馴染みの小料理屋に立ち寄るオッサンって、素敵だと思うよ
ほら、昔のドラマとかで、女将さんがひとりで経営しているカウンターだけの小料理屋にオッサンが通って、その日の旨い料理を食べながらマッタリと酒を飲んで話しているシーンがあったりする。あの姿って、本当にいいよなと思う。
ドラマや映画の「深夜食堂」の店主は、女将さんではなくて強面の中年男性のマスターだが、あの雰囲気もいい。
どこかの新興住宅地の洒落たカフェなんて全く関心がない。陰のある寂れた路地裏で、提灯が吊るされているような飯屋がいい。
そのような店のカウンターを隅に座って、慌ただしく過ぎる毎日の中で少しだけ時間の流れを遅らせたい。
そのようなことをふと思ったのは、私の心に余裕があるのではなくて、むしろ逆だからだな。
上の子供の私立中学の受験が近づいてきて、我が家は余裕がなくなり、さらにピーキーになっている。
子供の中学受験をきっかけとした離婚なんて、マスコミが煽っているだけの嘘話だと若い頃の私は思っていたが、嘘話ではなくて現実の世界の話だ。
中学受験は夫婦関係において強烈な負荷がかかる。
子供の実力が変動する中、短期間で夫婦の方針を決め、しかも金と時間と手間がかかる。
我が家のように夫婦共働きで核家族状態だとさらに厳しい。当然だが夫婦の間にテンションが張る。
しかも、我が家の場合には、中学受験についての妻の方針に加えて、義実家の考えまでが妻経由で入ってくる。なのにサポートがないので核家族状態。何だそれはと思う。
夫よりも義実家を大切にする妻については、もはや変化は望めない。妻本人が実家依存を直せないのだから、義父母が死ぬまでこのままだ。
義父母がいなくなった時には、互いに爺婆になり、失った時間を取り戻すこともできない。義妹はこの先もずっと独身で、義実家の子供部屋にいるのだろう。
私としては中学受験で親が狂気を発動する必要はないと考えていて、イジメが少ないとか、教師が真面目だとか、設備が充実しているとか、そのような理由で私立中学の方がいいかなと思っている。
最も大切だと思うことは、我が子が良き師に出会い、良き友に出会うこと。
頻繁に異動する公務員の教師たちや、その場所に住んでいるというだけで集まってくる同級生たちと一緒に生活するよりも、自分が行きたいと思う中学校に行けばいい。
なので、高偏差値の学校を目指せと子供や妻に言ったこともない。
そもそも、子供は父親と母親の遺伝子を受け継いだ状態で生まれる。
子供が地頭を選んで生まれることはないし、それは子供の責任ではない。
父親である私は銀杏の紋章を持っているし入学試験で落ちたこともないわけだが、かといって神がかった秀才ではなかった。
子供の頃からASD傾向があって過集中を起こすので、その過集中を勉強に使っただけのこと。結局は人よりも学習量が増えたという形にはなったが、本当に頭の回転が速い秀才たちには及ばない。
母親である妻は難関とは言えない私立大学を卒業しているわけで、義父母や義妹についても同様。国立大学卒がひとりもいないし、まあ知っている程度の大学。
かといって、私の実家が凄いのかと言えばとんでもなくて、何せ大学を出た人が私以外にいない。そもそも父親の家系は職人ばかりだ。
母親の家系には赤門をくぐった人がいたりもするが、直系の先祖は大した学歴でない。なので、他所の家庭のことをとやかく言える立場でもない。
中学受験レベルであれば、親からもらった地頭の影響がとても大きい。それを否定するのならば、そもそも遺伝学や分子生物学の基本原理が成り立たない。
人間をパソコンに例えるのは適切ではないかもしれないが、1コアのCPU、2GBのメモリ、1TBのHDのマシンと、6コアのCPU、256GBのメモリ、100TBのHDのマシンでは情報処理の能力が違う。
脳が育ちきっていない小学生が中学受験に挑戦する場合には、必ずしも遺伝形質が十分に発現していないこともあるし、親のサポートといった子供本人の要素も絡む。
結果として先程のマシンスペックの違いのように、かけ離れた実力での競争が繰り広げられる。
そのような差を埋めるべく、受験業界が子供の勝負に介入して情報やスキルを「売って」、親がそれらを「買う」わけだ。
これが子供たちにとって公平な社会なのかと感じはするが、その公平性を重視した社会が公立小中学校という理解になる。
そもそも公平な世の中なんて存在しないと言う人もいるが、大昔に比べればずっと公平だと思うよ。
受験の競争で勝てば、人生を変えることができたりもするのだから。
加えて、目の前の勉強に集中することができるのかどうかという地頭以外の性質も関係するだろう。
衝動性と多動性が高くて落ち着きがない子供が、机の前で勉強に集中することは難しい。
その性質だって、親から受け継いだものだろう。親が子供に対して嘆いてどうする。自分のせいだろ。
それなのに、成績が良くないのは子供のせいだと、プレッシャーをかけて叱りつけるのは正しいのか。
極論のように思われるかもしれないが、学校や塾での勉強はゲームでしかないと思う。
社会に出れば答えのない仕事を解き続けるわけだし、ミスをすれば人が死んだりもする。
それは医師や看護師といった職業だけでなくて、市役所の職員や教師、保育士、工事関係の仕事や配送業など、様々な職業に当てはまる。
仕事がゲームだと言っているコンサル人がいて、それを真に受けている人がいたりもするが、仕事はゲームではない。
他方、塾や入学試験の場合には答えが用意されているし、ミスをして人が死ぬわけでもない。その構図はまさにゲームだ。
学校の勉強ができても社会で全く使いものにならないとか、学校の勉強は駄目だったが社会に出てから活躍しているといった話が珍しくない。
学校の勉強と社会に出てからの仕事は漸次的に繋がっているように見えるが、実際には繋がっていないからだろう。
だが、この学歴社会ではゲームのような入学試験によって、人の職業人生や収入まで方向付けられる。とても怖いゲームだ。
だが、ゲームで頑張れば人生が変わるのだから、学生とは良い身分だなと思う。
そして、ゲームで高得点を出すためにはどうすればよいのかというと、そのゲームを「楽しむ」ことだ。
より高い偏差値を出そうとしてガリガリと修行のように努力するよりも、高得点を狙って楽しんだ方が成績が上がる。
難関大学の学生たちは勉強の楽しみ方を知っていて、ビデオゲームやクイズゲームで遊ぶかのように勉強することができたりもする。
その人たちが親になって子育てに入れば、子供は地頭が良い上に勉強の楽しみ方を教わるわけだ。おそらく、この流れが学歴の連鎖を生じるスキームのひとつだろう。
その流れに対して、勉強をゲームとして楽しんだことがない人が親になると、勉強とは勉強であって楽しむものではないという考えが頭にこびりついているのだろう。
模試や入学試験を壁のように想定して、とにかく歯を食いしばってぶち当たれ、ここが根性を見せる勝負の時だと。
こんな偏差値で合格できると思っているのか、だからお前は駄目なんだ、試験で高い偏差値を出せないのは本人の努力が足りないからだ、悪いのはお前だ、もっと頑張らないからだと。
違うんだよな。
それは親のエゴでしかないし、親がそんなにプレッシャーをかけて、子供が勉強を楽しむことができるはずがない。
子供に対して苛つく前に、自分の地頭について振り返ることだ。試験が無双だったのか。その後でどのような学歴を身につけたのか。
勉強がゲームなんだと気付いたことがない親に限って、子供にプレッシャーをかける。その経験がないからだ。
....と、父親として様々な葛藤を持ったところで、すでに狂気を発動してしまっている妻に対して何かを言うような状況でもない。
また、私が子供たちに勉強の楽しみ方を教えようとすると、すぐに妻が否定して根性論を上塗りされてしまう。
しかも、私自身はストレス障害に苦しみ、何とかして生き続けなければと耐えている状態でもある。
毎日が慌ただしく過ぎ去り、「生きることの目的って何だったっけ?」と呆然とすることさえある。
えっと...結婚して、子供を作って、子供を育てて、子供が大きくなって、という感じでハードルが並んでいる感じがするのだが、それが結婚したことの目的だったのかと振り返ってしまったりもする。
妻の場合には、直径30センチ、距離1メートルの範囲くらいしか見えていないので、おそらく生きることの目標がとても狭い範囲で密に並んでいるのだろう。
細かく並んだ目標を忙しくクリアし続けること、それが生きることの目的になっているようだ。
それらのターゲットをクリアする上で、夫婦の信頼とか語らいなんてものは存在していないし、そもそも夫婦で連れ添って「生きることを楽しむ」という姿勢は全く感じられない。
子供の塾だ習い事だと、休日はとても慌ただしく過ぎ去っていくが、夫婦の間で話し合う時間さえ十分ではない。平日は言うに及ばない。
こんなに駆け足で日々を生きて、振り返ったときに何が残るのだろう。夫婦ともに毎日苛々して、毎日疲れて。
しかも、義実家....本当に嫌なんだ。考えたくもないのに、この街に住んでいるとずっと気になる。
このような生活を送るために、私は結婚して家庭を持ったのだろうか。
泥のように重いたくさんの心の荷物を背負って、呻き声を出すことも弱音を吐くこともできず、目の前にずっと伸びているレールの上を歩き続けるような感覚だな。
もう疲れたよ。
人は誰もが強くないわけだし、他愛もない会話ができる人がいればよいのだけれど、五十路のオッサンになってくると話し相手も限られてくる。
五十路になって友達がたくさんいて、毎日ハッピーなんて人がいたら逆に怖いけれど。真面目に働いていたらありえないエンディングだな。
そして、冒頭の話に戻る。
私が住んでいる人口密度が千葉県ナンバーワンの鬱陶しい街で、そのような小料理屋は見当たらない。
この埋め立て地には、私が想像する世界にあるはずのものがない。神社も寺もなく、銭湯も、パチンコ屋も、ネットカフェすらも見当たらない。私にとっては異様とも思える巨大なテーマパークはある。
同じ市内なのに新興住宅地との間で水と油のようになっている旧漁師町...その場所を現地の人は元町ではなく本町というそうだが、私にとっては正直どうでもいい...の方に行くと飲み屋が多かったりもするが、その多くは騒がしくて落ち着かない。
カウンターだけの小料理屋の雰囲気は、23区内の路地裏でないと成立しないと思う。
ナイトサイクリングで荒川沿いを走り、都内で道に迷った時、古びた住宅街の中にひっそりと佇んでいる飲み屋をよく見かけた。私はあのようなマッタリした雰囲気が好きなんだ。
自宅があるスペースコロニーのような街には、それがない。
そういえば、大学院に通っていた頃、私は文京区内の落ち着いた町で下宿を借りて、歩いて大学まで通っていた。どれだけ研究が遅くなっても終電に気を遣う必要がなくて、今から思えば最高に仕事しやすい環境だった。
住んでいた部屋は8畳くらいのワンルームで、ユニットバス。ひとりで生活する分には十分だった。
そのマンションから道路を挟んで向かい側のビルの1階には、ドラマのシーンで登場するような小料理屋があった。カウンターの上段に大皿が並んでいて、それらを注文して酒を飲むような。
毎日ではないけれど、何か良いことがあった日や、何か辛いことがあった日、とにかく気分が上下するような時の夜、その店を訪れた。旨いものを食べれば気分が落ち着くだろうということで。
博士課程に進んだ私は、学術振興会の特別研究員、いわゆる「学振」の審査に合格していたので、学生の身分だけれど政府から生活費が支給されていたが、実家からの仕送りは当然ながらなかったので生活は厳しかった。
菓子パンやカップラーメンがデフォルトで、栄養も足りなかったな。
カウンターの向こう側には、割烹着を着た女将さんがいて、仕事を手伝っている別の女性...おそらく家族だと思う...がいて、ポツポツとオッサンたちが椅子に座ってマッタリしていた。
若い頃はそのオッサンたちの姿が格好悪く思えた。
定食というメニューはなかったのだけれど、私がフラッと入ってきて、酒を頼まずに白飯と味噌汁を頼んで、料理を注文して旨そうに食べている姿が面白かったらしい。
頼んでいないのにご飯が大盛りになっていたり、唐揚げが多かったりもしたが、女将さんとフランクに会話を楽しむようなレベルではなかった。
「また、栄養が足りなくなったの?」と笑われて、「はい、ガス欠になったので、やってきました」と答えるだけで精一杯だったな。
その当時の私は二十代だった。その倍近くの時間を生きたということだな。久しぶりに小料理屋の前を通りがかったら、その店の姿はなかった。
子供たちが都内の私立中学に通うようになって、私個人にとっては毎日の目眩と動悸と吐き気に苦しんで寿命を磨り減らしている最悪な街を脱出することができたら、小料理屋を探してみたいなと思う。
五十路近くのオッサンになってくると、どうして話し相手がいなくなるのかというと、その理由はよく分からない。
自分を含めて同世代のオッサンたちのほとんどは、仕事も家庭もレールの上に乗ってしまっている。
二十代や三十代であれば、その先の未来は様々な行き先があり、その不確定な状態を同世代で共有したり共感することもできるだろう。
しかし、五十路になってくると、もはや大きな荷物を背負って一本道を歩むが如しというか...この気持ちを他者に伝えたところで何となるという感じだな。
他者に語ったところで何かが変わるわけでもなく、他者の話を聞いたところで何かができるわけでもなく。
すでに引き返すことができない時点、いわゆるポイント・オブ・ノーリターンを過ぎてしまったからだろう。
そして、他のオッサンたちも同じ気持ちになっているだろうし、結果として同世代が話したところでどうにもならないというループだな。
オッサンたちが酒を飲めば、職場や同僚に対する不平不満、妻や子供たちに対する愚痴。たまに明るい話といえばマニアックな趣味の話や、ちょっとした儲け話。
話題が変われば検診で異常値が出て引っかかったとか、定年退職した後はどうやって過ごそうとか。まるで楽しくない話が続く。
では、五十路のオッサンが望む話し相手とはどのような存在なのかというと、他愛もない話を聞いて頷いてくれるような女性なのだろうな。
幸いにも素晴らしい伴侶に恵まれたオッサンであれば、その相手は妻だと思うのだが、そのようなオッサンはどれくらいの割合なのだろう。私が自宅に帰って、仕事やプライベートのことを妻に話しても、まるで聞いていないどころか、聞き流しのような状態だ。
どこかの偉い人がマスコミやネットユーザーから大変な批判を浴びても開き直っているようだが、社会的に成功したオッサンたちの中には、高級クラブのママと馴染みになったり、奥さん以外の女性と親密になっていたりもする。
英雄色を好むというパターンなのだろうか。
そのような人たちをたくさん知っているが、プライベートが充実...しているのかどうか分からないが刺激があると、仕事でもモチベーションが上がるのだろうか。年の割に若く感じる。
逆に考えると、ビジネスシーンで不自然なくらいに勢いがあるオッサンの身辺を調査する、あるいは様々な情報を集めたりすると、奥さん以外の女性の影がちらついたりもするわけだ。
他方、私なりに最も無様だなと思うのは、仕事も家庭も上手く行っていないのに、ネットで不倫相手を探したり、夜の街に出かけて欲求を充たそうとするオッサン。
その方向に話し相手が見つかるとも思えないし、自分の中で鬱積する様々な思考を解放してくれるとも思えない。
そのような考えてみると、仕事帰りの夕食として小料理屋を訪れて、大酒を飲むこともなく女将さんに近況を伝え、軽く談笑して自宅に帰るオッサンって、若い頃はそう思わなかったが格好が良い気がする。
オッサン特有の脂が浮いて下卑た気持ち悪さがないし、年甲斐もない我欲の強さもない。人は誰でも年を取るわけだし、それをきちんと受け止めて残りの人生を過ごしているような潔さもあるな。
そうか、オッサンが通うのであれば、別に女将が迎えてくれなくても構わないんだ。
同世代のマスターがカウンターに立っているような店も素敵だと思う。ドラマや小説だと、そこで生きることのヒントをもらったりもする。
要は、自分が立ち寄れる休憩場所があって、そこに自分のことを覚えていてくれる人がいて、マッタリと時間を過ごすことができればそれでいい。
残り少ない人生で妻のペースに合わせていたら、無数に並ぶハードルを必死に飛び越えるだけで生きることを楽しめない。それは、勉強を楽しむことができていない子供たちの姿と同じ。
私には私のペースがあるわけで、ペースが全く合わない女性と結婚し、頼んでもいないのに義実家がセットになって付いてきた。
だが、その状況を嘆いたところで始まらないし、数え切れないくらいの自問自答の後、離婚せず生き続けようと決めた。
離婚した方が楽だったかもしれないが、子供たちが独立するまでは父親の責任を果たそうと思った。
すでに夫婦の寝室は別になっているわけだし、夫婦で揃って夕食をとったところで会話もない。
浦粕を脱出して都内に引っ越したら、仕事帰りにたまに立ち寄って夕食をとることができる小料理屋を探すことにしよう。
このように小さな希望をかき集めて、生きるためモチベーションに換える日々は無様なものだが、その程度の希望しか見えないのだから仕方がない。