のんきな他人
ニュースで悲しいエピソードが流れたとしても、それらが自分と直接的に関係しないのであれば所詮は他人事であり、自分が災難に巻き込まれなかったことに安堵すら感じてしまう。しかし、いつかはその当事者になるかもしれない。この曲はそのような虚しさを謳ったものだと私は理解している。
最近の世の中は良くないニュースが多い。心を沈ませたり苛立たせる情報が多すぎる。
以前からメディアが流す情報は内容が偏っていて心が沈むエピソードが多いのだが、最近のニュースはさらに性質が良くない。
多くの人たちがメディアから影響を受けて苛立っているように感じる。思考を操作されていると解釈しても矛盾がない。
どうして多くの人々がメディアからの情報による影響を受けているのかというと答えは簡単なことかもしれない。自分の生活に直接的に関係することが多いからだな。
感染症のアウトブレイクが地球の反対側の出来事だったなら、多くの人たちは他人事として気にもかけないはずだ。
人は自分に関わるかどうか、もしくはメリットやデメリットがあるかどうかで物事を判断することが多い。
また、人は自分に関係がない他者について関心を持つことが少なく、面識がない人がどれだけ辛い目に遭っていても気にしない。
その苦境や災難が自分に降りかからなくて安堵することがあっても、自分に関係のない人がどうなろうが知ったことではないという感覚なのだろう。
そのような人々の残酷で冷徹な思考を感じたくないのに感じざるをえないエピソードが多い。
加えて、私の自他境界がスペクトラムのように曖昧なので、他者の情報が自分の中に入り込んで感情移入するから疲れるのだろうか。
このような性格だから、死にそうになっている人を何とかして助けようとしたり、実際に助けて満足したり、助けられなくて落ち込んだりもするのだろうか。仕事だからという理由もあるが。
他人事だよと開き直っていたら仕事にならないし、そもそも仕事に矜持や遣り甲斐を見出だせなくなる。
しかし、ここまで多くの他者を助けてきたけれど、自分が苦しんでいる時に他者が助けくれるわけではない。
他者にとって直接的に関係がなければ、私が無様な死に様を晒したところで気にもされないだろう。
豪強な自他境界が構築されていれば、生きることが楽なんだろうな。
他者を慮らずに自らの利益を追求する人の方が高い地位に出世することはよくあるし、それによって組織全体が舵取りを誤ることもある。
翻って、自分に対して関係のない出来事について気にしないという感覚が個人のレベルに留まるはずはなく、それらは集団のレベルにも広がる。
そういえば、わが家もお世話になった市内の産婦人科医院が、隣の市川市に移転することになった。市内でのトラブルが原因だった。
とても悲しい気持ちになった。
院長先生は友人なので、彼のことや移転のことについては知っていた。彼の奥さんも産婦人科医で、妻の妊娠や出産で診察してくださった。
数年前、とある宗教法人がこのクリニックのすぐ隣に納骨堂を建設すると言い出した。
納骨堂は大切な施設だが、出産する場所の隣に墓地を建設するのは適切ではないと、クリニックの院長先生方、子育て世代を中心とした多数の市民、一部の市議会議員たちが反対し、ネットで署名を集めた。
しかし、この街の行政の対応は、クリニックを守ろうとせずに冷たく突き放す形だった。条例の内容を少しだけ変えたが、事態は解決するはずもなかった。
市議会議員の中にはクリニックを助けようとしない人がたくさんいた。二元代表制を理解しているのか分からなかったが、地方議会は往々にしてこの形になる。
市民が出産する産婦人科医院は公共性が非常に高い。
その環境を保つことは行政の役目だ。他の自治体で同様のトラブルが生じていたのに、条例の整備が進んでいなかった。
いや、むしろその状態が狙われたのだろう。このトラブルはとても根深く複雑な要素で構成されていた。
加えて、そのトラブルの背景には、閉鎖的な村社会の不文律や価値観があった。
この地には、青べか物語で描かれた頃の湿り気を帯びた性質が、今になっても引き継がれているように思える。
357号線を境に街の南北で市民が水と油になっている理由も分かる。
未だに元町派だ新町派だと言っている人たちを両サイドで見かけるが、ここまで考え方が異なる集団が混ざり合うことは難しい。
詳しく書くと怖い顔をしたオッサンが脅してくるかもしれないので黙っておくが、街に対する愛着や信頼感がなくなり、嫌悪と不信感に変わったのはその頃からだった。
このトラブルをきっかけとして、街全体の裏側を調べたら、海泥のような情報がたくさん澱んで層をなしていた。
ああなるほど、この街には、このような力学が働いていて、このような柵があるのだなと。
何とか派と何とか派が対立して荒れるというパターンは、埋め立て地が生まれるずっと前から存在していて、とりわけ金が絡むことにシビアなんだな。
青べか物語の頃の陸の孤島では、生活がとても厳しかっただろうし、利益のためには対立も辞さないというエゴイスティックな考えが残っているのかもしれないな。あくまで印象だが。
そこに埋め立て地が生まれて、別の意味で金にシビアでエゴイスティックな高所得層が流入してきた。
両者の間で街についての認識は異なるし、どちらが主導権を握るかによって行政の形も金の流れも変わる。
さらに、市内外の業者から見ると、この街は営利を得るための場であり、商品そのものとも言える。
地域産業が活発になることは望ましいわけだが、この街の場合にはもっと大きな金の流れや駆け引きが存在しているようだ。
知名度もあるし、都心から距離的には近く、テーマパークもあるのだから当然の話だな。
海だけでなく、そのような経緯や背景までが埋め立てられ、半ば商品のようになってしまった街に住んでいるという私なりの解釈に至る。
もとい、現実的な問題として、地域社会において貴重な存在である産婦人科医院が市外に移転して減ってしまうと、この街で出産する市民や家族が困る。
移転先の市川市は、優秀で評判の良い産婦人科医院が引っ越してくれて大喜びだろう。子育てに適した街のアピールにもなる。
他方、わが街の行政は、日本の少子化に抗うべく、妊娠から出産、子育てまでをシームレスに支援するとアピールしていたじゃないか。
産婦人科医院とトラブルを起こして市外に移転させてしまって、これで子育て世代に優しい街と言えるのか?
このような状況では、千葉県最低レベルの出生率の街の現状が改善されるとは思えないし、将来的には老人ばかりになり、公園で子供が遊んでいる姿さえ珍しくなるかもしれない。働き盛りの市民が減ったり、転入して来なくなると街の財政も傾く。
院長先生を漢字1文字で表現すると「誠」の人なので、できる限り影響が少ないように移転先を考えてくれるはずだが、この街の行政の対応は残念だった。たとえ様々な背景や都合があったとしても。
では、この移転を市民はどのように感じているのか。多くの市民は我関せずだ。自分に関係のないことには関心を持たない傾向が強い。
同様の話は他にもたくさんある。
産婦人科医院のトラブルについて懸念を示した多くの若い市民は、新浦安の戸建街で生じた液状化対策工事でのトラブルについては関心がなかったことだろう。
この件では高齢者まで巻き込んで地域の人間関係が悪化するような事態になり、しかも工事計画が頓挫した。
とはいえ、戸建街に住んでいない市民から見れば、このトラブルだって他人事だ。
最近では、流行病の影響で航空産業や飲食業、観光業などが大きなダメージを受けている。
この街にもこれらの業種で生計を立てている同世代がたくさん住んでいる。わが子たちの同級生の家庭の中にも流行病による経済的な影響を受けているケースがあるはずだ。
ここで大切なことに気付いた。
そのような家庭がダメージを受けているにも関わらず、私自身が「のんきな他人」になってしまっている。
私の実家は自営業で大きな借金を抱えていた。子供の頃は「大人になったら経済的に安定した生活を送りたい」と考えてここまで来た。
そして、流行病がやってきても経済的には苦しんでいない。他の世帯が苦しんでいる姿を眺めて、自分の世帯は災難を免れたと安堵してはいないか。
かといって、私自身がバーンアウトで苦しみ、離人症で今も苦しんでいても、この街において気にかけてくれた他者はいない。
妻でさえ大して気にしていないくらいだから当然だが、私本人としては死にそうなくらいに苦しんでいる。
なるほど、このような自他の壁が蜂の巣のように形作られているのが、この社会の心理構造ということか。
社会なんてこの程度のものだ、自分が落ち込んだところで誰も助けてくれないし、自分のことは自分で守るしかないというフレーズを聞いたことがあるが、それこそがまさしく社会の本質のひとつなのだろう。
何だか虚しく感じるけれど、それを割り切って生きれば少しは楽になるのだろうか。
そう思いつつ電車通勤で駅の中を歩いていたところ、構内の電子掲示板には人身事故によるダイヤ乱れのアナウンスが表示されていた。
人身事故の当事者にとっては死にたくなるくらいに辛いことがあったのだろう。他者の不幸を気の毒に感じながらも、自分が生き続けていることに安堵している。
やはり、のんきな他人になってしまうわけだな。この感覚が湧いてくることは自然なことかもしれないが、どうにも気持ちが萎える。