2021/07/04

マルチタスクで疲れたら、シングルタスクを意識する

ゴールデンウィーク明け頃から仕事は通常モードに戻っていて、変則的なシフトからも少しずつ解放されてきた。プライベートでは谷津道を探すというサイクリングの面白さに気づき、そのスタイルに合わせてクロモリロードバイクをカスタムするという楽しみにも出会った。

しかし、身体の具合はあまり良くない。6月の半ばくらいから左耳に激しい耳鳴りが生じ、それが治まってきた6月の下旬から1週間くらいの間、右の脇腹が酷く痛むようになってきた。少し動くだけでも刺すような痛みが響いて、仕事に集中することができず、ただでさえ辛い往復3時間の電車通勤がさらに厳しくなった。


右の脇腹の痛みは間違いなく肋間神経痛だな。ジジ臭いと言われればそれまでの話だが、肋骨に沿って頻繁にやってくる激しい痛みは全ての活動においてのモチベーションを確実に削っていく。

肋間神経痛の場合、骨格に負荷がかかったといった器質的な原因だとか、体内に潜伏感染しているヘルペスウイルスが疲労で再活性化して神経を痛めているとか、詳しく分からないが精神的なストレスとか、様々な機序によって発症するらしい。

幸いにも左耳の聴覚は少しずつ戻ってきたので安堵していたのだが、その後で別の箇所がおかしくなった。

それらの不調が、この街に住むことと長時間の通勤のストレスによることは間違いなくて、本当にストレスというものは怖いものだと言わざるをえない。

よく、ブログとかで「最近は低空飛行の毎日が続いています...」と近況を紹介している人がいて、往々にして気持ちが沈み続けていたりもする。

低空飛行と表現するのであれば、まだ飛んでいるだけマシだろうと私は思うわけで、自分の場合にはバーンアウトで精神の深い井戸に落ちて何とか這い上り、そこからずっと重い荷物を背負って歩き続けているような感覚が続いている。

仕事にしても家庭にしても、空を飛んでいるかのように調子が良いステージなんて、死ぬまでやってこないことだろう。

だが、物は考えようだ。いつか再び調子が良いレベルで飛行することができると思うから気持ちが沈むだけの話で、地面に落ちた状態がずっと続くと覚悟すれば、その苦しみも少しだけ楽になる。

仕事においても、家庭においても、絶好調という状態がずっと続くはずがない。状態は常に波のように変動するものだ。

非常に強い自己愛に充ちて「我が人生の空に一点の曇りなし!」という勢いで他者を見下して生きていたとしても、いつかは調子を落として低空を飛行したり、地面に落ちたりもする。

全てが絶好調でも、いつかは老いて死がやってくる。その時には三途の川と同じで人生の富や名声なんて関係ない。悶え苦しんで死ぬだけだ。

他方、ずっと地面を歩いていれば、調子が良くならないので慢心することが少ない。調子良く飛んでいたら避けられない障害物であっても、地を這っている場合には慌てずに済む。

激しい耳鳴りに襲われた時には十分に気付いていなかったのだが、右脇腹の肋間神経痛が続いてから、ようやく自分が酷く疲れていることを知った。

普段から疲れているので、疲れの度合いが分からなかったという話だな。それが街や通勤のストレスだと指摘するのは簡単なのだが、おそらく他の要素がいくつか絡んでいるとも思える。

だとすれば、梅雨時期の気圧の低下、そして谷津不足だな。雨が降ると谷津道のサイクリングに出かけることができないので、自分では我慢して諦めているつもりでも、少しずつストレスが蓄積したということか。

「ああ、辛い、どうしてこんなに辛いんだ...」と嘆く人を個人ブログ界隈ではよく見かけるが、雨が続いたり気圧が下がることは仕方のないことで、いつまでも続くわけでもない。

加えて、仕事が通常モードに移行して、今まで通りに働こうとしてペースを上げたことが今回の不調の要因のひとつなのだろう。

うちの妻のように多動性と衝動性が高い人は変化に強い。

緊急事態宣言が発令された時でも、「テレワークって何ですか?それ美味しいんですか?」という勢いで妻は職場に通い、共働きで大変だと言っているにも関わらず残業して帰り、夜の11時頃に部屋の掃除機をかけ始めて私が止めることがある。

このようなタイプは他者に気を遣わない。

他者に気を遣わないので、その分の疲れが少ないようだ。うつにならないタイプとでも言おうか、うつになったとしても自分が沈むのではなくて、他者にストレスを放出するような症状になるのだろう。

毎週のことだが、休日がやってくると、私は風呂や洗面台、トイレといった水回りを掃除することにしている。シングルインカムの家庭であれば、奥さんがやってくれるのだろうけれど、我が家では夫の役目になっている。

これらをこなすとラディカルなフェミニストの妻が家庭で暴れる頻度が減るし、私にとっても頭の中を整理するための時間になっている。

禅宗では身体を使う労働のことを「作務」と呼んでいて、作務の中でも清掃が大切な修行のひとつになっている。

掃除をする時には「ああ、面倒くさい...」「時間がないのに...」「どうして俺が...」「こんなに汚しやがって...」といった負の感情が生まれて当然だと思う。

しかし、作務における清掃では、ただひたすら掃除に集中し、それらの感情が生まれても葛藤したり無理に消そうとせず、再び掃除に集中する。

このような思考のスタイルは座禅においても共通しているし、それら全てが禅であり、修行なのだという考えに基づいていると私は理解している。

だが、ひとつのことに集中するのは想像以上に難しい。目の前の作業に集中しようとしても、途中で余計なことが頭に浮かんで集中が途切れたりもする。

意識していないのに浮かび上がる思考や感情を受け流して、ひとつのことに集中するにはどうすればいいのかというと、その際のペースメーカーになるのは自分自身の「呼吸」だとよく言われる。

只管打坐の座禅においても、作務においても、雑念が湧いてきた時に自分の呼吸に意識を集めると、雑念を受け流すことができたりもする。

禅から宗教色を抜いたマインドフルネスにおいても、重視するのは自分の呼吸のリズムであり、精神を統一しようと気合いを入れるのではなくて、呼吸を意識しているうちに雑念が流れて楽になるというスタイルだと思う。

よくよく考えてみると、生きるためには呼吸が必要であり、呼吸をしているからこそ生きているとも言える。その生命活動の中心を意識することで思考の集中に繋がると人々が気づいたのは、自然な流れかもしれない。

だが、呼吸はとても不思議な活動でもあって、自分で意識してそのリズムを高めることができるのに、意識しなくても呼吸している。

つまり、顕在意識と潜在意識の双方に広がっている生命活動のひとつが呼吸という解釈になる。

その神秘性も関係するのだろうか、フィクションの世界でも呼吸が重要な構成要素になっていたりもする。

オッサンなら誰もが知っている「ジョジョの奇妙な冒険」の初期では、波紋疾走を生み出すための特別な呼吸法があった。

また、子供たち(とその父親たち)なら誰もが知っている「鬼滅の刃」でも「全集中の呼吸」という技が登場していた。

もとい、ひとつのことに集中するということは、必ずしも大きな目的を達成するための苦行ではなくて、生きる中で自分の内的なコンディションを整えるという意味がある。

私は子供たちが学習塾の試験で酷い点数を取って帰ってきても叱らない。

しかし、子供たちがあまりに片付けを無視していたり、家族が使うエリアを汚して放置している時には、激しく叱りつけることがある。内面が浮き足立って周りが見えていない証左だと思うからだ。

よくよく考えてみると、うちの妻のように6~7割の仕上げで物事をやり過ごすことはとても大切だと思う。全てを丁寧にこなすなんてことは難しいわけだし、私のようにこだわりが強すぎると精神の負荷が大きくなる。

それでも、子供たちがあまりに雑に育ってしまうと、将来的に職場の人たちや家族が苦しむことになりかねない。その辺のバランスを取ることが難しいのだが、ちょうど夫婦で性格が全く違うので、子供たちはその中間で育てばいいだろうと思う。

子育てを含めて、粗に生きるのか細に生きるのかという課題は、状況にもよるが重要なことだな。

職場でも、自分のメリットになることだけに注力し、その他は適当で雑な人の方が元気に働いて、出世したりもする。

しかし、いつまでも好調が続いて飛び続けられるわけでもないし、低空飛行になったり、落ちたりもするだろう。

そのような人たちとは対照的に、自分が与えられた仕事を丁寧にこなそうとして出世から縁遠くなり、雑な人たちから使われるだけで職業人生を終える人もいる。

どちらが幸せなのかは、その人たちが判断することだな。

...ということを自分が偉そうに言える立場ではないのだが、粗と細のバランスに気づいたことは、バーンアウトで地面に落ちて良かったと思える経験のひとつでもある。

どのような人にも、時間や労力について必ず限界がある。早く出世して偉くなりたいという人たちの行動原理の中には、たくさんの部下を従わせて自分を有利な立場にしたい、あるいは楽をしたいという気持ちがあるだろう。

個人の能力や時間には限りがあるわけで、その分を部下にアウトソースし、その成果を自分のものにすれば、労せずに自分への利益に繋がるという考えだ。

多くのことを自分でこなすようなスペシャリストは、そのような人たちからアウトソースされる側の存在であって、自分の成果をオーバーヘッドとして差し出す代わりに立場や利益を得るという形になる。

バーンアウトを起こす前の私は、仕事においても何とかしてアウトソースすることで自分の利益を追求できないかと考えていたし、他者と張り合って競うことが職業人生の大きな目標になっていた。

夫婦共働きの子育てや長時間の電車通勤といったプライベートなことが、職業人生の足を大きく引っ張り続けていることにも怒り、憤り、不満を蓄積させていた。

しかし、バーンアウトを起こして感情を失い、そこから生き続ける上で大切だったのは、「物事を丁寧に扱うこと」の大切さだった。モチベーションの多くが失われてしまうので、ひとつずつ丁寧にこなすしか術がない。焦って元の状態に戻そうとすると逆効果だった。

物事を丁寧に扱うなんて、別に高等教育を受けなくても知っていることだろう。しかし、それを実践することは難しい。

若い頃にそれなりの最高学府に通ったが、そこに集まっていたのは目をギラつかせた若者たちばかりだったし、自分もそうだった。いかに効率よく成績を上げるか、いかに他者との競争に勝つか。そのような環境では雑な方が良かったりもした。

加えて、偉い先生たちから専門的なことを教わったけれど、それらの知識やスキルは生きる上での道具でしかなかった。道具を操る気力さえ失われてしまった時には役に立たないし、それらは生きる上での本質的な存在ではなかったということだ。

物事を丁寧に扱う上で大切なことは、思考や行動において同時に何かを実行するのではなくて、ひとつのことに集中することだと、大昔の書物に記載されていた。

現在の横文字で言えば、マルチタスクとシングルタスクという概念になるのだろう。

よくよく考えてみると、現在の便利な世の中ではマルチタスクの方が効率が良くて、シングルタスクは効率が悪いという考えが広がっている。

マルチタスクとシングルタスクという話は、ビジネスシーン以外の人々の生活にも該当する。

音楽を聴きながら読書あるいはジョギングをしたり、食事をとりながら動画を観たり、さらに酷くなると歩きながらスマートフォンを見つめている人さえいる。

それらによって便利で刺激的な生活が生まれたとも言えるし、疲れる世の中になったとも言える。

併せて、マルチタスクにも得手不得手があるし、マルチタスクにならざるをえない状況だってある。

非常に単調過ぎる作業の場合には別の刺激があった方がいいと感じることは間違っていないと思う。室内でサイクリングのトレーニングを行う時、余程にストイックなレーサーでない限り、最初から音楽や映像を用意せずにペダリングを行うことは難しいと思う。

また、昨今のテレワークにおいては、必ずしも在宅での仕事に集中することは難しい。特に、子育て中の世帯の場合には、家庭の中で家事や育児のことを考えながら仕事を続けるのだから、疲れて当然なんだ。

しかしながら、仕事であっても家庭であっても、疲れが蓄積して辛くなってきた時には、それを良い機会だと思ってシングルタスクを意識することが大切なのかもしれないな。

最近の私の不調に当てはめるとどうなるのだろうか。

変化に弱いにも関わらず、かつての仕事のスタイルに戻そうとして無理がかかっていた。

多くの人々の思考がコロナに慣れてしまって、通勤時の電車の利用客は間違いなく増えているにも関わらず、我慢し続けていた。

ひとつの事柄についてのマルチタスクというよりも、毎日の生活でのマルチタスクが多くなっていて、自分自身を休ませるというシングルタスクを見落としていたのではないか。

丁寧に生きていたならば、激しい耳鳴りが生じた段階で休んでいたはずなんだ。しかし、それを我慢して仕事や家庭に意識を費やし、さらに別の場所が痛んできても仕事や家庭のペースを維持しようとしている。

そういえば、休日にはサイクリングに出かけているけれど、梅雨時期にはその頻度が減っていて、仕事や家庭のことをこなすだけで、本当に休んでいなかったと思う。

「休む時には、休むことに集中する」という表現は、何だかおかしな感じもするが、最も疎かになってしまうことのひとつかもしれないな。

休んでいる間にも他のことを考えていたり、他のことに取り組んでいたら、ますます自分が削られてしまう。

これでは仕事のパフォーマンスが上がるはずがないし、家庭でさらに疲れてしまうし、状態は悪化するだけだな。

ということで、休日に自室に引きこもって、愛車のクロモリロードバイクの整備に取りかかることにした。趣味に没頭するのは休むことのひとつだと思ったからだ。

やはり、全体的なモチベーションが落ちていたのだろう。クランクを外してボトムブラケットを交換し、グラベル用のGRXのシングルクランクを取り付けるだけで身体と頭が重い。

フロントディレイラーを取り外してみたら、その周りが泥や埃で酷く汚れていた。そのような汚れにも気付かなかったということか。

フロントシフターを取り外し、チェーンの長さを調整してクイックリンクで繋ごうとした時のことだった。

何度、クイックリンクを繋げても、その部分のチェーンの動きが硬くて滑らかに動作しない。

「なんだ、不良品か?」と、ストックしてあった新品のクイックリンクを取り出して、再びチェーンを繋いでみる。やはり接合部が動かなくて何ともならない。クイックリンクは小さなパーツだが、たった1個で600円くらいする。あまり無駄にすることができない。

ロット全体が不良品なのかと再び別のクイックリンクを繋げようとしたら、それらを繋げるための工具が破損して壊れた。

「なんたることだ、シマノはここまで落ちたのかのか!?」と私は憤り、今後はシマノのクイックリンクを使わず、KMCのミッシングリンクを注文することにした。

そして、KMCのミッシングリンクを注文しようとしてAmazonの履歴を確認していたところ、先ほどのシマノのクイックリンクの商品名が何だかおかしい。

前回の注文において、11速用のクイックリンクを検索してヒットした製品を購入したのだが、なぜかあまり普及していないはずの12速チェーン用のクイックリンクを購入していたことが分かった。

何だろうかと再び検索すると、やはり11速用のクイックリンクのキーワードで堂々と12速用のクイックリンクがヒットする。11速用のクイックリンクはAmazonではすでに欠品している。つまり、検索設定のエラーなのだろう。

このようなエラーにも気付かずに12速用のクイックリンクを購入して、より幅の広い11速用のチェーンを取り付けようとしたのだから、滑らかに動作しなくて当然だな。

やはり、現在の私は相当に疲れているらしい。

そもそも、休むことに集中するのであれば、趣味の自転車いじりをやっている場合ではなくて、一切の動きを止めて座禅を組んだ方が良さそうだ。

物事を丁寧に扱おうと意識するあまり、自分がマルチタスクに陥っていることに気がついていなかったというわけか。

バーンアウトの井戸から這い上る時にはマルチタスクがそもそも不可能だったので、シングルタスクを意識する必要がなかったのだが、やはり忘れてはいけないことだな。