2021/06/27

夫婦の寝室が別どころか、夫が書斎で生活しているけれど

自宅から職場まで往復3時間、間取りは六畳一間。キッチンと風呂とトイレは共同。そのような物件はどれくらいのスペックなのだろう。築年数やアパート・マンションの区別にもよるが、5万円台で部屋が借りられるはずだ。

そして、見方によっては、私はそのような住居で生活しているという感じもある。食費は同居者を含めて負担だな。よくあるファミリー用の広めのマンションに入居した後、子供が小さかった頃には物置として使っていた部屋に、私は布団や着替え、パソコンなど一式を持ち込んで生活している。この行動はバーンアウトからの脱出においてロードバイク通勤と同じくらいに重要だったと思う。


この街の新町エリアに引っ越してきて、私はとある同世代の父親と一緒にロードバイクで荒川の河川敷を走ったことがあった。

当時は共働きの子育てと浦粕住まいや通勤地獄のストレスでバーンアウトする前だった。

子供たちが幼くて可愛らしく、私も父親として頑張ろうとしていた頃だった。

彼も同じくらいの年齢の子供たちを育てていて、子育て中の父親によくある早朝のライドに出かけることになった。

その知り合いは、大手企業で外国との取引が多いセクションに勤めていた。昔ならば商社マンと呼ばれる人だった。頻繁に欧米を飛行機で行き来していたそうで、新町の海沿いのマンションを購入するくらいだから、収入もそれなりなのだろう。

彼とロードバイクで荒川沿いを流していて、とても興味深い話を教わった。

欧米では、子供が産まれてある程度の期間が経つと、夫婦と子供が別室で寝ることが普通なのだそうだ。

国にもよるだろうけれど、家庭において夫婦というユニットが重要で、子供は幼くて手がかかったとしても独立した存在なのだと。

そういえば、乳児の体動だか鼓動だかを監視するモニターは10年以上前に海外で開発されて日本にやってきたのだが、その時点で無線機能が付いているものがあった。

乳児を別室で眠らせて、夫婦が一緒になって寝るというのは、日本の場合にはあまり普通ではないと思う。夫婦が並び、その横にベビーベッドを置いて大切にして眠る感じだな。

そして、子供たちが大きくなってくると、夫と妻が離れて間に子供が入って寝たりもする。いわゆる川の字だな。

そのような風習が、日本において夫婦の間の距離を広げてしまうのではないかと、彼は力説していた。

私は彼の話を聞いて、「なるほどそうか」と思った。家庭の中心は子供が生まれても夫婦であって、そのユニットが強固であるからこそ家庭が安定するのだなと。

しかし、よくよく話を聞いてみると、彼としては子供たちが生まれてから夫婦の夜の営みが減ったことを不満に感じているようだった。

そういえば、別の大手商社の父親は、出張先の夜の街でペイズリー柄の世界に浸ることがあると言っていた気がする。特に海外出張でのアバンチュールは凄まじいそうだ。

コロナ禍のずっと前の話だから、今は無理だろう。というか、普通に考えて何かがおかしい。

まあ確かに、子育てが一段落した父親ならば分かると思うが、例えば子供が小学校の高学年くらいになって、夜中にアンアンと盛んに愛し合っている夫婦は少ないことだろう。子供が見たらトラウマになる。

生物学的には、生殖というステージを終えた男女が次のステージに入る時、互いに同居人のようになるという気持ちの変化は大切かもしれない。

いつまでも生殖のステージを続けて子供が増え続けると、生存環境や食物といったリソースが枯渇するからだ。

しかも、ヒトは高等生物であり社会性を有している。子供たちの生活であったり教育であったりと、とかく金がかかったりもするわけで、ある程度のところで夫婦愛が冷えてくれないと子供が増え続けて生活に苦しむことになる。

そして、夫婦の愛の結晶が子供たちなのだと、分かりやすく話をすり替えたりもするし、我慢できなくなった父親が風俗で憂さを晴らしたり、SNSで浮気相手を見つけたりもする。男の欲求は底が深く、待ち構えている淵はさらに深い。

その一方で、現時点での社会状況あるいはその後の社会のことまで夫婦が考えてバースコントロールを行ってしまったり、そもそもこのような社会に子供たちが生きるのは忍びないと、結婚しても子供をつくらない夫婦もいたりする。

それぞれの人たちにはそれぞれの生き方があって、むやみに否定することは正しくない。子供をつくりたくないからつくらない、それもひとつの生き方なのだろう。

男性は成人すれば結婚して当然、子供をつくることも当然、それが普通なのだから従え、従わないことは恥ずべきだという不文律は違う。

他方、そのような不文律が日本の人口を増やしてきたことは間違いなくて、戦後の第一次ベビーブーム、その人たちが親となって生じた第二次ベビーブームによって国力が増大したことは否めない。

結婚と子作りが限りなく同義になっているような時代だったのだろう。

そして、第三次ベビーブームが訪れることはなく、結果として日本は少子高齢化という課題に苦しむことになった。

人が生まれることをブームと表現することは倫理的に何だか違う気もするが、生殖活動が社会的要因や環境要因の影響を受けたことは容易に想像がつく。

その後、必ずしも全てに当てはまらないけれど、結婚と子作りが同義として扱われていた不文律は破綻したと考えて矛盾がない。だから、第三次ベビーブームは生じなかった。

当時の行政が適齢期の若者をいかに軽く扱っていたのかを、国の衰退という形で実感することになったわけだ。

世帯収入は増えず、税金は値上がりし、環境が良くなってもいないのに、こんな状態で子供を育てろだと、ふざけるなという怒りもあるのだろう。

さて、何度も記しているが、私は以前、長時間の通勤地獄に加えて家庭内で妻が暴れ、義実家との関係にも悩むというという状況の中で、感情を失ってバーンアウトを起こした。

今から振り返ると大変なことだったが、当時は帰宅恐怖症のようになっていた。ドアを開けるだけで苦しくなった。

深夜に仕事から帰宅して、夫婦の寝室に入った時点で心拍数が上がり、眠れない日々が続いた。

バーンアウトの要因は様々だが、他の精神的な疾患と同様に大きなダメージを生じるのは睡眠時間の不足だ。

ただ単に眠る時間が短くなってしまうという話ではなくて、自分で眠ろうとしても眠ることができない、あるいは寝付いたところですぐに目が覚めてしまうといった事象が、少しずつ精神を削り取ってしまう。

多くの父親たちが経験したと思うのだが、結婚前に女性と出会って床をひとつにした時、この時間ができるだけ長く続けばいいのにと感じたことだろう。

そして、この人とずっと連れ添って生きていきたいと考えて結婚して籍を入れ、しばらくは幸せな日々が続く。

ところが、途中からそれが普通のことになり、子供たちが生まれると、夫婦とはその部屋で一緒に寝る同居人のような存在になりはしないか。

そもそも、夫婦が同じ部屋で寝ることが善で、別の部屋で寝ることが悪なんて決まりはないわけで、むしろ距離を取ったほうがストレスが少ないことだってあるだろう。

子作りのステージは終わったわけだし、いつまでも夫婦で寄り添う必要もないだろう。まあ、それは夫婦仲にもよるが。

バーンアウトを起こした時、妻はどの程度深刻に捉えていたかは分からないが、家庭の窮地だと私は思った。私が働くことができなくなったら、この家庭は経済的に傾くはずだし、夫婦関係すら破綻する。

ちょうどその頃、子供から風邪をもらって寝込むことがあり、別室で私だけが寝ることになった。

おおこれは素晴らしく快適だと、回復した後もひとりで眠ることにした。

ひとりで寝ると、眠りがとても深くなり、バーンアウトの症状も少し軽くなった。

なるほどそうかと思い、何だかんだと理由を付けて、夫婦と子供の寝室から布団を持ち出して別室で眠るようになり、最終的な目標である物置部屋で眠るようになった。

よしこれは間違いないと確信を持った私は、物置部屋を片付けてそこに小さなテーブルとノートパソコンを置き、座椅子を置き、趣味の自転車を置き、着替えなども集め、少しずつ寝泊まり可能な書斎をつくることにした。

水や補給食も揃えて、いざ夫婦仲が荒れて食事をとれなくなっても、浦粕市内に出たくない日でも、しばらくは引きこもっていられる小さなスペースができた。

イメージとしては、ネットカフェの個室を大きくした感じ。

このスペースをつくり始めた時には、もちろんだが「どうして、引きこもるの!?」と、妻からたくさんの指摘を受けた。

しかし、このまま精神が追い詰まると家庭が危うくなると思ったし、家庭内別居と言われたとしても、こうするしか手立てがなかった。

私は聴覚過敏があって、妻が甲高い大声を上げると耳が痛くなる。ということで、この部屋に入ってドアを閉め、高性能な耳栓を付けることにした。

すると、自室がネットカフェ状態になってよく眠れる。

当時、私の睡眠時間を削ってしまっていたのは、朝に妻が起きてきてドタンバタンと開け閉めする冷蔵庫や食器棚のドアの音だった。

人には二種類のタイプがある。ドアを閉める時に最後まで丁寧に閉める人と、途中で手を離して慣性でドアを閉める人。

妻は後者なので、動くたびに大きな音を立てる。その音で私が目を覚ましてしまって眠れなくなる。

往復3時間の長時間通勤で睡眠時間はギリギリの6時間が精一杯だ。その前に起きてしまい、4〜5時間睡眠になるような日々が1年近く続いた。その疲労は少しずつ蓄積していたのだろう。

夫婦関係としては何とも異質ではあるのだが、家庭内別居とはいえ、自室を出れば妻と会話をするし、もちろんだが休日は山のように溜まった掃除を中心とした家事を黙々と続ける。

それぞれの夫婦には、それぞれの距離があって、それぞれの価値観がある。夫婦は必ず同室で寝るべきだとか、常に以心伝心であるべきだとか、そういったスタイルが合わない夫婦もあると思う。

結婚式では、夫婦となった男女が永遠の愛を誓ったりするわけだけれど、結婚とはそんなに簡単な話ではない。

そのタフな状況に耐えられなくなって離婚する男女は多く、そもそも他人だった二人が互いを理解し合って連れ添うこと自体が難しいことなんだと思う。結婚とは恋愛ではなく、社会的な制度なんだ。

私の場合には、ASD傾向があるからなのか、他者が同一の空間にずっと居続けることに疲れてしまうのだろう。なので、狭くても自分だけの空間で時間を過ごすことで思考をリセットすることができるのかもしれないな。

自室にこもったところで、ネットで浮気相手を探してメッセージを送っているわけでもなく、スピンバイクに乗って汗を流したり、好きな音楽を聴いたり、休日には明け方まで映画を見続けたり、夫婦の営みが減ったので自家発電で処理するとか、その程度のこと。

結果として精神的な負荷が減り、夫婦の対立も少なくなり、妻としては「ああ、このような人なんだ」と諦めてくれたと思う。

今となっては、妻としても、子供たちとしても、父親は自分の部屋に閉じこもって生活して、何かあると巣から出てくるという感じの扱いになった。

かといって、夫として、父親として、道義的に反することをやっているわけでもない。

休日に出かける時にはロードバイクの上に乗っているわけで、妻以外の女性の上に乗っているわけでもない。

そもそも我が家では夫のヘソ下のトラブルは皆無だ。

私の携帯電話やスマホは、妻がパスワードを知っているので中身をチェックすることができるし、別に何らやましいことがない。

あるとすれば、このブログで陰鬱な遺書を残していることくらいだが、妻にはすでにバレている。

そもそも、妻だけでも手間と時間と金がかかって疲れるのに、他の女性にそれらをかけるくらいなら、私は趣味のロードバイクに金をかける。

思秋期の気の迷いで魅力的な女性に出会い、そこで箍を外して煩悩と快楽の淵に溺れるというオッサン的な妄想がなくはないが、実行に移すと極めて面倒だ。

実際に淵に落っこちたオッサンたちの姿が醜くも無様すぎる。

それと、私が出勤する時には、自室のドアを全開にして家を出ている。私が帰宅するのは深夜になるので、妻も子供たちも自由に自室に入ることができる。

昭和の男子中高生のように、成人雑誌を布団の下に隠すようなこともないわけで、たまに飲み過ぎたハイボールの空缶が並んでいることはあるが、家族に対して隠し事をしない。それが私なりの不器用な流儀だ。

ということで、妻が洗濯物を自室の中に入れておいてくれたり、下の子供が内緒で自室に入ってスピンバイクをいじっていたりもするが、特に気にならない。

併せて、子供たちから見ると、トイレや入浴、食事以外は書斎に入ってしまう父親がとてもおかしな存在になっていることだろう。友達からそれぞれの父親の話を聞くだろうし。

普通の父親なら、自分から子供たちに近づいて、「最近はどうだい?」と尋ねたりもすると思うのだが、私は基本的に子供たちに構わないことにしている。

子供たちを無視しているわけではないが、自分の価値観をあまり押しつけてしまうのもいかがなものかと。

電気を付けっぱなしにして放置するとか、妻から言われた勉強をせずに遊んでいるとか、そういった時には注意するけれど、たとえ子供たちが塾の試験で失敗してもそのままにしている。

妻が塾での勉強について熱くなっている時に、父親まで熱くなると子供たちの逃げ場がなくなる。

しかし、激しく消耗しながら自宅に帰ってきて、休日になっても狭い自室に閉じこもって快適そうにしている父親は、子供たちからするとおかしなオッサンなのだろうな。

しかも、子供たちが私の書斎に入ることを禁止しているわけではなくて、ノックをした後には自由に入っても構わないというルールになっている。

長時間通勤という背景もあって、平日は子供たちと接する時間は極端に少ない。

子供たちとしては、いつも一緒にいる母親に対するフラストレーションもあるだろうし、小学校に通っている中で同級生や教師たちに対するフラストレーションもある。

そのような時、休日に子供たちが私の自室に入ってきて、悩みごとや近況を話してくれる時がある。

子供たちの目線は時に真っ直ぐだったり、時に伏し目がちになったり、成長に伴って色々と考えているのだなと実感する。

父親になって良かったと感じる時間でもあり、普通の父親でいられない自分の情けなさを感じる時間でもあるな。

普通の父親って、このようなことをしなくても、自分で子供たちに語りかけて話し合うのだろうか。

ごめんな。普通の父親になれなくて。

この部屋は、私の避難場所であり、回復のためのカプセルのようなものだ。私が潰れたら家庭は傾く。

素になって考えると、私にとっては六畳一間の風呂トイレ共同の物件だな。しかも光熱費や水道代、通信費は全て私が負担している。

同居人が血の繋がった子供たちとその母親という、我ながら歪な考えだけは抜けない。しかし、その距離感があるからこそ遠慮が生まれ、妻や子供たちに対してより我を減らして接することができる気がしなくもない。

そういえば、流行病の影響で夫がテレワークで自宅にいる時間が長くなり、夫婦仲のテンションが上がって互いに苛立つことが増えたというニュースを読んだことがある。

私の場合にはテレワークがあまり増えなかったが、そもそも自室に引きこもって生活しているので、夫婦同士のテンションは全く張らなかった。

永遠の愛を誓ったにも関わらず、男女が同じ空間に居続けて互いにフラストレーションを溜めて苛立つという現象は、論理的に考えると矛盾がある。

しかし、結婚という行為は、形式的あるいは儀式的な要素が大きい。恋愛の延長で互いに愛し合っている夫婦なんて、私は出会ったことがない。

互いに思うところがあって、互いにイラッとすることがあって、けれど我慢して、それが夫婦なんじゃないかと思う。結婚してからの期間が長くなれば苛々して当然だろう。

その際に互いのストレスを生じるのは口から発する言葉だな。逆に考えると、心の中で「コノヤロー!」と思っていても口に出さなければ相手に伝わらない。

物理的に夫婦の距離を離して、言葉が伝わらない状況にするという手段も有りなのかなと思ったりもする。

さて、着地点が見つからない今回の独考だけれど、夫婦になれば子供が生まれても密に連れ添って、互いに気持ちを合わせてひとつになるという不文律は、本当に正しいのかという話だな。

家庭内で夫婦が距離を取ったら、やれ仮面夫婦だ、やれ家庭内別居だと、善ではなくて悪だという風潮があったりもするが、その指摘って、本当に正しいのだろうか。

社会的な風潮として夫婦は密になって当然だという考えがあって、それに従って夫婦は互いを理解してナンボだと話し合って、途中から議論が熱くなって喧嘩が始まって、ナンダコノヤローと対立して、結果として修復不能な対立になったり、不倫に走って離婚することもあるわけだ。

結婚とは恋愛の延長線上にあっても、恋愛の変化系ではなく、あくまで社会的な制度を背景にしたものだと思う。

夫婦が生殖のステージを終えて共同で子供たちを育てるというステージに移行する時、夫婦の考え方が違ったり、互いを理解することが難しくなることはありうる。

そもそも他人だったわけだし、結婚前はペルソナ全開で好き好きビームを発していたわけだから、互いの短所を見ずに長所ばかりを見ていたことだろう。そして、結婚してからの時間が長くなればなるほど、長所ではなくて短所が気になるという以下略。

結婚して子供が生まれて、夜の営みが減って、そこからが本当の夫婦の関係なんじゃないかと感じたりもする。

家庭を持って子育てを続けていれば、様々な不満や葛藤があって当然で、そのような時にはあえて夫であるとか、父親であるといったことにこだわらずに、開き直ってひとりになることも大切なのかもしれないな。

夫婦としてあるべき姿とか、夫としてあるべき姿とか、父親としてあるべき姿とか、そういった偶像って誰が考えたのだろう。

まあ確かに理想的かつ模範的な父親像はあったりもするわけだが、ほとんどの人が達成できていないだろうし、無理をして倒れてしまう人や家庭に影響するような方向に舵を切ってしまう人もいる。

夫婦の数の分だけ夫婦の形があるだろうし、それらをまとめてひとつの方向に引っ張ること自体に無理があるんだよな。

という偉そうなことを考えながら、相変わらず書斎に引きこもってハイボールを飲みながら、ブログを書いたり映画を見て、可能な限りHPを回復させようとする自分がいる。

「この人のことは理解することが難しい」と妻や子供たちが呆れて諦めてくれたことは、裏を返すと私の大まかなことを理解してくれたという解釈になりはしないだろうか。

家族であったとしても全てを理解することは難しいだろうし、ほとんどを理解し合っている家族とは、何だか気持ちが悪くないか。かなりの共依存だと思う。

開き直ったところで、これからロードバイクのメンテナンスでもやって、明日に備えて眠ることにしよう。