
YOASOBI 「夜に駆ける」
どうしてこの曲に視聴制限がかけられているのか、YouTubeの運営やGoogle社の対応について理解に苦しむ。それは後で考えよう。
YOASOBIの作品はとても興味深くて、どちらが先なのか今の私には分からないのだが、曲の題材になっている小説が存在している。
その小説のストーリーに合わせて曲がつくられているようだ。自宅にテレビがないので知らなかったが、すでに紅白歌合戦にYOASOBIが出演して、「夜に駆ける」 を披露したらしい。
このムービーの内容は、若い男女の出会いから始まり、お互いを理解し合えない苦しみを経て、ふとしたきっかけで互いの気持ちが同調する。
そして、二人が建物から飛び降りて命を絶つという結末だ。
この曲の冒頭で女性の手を繋いで引き戻した男性の行動は、何気ない機会に男女が出会ったという感じで耳に入るが、実際には自殺しようとしていた女性を引き留めていたということが後になって分かる。
しかし、どうにも腑に落ちないことがある。現時点で、このYouTubeの動画は視聴者の年齢制限がかけられている。
自分を爆破したり、自分に火を付けて首を吊るスリップノットのThe Devil In Iの方がずっと危ない感じがする。スリップノットの場合には全世界のスケール、かつ視聴者のほとんどが成人だとYouTubeの担当者が認識したからだろうか。
夜に駆けるのムービーが、日本という狭いスケールで短期間に2億回の視聴回数を出し、思春期の若者たちに影響を及ぼす危険性があると判断されたからだろうか。
だとすれば、この判断を下したのは日本のことをあまりよく分かっていないGoogle社員の外国人、あるいは日本人の社員であっても十分な教養を培っていない人かもしれないな。日本人であれば常識レベルだと思うが。
「此の世のなごり。夜もなごり。死に行く身をたとふれば...」から始まる男女のストーリーを、彼らは知らないのだろうか。
Google本社があるアメリカ合衆国が建国されるずっと前から、日本には、男女の純愛の先にある死という物語が社会に広がっていたことも知らないことだろう。
日本では昔から、男女の心中を題材にした物語が広く流行した。当然だが、最終的な判断として死を選択することは間違っている。
しかし、男女の間で一緒に死を選ぶくらいの純粋な愛を築いたということが美化される風潮があったということだ。
また、とりわけ厳しい身分制度、および親が結婚相手を決めるという制度などがあり、若い男女がそうせざるをえないくらいの不条理が社会に存在していたということも背景にあったのだろう。
翻って、その最終的な選択を少しでも逸らすことができさえすれば、そこにあるのは幸せな家庭であり、揺るぎない夫婦の繋がりだということが分かる。
誰もが望むエンディングに向かわずにバッドエンドに至るストーリーを噛み締めて、男女の愛とは何なのかと感じることのインパクトを、当時の人々は感じ取っていたのだろうな。
しかし、今回のエピソードは私にとっては他人事で済まされなくて、深く考え込む機会となった。
それは、「夜に駆ける」 のアニメーションに登場した女性キャラクター。
冒頭から目の部分がマスクされた状態で登場し、ポイントオブノーリターンの場面で素顔が見えるのだが、その姿は私自身の記憶の蓋をこじ開けるだけの衝撃があった。
大学生の頃、声をかけることさえ戸惑ってしまうくらいに憧れた女性の先輩がいた。その先輩の姿と非常によく似ていた。
対して、私はそのアニメーションに登場するような美男子ではないわけだが、確かにその先輩の顔つきはよく似ていた。
彼女は、すれ違っただけで呆然としてしまうくらいに美しくて、まだ地方の訛りが残る私が話しかけることさえできなかった。
しかし、彼女の表情は笑っていた時でさえ目元が寂しく映っていて、何だろうかと思った。
それから半年くらいして、彼女が自ら命を絶ったという知らせを聞いた。暑い夏の日のことだった。
大学としてもあまり公にしたくなかったそうで、すでに葬儀が終わった段階で噂のような形で話を耳にした。
大学の夏休みが終わって普段の生活に戻っても、彼女の存在以外は何も変わらない日々が続いた。そのことがショックだった。
さて、「夜に駆ける」 の動画を見終わった。このままでは寝付きが悪くなると思ったので、ハイボールを飲み干して、さっさと歯を磨いて寝ることにした。
洗面台の鏡の前に映っているのは、生きることに疲れ切って、くたびれた白髪頭のオッサンの姿。自分の面を嘆いて何になるという話だが。
そうか...あの頃はまだ20代の前半だったわけで、今の私はその倍くらいの時間を生きたのか。老けるはずだな。
案の定、とても寝付きが悪い。布団の中で、オッサンの空想が続く。
当時の私が何かのきっかけで彼女と親密になっていれば、手を引き留めることができたのだろうか。
そして、バッドエンドではなくて、ハッピーエンドに向かって人生を進んでいればどうなっていたのだろうか。
今さら考えたところで意味がなく、その思考自体が無駄だと分かっていても、たまにはそのような空想に浸ってもいい気がする。
これらのエピソードは、私が生きてきた中での重要な経験だと思うし、決して忘れないと思っていたのだが、実際には忘れかけていた。
子育てをしていると、自分の人生を振り返ることがよくある。さらに、子供が思春期になると昔の恋愛まで思い出すらしい。
今となっては現実だったのか、どこかで見た映画のシーンなのかというくらいに淡い思い出になってしまっているが。
やはり寝付きが悪いので、夜中に布団から起き上がり、子供たちの寝相を見に行く。
うちの子供たちは布団を蹴飛ばすことがデフォルトなので、寝付いた頃に直している。
相変わらず布団を蹴飛ばして床の方に広がっていたので元に戻し、妻の寝相を眺める。
自己肯定強めで、自分が悪くても全く謝らない人だけれど、精神的に図太い妻と連れ添っていると安心することもある。
精神は図太く、布団から伸びた足は野太い。それを言うと妻から叱られる。妻が眠っている時にそう言っても叱られないが、たまに起きている時があるので油断することはできない。
とても気が楽になった私は自室に戻り、目を閉じた。
翌日の電車通勤では、スリップノットだけではなくて、YOASOBIのメドレーを流すことにした。
五十路のオッサンなので少し恥ずかしいのだが、通勤地獄のストレスに抗う曲が増えた。